五十八

 美弥は夜を越した。


 香流も、銀正も。

 二人とも生きて、混迷極める修羅場に、朝日を見た。

 そして日の出と共に飢神の波はゆっくりとではあるが沈静化に向かい、国ごと沈むはずだった昨日は、淡い夢幻と消えた。



 当初の予想より早く、昼を迎える前には隣国からの援軍が美弥に至り、事態は飢神の掃討戦へと移った。

 美弥防衛に尽力した全陣営はそれを以って隣国援軍へと美弥の守護を一時的に委任し、ほとんどが疲労困憊の体で休息へと倒れ込んだ。

 国崩しを耐えきった城下は異形と人の死屍累々の山が築かれ、ひどい惨状だった。

 人側にも被害は多く、銀正が望んだように全てで夜明けを迎えることはできなかったが、それでも国ごと沈む結末を回避できただけ、幸運――――いや。

 全ての人間が生き足掻いたことで勝ち取った正当な明日を、迎えることができた。

 こうして歴史の一幕に沈むはずだった国は生き延びた。

 全ての者が払い合った、危機に臨むという犠牲を対価に、夜明けを迎える権利を手に入れたのだった。






 *






 国崩しの翌々日。

 騒乱明けの前日も鎮静化ために走り回っていた香流と銀正は、この日になってようやく腰を落ち着ける少しの時間を得た。

 交代で指揮に立った真殿に送り出されて避難区域の城へ至れば、避難していた人ごみの中から、人影が二つ。

 二人を見つけたように香流たちを指さして駆けてきた。


「香流様ああああ!!」


「阿由利殿、苑枝殿!」


 人影は阿由利と苑枝だった。

 城下の女子供は美弥離脱の途についていたはずである。

 だが高位の狩士の家の者は、一部が美弥に残っていたのだ。

 阿由利は走ってくる勢いのままに香流へ抱き着くと、ぼろぼろと涙をこぼして声を震わせた。


「香流様! 御無事なのですね? 生きておられるのですね?」


「はい、生きておりますよ。 阿由利殿も、御無事でよかった」


「屋敷から引っ立てられてそのまま、このような騒動になって…… わたし、私は……」


「私もてっきり阿由利殿は外へ行かれたと思ったので、会えてうれしいです」


 しゃくり上げる体を大切に抱きしめて香流が優しく言うと、


「この子も出すつもりでしたよ。 しかし、あなたを置いてはいけないと聞かないものですから、私預かりで残したのです」


 あとから駆けてきた苑枝がいつもの調子で説明をくれた。

 しかしその顔色は疲労の色が濃く、いつもきっちりとまとめられている髪も乱れ気味だ。

 ただ表情だけは深い安堵を漂わせ、戻った香流と銀正を胸を押さえて見つめていた。



「……お二方とも、よう御無事で。 おかえり、なさいませ」



 想い極まるように苑枝は言い、香流と銀正は自分たちを心から労わるその迎えの言葉に、


「ただいま、戻りました」


 万感込めて頭を下げた。

 その様を香流の腕の中で見ていた阿由利は、ぽろぽろ零れる涙を拭い、そして。

 あっと気が付いたように香流の腰にある刀を見つめた。

 香流は阿由利の視線を察すると、「ああ、」ときまり悪げに飢神の体液で汚れ切ったそれを体の陰に隠した。


「これは……」


 香流が言い淀めば、阿由利と苑枝は何もかも知っていると言いたげな顔で香流を押し止めた。


「隠さないでください。 もう全て知っています。 避難者の対応をしていた狩士様方が教えてくださいました」


 阿由利は刀を握る香流の手に両手を重ね、じっと香流を見上げた。


「狩士様だったのですね……」


「……ごめんなさい、ずっと黙っていて」


「いいんです。 生きていてくださったのなら、それだけで」


 阿由利はそう言うと、またぎゅうと香流を抱きしめた。

 その確かな温かさに、香流も再び小さな背に回した手に力を籠める。

 そして、阿由利の肩を掴んで離れ、苑枝と二人に向かって一礼。

 身の上を明かした。


「改めて名乗らせてくださいませ。 私は狩人の隠れ里、左厳一門が狩士、左厳義任流香座。 五老格推挙の花嫁として、右治代家当代に輿入れして参りました。 一方で、」




「右治代当代右治代忠守様を、私自身の比肩として相応しい御人かどうか、見極めるためにこの国に参りました」





 香流の明言に、聞いてきた三人は息を飲む。

 特に左厳の名を今聞いたばかりだったらしい苑枝と阿由利は、


「左厳家……って、」


「あの噂に聞く狩士一門の……?」


と、驚きと当惑の入り混じった顔で目を交わした。


 そこへ、


「い、いや、ちょっと待ってくれ!」


 銀正が慌てたように割り込んでくる。

 香流が「はい?」と首を傾げると、銀正はひどく戸惑った様子で問いかけてきた。


「あなたは、最初から私を比肩とするか見定めるためにこの国へ来たのか……?」


 茫然と言う銀正に、香流は頷いて答えた。


「はい、五老格様直々の御命令でございました。 私が所属している崩渦衆の狩士は、比肩を持ちません。 しかし、私は真人に至ったばかりに崩渦衆から除籍を命じられ、それをいい機会と、五老格様方に比肩を選別することを勧められたのです。 それと同時に、私自身を渦逆から引き離すのに、遠方への出向の話が上がりました。 それでどこへ行くのがいいかと思案の末に、あなた様に白羽の矢が立ったのです。 あなた様はそのお年でも未だに比肩を定められておりませんでしたし、五老格様方は美弥の内情を探りたい意向があった。 思惑の一致というわけです」


「結婚は、偽装だったのか……?」


「いいえ、どちらでもよかったのです。 結婚相手として相応しくなくとも、比肩として認めれば比肩となればい。 その逆もまたしかり。 どちらの面でも上等な御方であれば、両方求めればいいと五老格様にも言われました。 ……しかし、」


 そこで一度言葉を切り、香流は束の間逡巡してから続けた。


「正直私は、結婚も比肩の話も、承服しておりませんでした。 できるなら里に戻り、崩渦衆として渦逆の関守の勤めを続けたかった。 ――――ただ、課せられた間者としての責などを考え、押し隠していただけなのです」


 でも、



「今は、あなた様に出会えてよかったと思っている」



 そう言って目を緩めれば、銀正がぎくっと肩を強張らせて目を見開いた。

 その目がなにか居心地悪そうに空をさ迷うのが香流は寂しくて、着物に縋りついたままの阿由利から離れると、銀正の前に立って花綻ぶように笑って言った。


「あなたは、私が今まで生きてきた中で、一等美しい人だから。 ずっとその芯の眩しいのを見ていたいと、思ってしまったから」


 だから。

 香流は想いを重ねるように言葉を切って、強く求める目で銀正を見上げて願った。


「私に、あなた様の肩をくださいませんか? そして、私の肩をその対価として許して下さい」


 この左厳義任流香坐を、


「あなたの比肩にと乞うた私の願い。 生き抜けばお答え頂戴したいと申した私の想いを、どうか、」


 汲んで、


「今、答えを頂戴してもよろしいか?」









「え? 待ってください??」


 突然声は上がった。

 互いに集中していた香流と銀正ははっと目を見開いてその主を見る。

 まるでひどく仰天したように声を裏返らせていたのは、阿由利だった。

 若い侍女は信じられないものを見るが如く、自分が仕えている男女を交互に見ると、


「香流様はもう当主様に、比肩の打診をしていらっしゃる? それで当主様は、それを保留にしておられる……?」


と疑問を呟いた。

 それに香流が肯定の意で頷くと、阿由利はゆっくりと横の苑枝に目を向け、二人で一つ瞬き。

 香流が首を傾げ、銀正が嫌な予感に汗を垂らしたところで。

 二人は瞬間、襲いかからんばかりに銀正に詰め寄り、叫んで言った。



「坊ちゃま!! 夫婦になる前に比肩とは! そこは正式な婚姻が先でしょう!? 何をぐずぐずしておられるのです? 今すぐ…… 今すぐ祝言の準備を!!」


「当主様はおバカ様なんですか!? あの香流様が比肩となってくれと申しているのに、なに尻込みしているんですか? 保留? 理解できません!! そこの答えは『はい』一択! 『はい』一択!!」



 逆上した猫。

 いや。

 冬眠明けの熊並みに荒れ狂う形相で、女たちが銀正を揺さぶる。

 銀正はその剣幕に青ざめながら、「待て!! 待ってくれ!!」とじりじり後退した。

 周囲を通り過ぎていく狩士たちが「なんだなんだ」と好奇の目を向けているが、女たちの興奮は静まらない。

 終いには「今ここで答えを出さねば、右治代家の歴代記(=家の記録)に『八代当主は優柔不断で甲斐性のない腰抜け野郎だった』と書き込んでやる!」と脅迫の様相を呈しだした。


「どんな脅しなんだ、それは!?」


「事実でしょうが!! それが嫌なら男を見せなさい!!」


 じりじりと距離を詰めながら銀正を追いつめる二人に、銀正も負けじと反発したが、にべもない。

 ついには城の壁際に追い込まれ、まるで借金取りに責め立てられるように、結婚と比肩の確約を迫られ始めた。


「さあ、今ここで言いなさい! 香流様をめとると約束しなさい!!」


「ついでに比肩としてもお迎えして、香流様は正式に右治代と懇意に! これで終生、私と香流様一緒にいられる!! きゃぁ素敵!!」


 なにか別の思惑も聞こえないでもないが、そこは割愛。

 呆気に取られて立ち尽くしている香流を尻目に、右治代の主従は言え、言わないと問答を繰り返した。

 追い詰められた銀正が壁に張り付いたまま、ぶんぶんと首を振って二人の要求を拒絶すると、その煮え切らない態度にしびれを切らした苑枝がだんと足を踏み鳴らした。


「一体何をお悩みになって決断なさらないのです?! なにか香流様に御不満でもあるのですか?」


 あれほど熱烈に求められて、何が不満か!?


 苑枝の言に、一瞬銀正は詰まった。

 香流もはっと息を飲んでその問いに気を取られる。

 盲点だった。

 確かに香流はまだ、銀正が香流の求めを嬉しく思っているのか、迷惑に思っているのか、その点を確認していない。

 正直香流は今まで、想いの向かうままに銀正に心を打ち明けていた。

 だが、実際ところ銀正がそれを喜んでくれているのかは、まだ知らない。

 刀の技量を、疑われてはいないはずだ。

 銀正はこれまでの死地で、香流を信じると言ってくれた。

 だから託したし、託されてきた。

 しかし、手を取り合って生死の境を共にしたこれまでも、あれはその時の状況のため仕方なくと言われればそれまでで。


 銀正が真実香流の想いを嬉しく思って居てくれていないなら、全ては香流の独りよがり。

 それを瞬時に悟った香流は、痛みを覚えだした胸の内に眉を顰めながら、銀正を見つめた。

 実際、銀正は香流とともに死線を乗り越えてはくれても、比肩の求めだけは難くなに答えを渋る。

 ということは、銀正は危機に際し香流の命を案じる心はあっても、特別な位置にはおきたいと思ってはいないのかもしれない。

 つまり銀正の香流への想いは博愛に近しく、彼の大勢へ向けられる広い優しさの一部でしかない、ということ…… なのかもしれない。

 銀正は、特別な位置に香流を置きたいわけではないのかも。


 それに思い至って、香流は小さく俯いた。


 銀正は、香流が銀正をの望むようには、香流を想ってくれていないのかもしれない。

 それは、


「(それでは、意味がない……)」


 咄嗟に思い浮かんだ言葉に、香流は瞠目した。

 意味がない?

 何が?

 何にとって、意味がないというんだ。

 銀正が香流のことを多くの一人として慈しんでくれていたとしても。

 最終的に狩士としての腕を買って比肩として選んでくれるなら、それでいいはずだ。

 そこに向け合う想いの違いなどさして意味がないだろう。

 銀正は香流の命を惜しんでくれるし、香流も銀正を惜しむ。

 それだけで。




 ……でも自分のその想いは、



 銀正に対してとその他とで、同じ形なのだろうか?




 命の重さは同じとしても。

 その命を想う心は一緒のものか?




 香流は思考する。

 けれど、どこかでその考察は行き詰る。

 分からないと、ぼやけてしまう。

 なのに、心の奥底。

 深い場所に流れるものだけが、止めどなく進んでいく。

 なにかの答えに、行きつこうとする。

 見下ろした先。

 抑えた胸元に、香流は唇を小さく震わせた。


「(私は、)」





 銀正が多くと同じように自分を見ても、心満たされるのだろうか?


 ただ、狩士としての技量だけで望まれて、それで浮かばれるのか?







 不意に、顔を上げる。

 真っ直ぐに見上げた先、琥珀の目が、香流を見ていた。

 その目が、ただ香流を映す。

 あの色が、他と同じように香流を見ても。

 きっと。


 自分は、



「(足りない)」





 無意識の呟きに息を飲んだ瞬間、





「取り込み中か?」


 突然割りこんできた声に、香流たちはびくりと肩を上下した。

 四対の目が、ばっと振り向く。

 するとその先、一人の男が、幾人かの人を連れて立っていた。


「近衛組の……」


 香流が呟けば、城を守護していた近衛組の頭領が冷たい目で四人を眺め、最後に銀正に目を止めて言った。


「聞きたいことがあってきた、美弥守みやのもり


 そう端的に言うと、近衛頭領は背後の一人を目で呼んだ。

 それは香流たちが城の開放を願った役人の一人だった。

 どうしたのだろうと香流が戸惑っていると、近衛頭領はその男を迎えながら、冷然と告げた。






「騒動の前に、この役人から聞いた。 …………貴様、あの国主の間の惨状はなんだ?」






 あっと、香流は息を飲んだ。

 そして瞬時に全てを察する。

 城の開放を願うとき、香流は役人たちにもう二つ、頼み事を残していた。

 それは、国主の間の惨状を誰にも見せないことと、生き残りの上格たちを地下牢に入れること。

 それを、この役人は近衛頭領に言ってしまったのだ。


 咄嗟に香流は口を開きかける。


 あの時知ったこの国のこれまでと、あの時の全てを釈明しようと。




 しかし、




「それに関しては、全て私がお話します」



 唐突に横から伸びてきた手に、押し止められる。

 瞠目した香流は、その人を見た。

 その人は、銀正は、ただ真っ直ぐに近衛頭領だけを見て、静かに言った。





 やっと、何もかも、明かす日が来たと。

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