三十三
破談。
脳裏に過った文字に、香流は視線を落とした。
なぜと、無意識に続きそうになった声は、わずかな理性で噛み殺す。
そんな明白なこと。
聞くまでもないと、冷えた思考は熱のない声で告げていた。
だが、銀正は香流の考えを読んでいたのだろう。
香流殿と呼びかけながら、ゆっくりと首を横に振って言った。
「こちらの勝手の上に恐縮だが、どうか勘違いはしないでくれ。 破談の願いは、あなたが間者であったからとか、ましてや、あなたの何かが気に入らないといったようなことが理由では、決してないんだ」
言っただろう、『あなたがお相手でよかった』と。
穏やかな否定に、香流は詰まる。
ではなぜ。
なぜ破談などと、と知らず身勝手な思いが湧き上がってくる。
「なぜですか、御当主、」
握りしめた拳に、
「まだ私は、あなた様の芯を見定めきっていない……」
例え間者としての役目を裏に負ってはいても、私はあなたが生涯のお相手たるか、それも同時に見定めに来ていたのだ。
それだって、本当だった――――なのに。
なのにまだ、私はあなたが自分にとって信置くに足る人か否か、判を下していないのに。
私たちはまだ、道半ばだというのに。
それでも。
それでも、あなたは、
「この縁を切ると、申されるのですか……?」
「香流殿」
再び呼ばれた名が、それ以上の言葉を咎める。
銀正が、無言のうちに呼んでいた。
どうか聞いてほしいと、願っていた。
今日まで、銀正を
だとすれば今その呼びかけを拒絶するのは、卑怯以外の何物でもない。
「(だめだ。 私は、聞かねばならない)」
どれほど嫌だと心が逃げても、この人がこれから告げるものに、自分は向き合わねばならぬ。
例えそれが二人の縁切りを前提にする話だとしても。
香流は向かい合わねばならないのだ。
だから。
握りしめた拳を見つめ、腹をくくる。
身の内で聞きたくないと弱弱しく首を振る身勝手は、一呼吸の内に押しつぶす。
銀正へ向かう想いの全てを底に沈め、瞬き一つ。
香流は決意を固めて、ぐっと顔を上げた。
正面切って見据えればそこに、寂しく笑う琥珀の目。
香流の受容に安堵する心が揺れていた。
「私の話、聞いて下さるだろうか……?」
優しい確認に、香流は深く頷く。
「そのために、ここへ私を呼ばれたのでしょう」
香流の嘘を許し、その上でなにか、どうしても伝えなければならないことがあるのだろう。
ならば。
その想い、正々堂々聞き届けるが、己の誠意。
「お話、一体なんでしょう」
澱む思いを振り切り、香流は真っ直ぐに背筋を正した。
そのしなやかな強さを
そして、
「お頼み申し上げたいことがあるんだ」
率直な声で、切り込んだ。
「内容は」
返す刀で問うと、銀正は懐からいくつかの文を取り出した。
そしてこれらを差し出し、そこにある墨文字の宛先を示して見せる。
「明日、あなたにはこの国を訪れる五老格の使者の前で、私と共に婚姻の破談を表明してもらいたい。 その後、それを理由にこの国と縁を切り、使者の一団と美弥から出国してほしいんだ」
「そしてどうか外に、これらの文を届けてほしい」
「――――なぜ、
文の宛先をすべて確かめた香流は、眼光鋭く問う。
受け取ったそれらの宛先は皆、美弥近隣諸国の狩司衆守護家当主へのものだったからだ。
その上、宛名の横には狩司衆において最重要文書の証明となる朱色の押印までされている。
だとすればこれらは、各国の
おいそれと信用のない者に託していいものではない。
これらの文たちを、ただの小娘である香流に頼む
「それはこれらの文が、この国をもうすぐ襲う窮状を各国に知らせるもので、」
そして、
「私には、それを外に届ける力がないからだ」
手の中の文の存在を指先に確かに感じながら、香流は思考する。
そして次の質問を絞り込んだ。
「この国を襲う窮状とは?」
沈黙が落ちる。
銀正は目元を厳しく強め、視線を
問いは銀正にとって答え辛いものらしく、香流はまたですねと目を細める。
この人は、秘することが好きだ。
だが、今回ばかりは香流も詳しい説明もなしに、
この等級の文書が必要ということは、例えば、国が傾くほどの大事が起こりかけているといったような、特級の非常事態が美弥を襲っているという宣言に等しいからだ。
見かけ上、穏やかなこの美弥に、一体どんな危機が潜んでいるのか。
その説明もなしに伝送の任を受けることは、流石の香流も承服しかねた。
「御当主。 これほどの重要書類を預かるのです。 それなりの事情を明かしていただかねば、私としても任を請け負いかねます」
この件で自分を動かしたいのなら、相応の理由を明かせ。
でなければ話はお断りすると、香流は厳しく挑む。
その応答も一応、予測してはいただろう。
だが銀正は一瞬惑い、小さく口元を動かしてから押し黙った。
それから何事かを決めた様子で、真っ直ぐに香流に視線を返してきた。
「……今からする話は、下手をすれば私のこの国への背信行為の宣言だ」
「!」
「だが今の私は、なぜその背信を行わなければならないのかという、理由を証明できるものを持っていない」
そう言って腰の刀を解いた銀正は、鞘ごとそれを香流に向かって差し出した。
思わず両手で受け取れば、琥珀の目が「だから、」と香流を貫いて光る。
「この刀をお預けする」
深く覚悟を決めたような声に、香流は銀正の意図を察する。
「御当主、」
「もし、あなたが少しでも私にこの国とあなたへの不義の心を認めたら、」
香流に皆まで言わせず、銀正は告げた。
「その刀で私を切っても構わない」
「……正気ですね?」
ああ、確かに正気だろうと思いながら、確認のために聞く。
銀正は確かに頷き、常より張っている警戒をいとも簡単に解いて見せた。
この距離だ。
これで銀正の命の灯は、いつでも香流には落とせる。
つまりこの人は言外に、これからする話の証明に、自分の命を懸けると言っているのだ。
これはなにか相当な話をされるのだろうと察した香流は、怜悧な視線で銀正を見据えた。
「私程度の立場で
五老格推挙の立場とは言え、ただの小娘の香流に対して、相手は大国美弥の守護家当主。
あまりに立場に違いがある。
刃傷沙汰ともなれば、銀正を悪とする証拠もなく切った香流は、確実に罪人だ。
だが、
「切ることにはならない」
静かに断じる声に、香流は目を細める。
銀正は澄んだ眼差しで、明朗に言った。
「私はこれ以降、偽り、
だから、あなたの手が汚れることにはならない。
これは、命にかけて嘘は申さないという、誓い立て。
必ず真実だけを話すという、覚悟の証明。
「…………」
わすかな睨み合いのあと、香流ははぁと息を吐いた。
そして、まったく我ながら無粋なことを聞いたと額を押さえ、再び顔を上げる。
「……いいでしょう。 あなた様にここまで言わせたのだ。 私も罪負う覚悟で立ち会わせていただく」
あなたが無防備な首を差し出して下さったのだ。
切ることはないだろうなどと、
「あなた様が、下手をすれば背信の宣言だと言った話。 そこに少しでもあなたが悪徳の心を見せれば、」
慣れた手つきで
「その首、
無音の内に鯉口を切った。
その様を安堵の目で見つめ、銀正は頷く。
「ああ。 覚悟の上だ」
そして、「……すまない。 ありがとう」と続けて、頬を引き締めた。
向かい合った二人は、引き合う一本の糸の上に互いの覚悟をかけて、話し合いの土俵に上がる。
その立ち合いは、水辺を波立たせる風。
枝葉を
最初に口火を切ったのは、銀正だった。
「まず、その文は察しの通り、この美弥の危急を伝えるためのものだ」
手の中の封を示して告げられたのに、香流も理解していたので「危機の内容は?」と応じる。
すると銀正は「それを正しく理解していただくために、まずはあなたに
「あなたは現在の美弥狩司衆の力量と、それに対する国内の業人の規模をどう見た?」
銀正の切り込みに、香流は束の間、押し黙る。
思考が走り、脳裏に祭りの日に確かめた美弥狩司衆の人員数と、戦闘の様子が去来した。
そして、それらが守る、この国の業人の数。
思い描いた全てを慎重に秤へかけ、それらから浮かび上がる違和感へ、すっと眉を寄せた。
「貴国狩司衆の練度は、確かなものとお見受けします。 決して地力のないものではない。 ですが、今の美弥の実情は……」
「おそらく『
香流の言葉尻を拾った銀正。
そこで告げられた『不言の約定』という言葉に、香流は無言で頷いた。
*
飢神の
それは、飢神をおびき寄せる原因である業人を国が抱え込める量を、その国が擁する狩司衆の規模によって制限するという、暗黙の決まり事である。
業人の練の気配は、飢神を寄せ付ける。
国が業人を多く抱え込めば必然、多くの飢神の脅威にさらされることとなるのだ。
だから、各国は身の程を弁えた民の数だけを守る。
これが古くから『不言の約定』と
*
能力ある業人は、国の宝だ。
だがそれは、脅威を誘う、香わしき花と同じ。
だからどの国も、守り切れるだけの業人しか受け入れない。
自身の力量に見合った宝だけを守る。
それが嘉元国の陰の常識なのだ。
そしてこの話を前提とするなら――――この国はあまりにもおかしすぎるのだ。
前に接触した仲間内の間者も言っていた。
『飢神に関してもおかしな点が』
『外の連中が言うには、どうやら美弥に近づくにつれて、異様に飢神が少なくなるらしい』
『これだけの業人を抱えていながら…… こんなことは異常だ』
そうだ。
この国の――――現在の美弥狩司衆の規模で守る、この国の業人の母数を思えば、これらは、
「その二者は、明らかにつり合いが取れていない」
滝の水音にかき消えてしまいそうな断定に、銀正は何も言わなかった。
その事実は、知識ある者なら一目で看破するであろうと分かっていたから。
それだけ、美弥狩司衆の実力とこの国の現状には
香流の答えにため息を吐いた銀正は、手の中の弁当を脇に置き、腕を組んだ。
「この際なので白状するが、実は祭りのあの騒動も、あなたが看破していた通り、全ては狂言だ。 この国の歪を隠すため、仕組まれていたものだ」
「まさか…… 美弥狩司衆の力を、人々に印象付けるための?」
香流の確認に、銀正は「やはり
「祭りの人出に加えて、今この国には、常より多くの間者が入っている。 それらに見せつける必要があったのだ。 この国は、これだけの宝を守るに足る実力があると」
この国の狩士と業人の均衡に、おかしなところはないのだと。
それは、明らかな意図ある
美弥という国は、それだけの何かを抱えて成り立っているという証拠。
おそらく銀正が隠したがってきた何か。
その何かと根を同じくする闇。
香流の中で、美弥に対する違和感が肥大する。
疑惑に揺れだす香流の目を確認した銀正は、追従して更なる思考を香流に求めた。
「美弥の業人の数と、飢神の脅威のつり合いが取れていない事実は、あなたも今の話で分かっただろう。 だとすれば、何らかの理由がない限り、この国がこれだけの業人で腹を膨らせて、飢神に食われていない証明ができない」
「それに、先の飢神騒動も冷静になればおかしすぎる。 あれだけの飢神が、外の村々に派遣されている狩士たちの目につかずに国の中心まで侵入してくるなぞ、馬鹿げた話だ」
「どうしてこの国の膨大な練の気配に、飢神は誘われない。 どうして誰にも見つからず、飢神の群れはこの国に侵入できた?」
「私は、その答えを知っている。 それらはすべて、目に見えないもので隠されていたからだ」
静かな断言に、香流は押し黙った。
理性は、ありえないと
だが、今まで香流が感じてきた疑問と現状という事実を糧に、直観が容赦なく断じていた。
『この話には、少なくともいくらかの真実がある』と。
「……して、今の話とこの文書は、どういった関係があります?」
先走りそうになる思考を押さえつけながら、香流は文を振って見せた。
それに銀正は慎重に言葉を選んでいる様子で、きつく手を組んだ。
「――――こんなことを言えば、あなたは私が狂ったとでも思われるかもしれぬが…… その見えないものは、ある一人の『法師』の力によって成り立っている」
『法師』という単語に、香流はピクリと肩を揺らした。
鋭敏になっていた思考が、急速に記憶を掘り起こす。
祭りの日、香流は『法師』と呼ばれる存在を見た。
その相手はこの国の中枢である国主の隣に座し、尊敬の色に染まる衆目を集めていた。
記憶の奥で、阿由利が言っていた言葉が繰り返される。
『香流様は、外からいらっしゃいましたから、御存じないのですね』
『何年か前にこの国にいらした法師様ですよ』
『なんでも、渡来の神通力を修めておられ、この国を飢神の脅威から守ってくださっているのだとか』
『ですが実際、あの御方がいらして以来は、美弥が飢神の襲撃を受けることは、格段に少なくなったそうですよ』
『真偽のほどは分かりませんが、ありがたいことです』
「あなたも名前は知っているはずだ。 城に
「明命という法師が、この国を飢神の脅威から守っている」
「それは……」
事実かと、不信がる思いが
今の銀正の言葉を信じるなら、今この国は狩司衆の力ではなく、たった一人の人間によって守られていることになるのだ。
そんな、まさか。
つい零れ落ちそうになった声より先に、「だが、あなたはそれを信じるか?」と銀正は切り返してきた。
「……信じる、信じないなら、正直な所信じたくはありません。 あまりに馬鹿げた話ですから」
香流は、己でしかと確かめたものだけを信じる。
だから、証拠のないこの話を、おいそれとは受け入れがたい。
そんな香流の性根を承知していたのだろう。
銀正は「だろうな」と、静けさを帯びた顔つきで続けた。
「だが、これは真実だ。 誓った通り、私は嘘は言わない。 少なくとも、奴がこの国を守っているからくりを、私は知っている」
「そして、これらを踏まえたうえで、あなたの問いだ」
『美弥に訪れる危機とはなんなのか』
その答えは、
「そう遠くないうちに、明命の力はなくなる。 つまり、この国を守る加護が失われるんだ」
となれば、美弥に訪れる危機は一つ。
「『国崩し』」
それは、口にするも
嘉元の民が最も恐れる、国の終焉だった。
*
過去。
嘉元国には、あまりに多くの業人を内に抱えたために飢神が群れなして押し寄せ、国が崩れていった事例があった。
以後、その忌まわしい先例をこの国の人々は恐れや自戒を込めて、《国崩し》と呼んだ。
施政に関わる者なら必ず回避しろと教え込まれるそれ。
『不言の約定』が人口に
*
銀正は香流の答えを是とし、重々しく頷いた。
「そうだ。 この国には、国崩しの危機が潜在的にあるのだ。 そして明命の守護の力が失われれば、確実に多くの死人が出る。 それも未曽有の規模の。 美弥は、長きに渡る歪な平穏の代償を払うこととなるだろう。 だから、」
「この文を外に届ける必要があるのだ」
思考が線を結びだす。
美弥の狩司衆と業人の不均衡。
この国を一人守っている法師の存在。
近々その法師の力がなくなるという話。
次々と明かされる情報にめまいを覚えながら、それでも香流は冷静を保った。
銀正は香流の手の中にある文を示して続ける。
「ここには、《その時》がきた場合、各国狩司衆に美弥を守るための狩士の派遣と、国内の業人たちの保護を求める請願を書き記してある。 そしてこれも、」
そう言って、銀正はもう一つ、文を取り出した。
端正な字で狩司衆筆頭五老格宛てに記されたそれを香流に渡しながら、銀正は力のこもった声で言う。
「五老格様にも、このことで助力をお願い申し上げる。 この話には、言った通り、確固とした証拠がない。 だが、確実に起こる話だ。 あなたには無理を申すが、どうかこれを届けるだけでなく、必ず各国の狩司衆と五老格方を動かしてほしい」
「……なんの物証もなく、各国狩司衆の協力を
難しい顔つきで香流が応じても、銀正は揺らぐことなく首を縦に振った。
「分かっている。 だが、なんとしても頼みたい。 此度の婚姻で五老格様方が推挙したあなただ。 中幸家は、相当の名家と
銀正の言っていることは、あまりにも無茶な要求だった。
だがこの人の性格で、これらの頼み事を
事は余程喫緊で、確実に現実のものとなるのだろうと、香流はいつの間にか思ってしまっていた。
なぜなら、今までの会話に、銀正は一切の嘘の気配を見せなかったからだ。
「見かけ上なんの異常もないこの国だが、おそらく五老格様方はそうは思ってらっしゃらない。 婚姻という手段であなたを遣わせたのだ、以前からこの国に放っていた間者づてに、なんらかのおかしさは感じてらっしゃるだろう」
だから説得にまったく勝算がないわけではないと断ずる銀正に、
「なぜ、明命殿の力は失われるのです」
香流は国崩しに至る要点を指摘した。
その反応も銀正の読みにあったのだろう。
すぐさま答えは返った。
「私が、明命を討つからだ」
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