二十七

「ぃぃぃいやああああああ!!?」



 突如上がる、甲高い悲鳴。


 昼に近づき、朝の勤めの慌ただしさが静まった右治代の奥座敷。

 その端っこにある香流の自室から、声は発せられていた。

 会照寺から帰ったばかりの香流、銀正。

 二人が正座してうつむく前で、悲鳴の主はわなわなと全身を震わせて叫んでいた。



「か、顔! 顔にっ 香流様のお顔にいいいいい!!」



 震える指先で香流を示すのは阿由利だ。

 その横で何も言わずに溜息を吐いているのは苑枝。

 二人に相対して並んでいる香流と銀正は、益々ますます気まずげに体を縮こませる。



「なんですか、なんなんですか、その傷はあああああ!?」



 香流の目元に残る傷跡を凝視して、阿由利は叫ぶ。



「やはり、私も…… 私も昨晩、付いて行くべきでしたあああああ!」



 香流様をお一人にするのではありませんでしたあああああ! と半狂乱で泣き叫ぶ。


 ――――彼是かれこれ四半刻、この状態である。








 事は、それこそ四半刻前。

 道場から戻った銀正と落ち合い、自室に送ると言われて二人で香流の部屋に戻った所から始まった。


 当初、部屋にたどり着いた二人は、中へ上がって今日のことで二、三言葉を交わしていた。

 鈴をもらった香流はそれについて再び礼を言い、朝早くからお付き合いいただいて、ありがとうございます、と頭を下げていた。

 そんな折だ。

 話していた二人は、何やら遠くからバタバタと騒々しい足音が近づく気配に気が付いた。

 その上、足音に付随して、ぼんやりと苑枝の叱責も聞こえる。

 どうやら、だんだんと近づいてきているらしきそれらに、二人は「おや?」と目を見合わせた。

 そして見つめ合った目は、そろって開かれた広縁の方へ動く。

 その時である。



『香流様あああああ!!』


『『!!?』』



 大音声だいおんじょうの騒々しさで、何かが部屋に飛び込んできた。

 よく見ればそれは乱れ髪の幼い侍女――――阿由利である。

 幽鬼もくやとばかりに鬼気迫るその形相に、不意を突かれた二人は、瞬間ぎょっと立ち竦んだ。

 一体何事!?

 同時におののく二人に、ぎっと香流を視認した阿由利は、素早く距離を詰めてその体にすがりつき、滂沱ぼうだの涙を流しながら捕まえた肩を揺さぶりだした。



『香流様、香流様、香流様あああああ!!? ご、ごぶ…… 御無事だったのですかあああああ!? 阿由利は、阿由利は…… 昨晩からず、ずっと! ずっとご心配申し上げて…… 申し上げていたのですよおおおおお!?』



 がくがくと尋常ではない力で香流を前後させる阿由利。

 壊れた首振り人形のように頭がもげそうになる香流に、固まっていた銀正は仰天した。

 流石の香流もこれにはたまらず、懸命にぶれる声を張る。



『あ、阿由利殿、ちょっと待って…… ちょっと、お心を落ち着けて!?』



 なんとか激情の闖入者ちんにゅうしゃなだめようとするが、まったく耳に入らぬのか、阿由利はおいおいとむせび泣いて答えない。

 それどころか香流の襟元を掴んでいた手を腰に回すと、獲物を逃した獣のような咆哮を上げて、万力の如く香流を締め上げ始めた。


『ぐふっ……』


 内臓が飛び出そうになるのを、青い顔でこらえる香流。

 横で一部始終を見ていた銀正は呆気にとられつつも、何とか二人の間に割って入ろうとしてくれていた。

 だが力の制限がなくなったような阿由利はてこでも動かず、香流は瀕死、阿由利は号泣、銀正茫然で、右治代において類を見ない、混沌とした惨状が出来上がる。


 その頃になってようやく、阿由利の後を追ってきた苑枝が部屋に至った。


『これ、阿由利殿!』


 あまりの惨状にすぐさま叱責を飛ばしてくれるが、まるで効き目なし。

 阿由利は、小さな体のどこら辺にそんな力が? という勢いで香流を締め上げ続け、抱き着かれている方は、そろそろ吐き気を催し始めた(『あ、あゆりどの、もうむ、無理……!!』)。

 見かねた銀正と苑枝が阿由利を引きはがそうとするが、


『こ、香流様……?』


 この時、はっと何かに気が付いたらしき阿由利が、いきなりガクッと動きを止めた。

 そのあまりの急転に、銀正と苑枝は驚いて阿由利から手を離してしまう。

 それが悪かった。

 自由になった阿由利はわなわなと震え、そして。



 ――――絶叫。



『どうしたんですかあああああ、その傷はぁあああああああ!?』



 そして、最初に戻るのである。







「……どうも、昨晩から香流様を御心配申し上げすぎて、なにやらこう…… らしくて」


 朝、お二人がいないと知ってからずっとこうなんですと、苑枝が嘆息する。

 ちらりと、俯いた先で顔を見合わせる香流と銀正。

 それは…… と眉を下げた香流は、号泣する阿由利を見上げて、弱りきった顔をした。



 そういえば阿由利とは、弓鶴の使者に呼ばれて別れてから、一度も顔を合わせていない。

 当夜。

 弓鶴の香流への仕打ちを知っていた阿由利は最初、誘いに乗ってはいけないと香流がついていくのに強硬に反対していた。

 そして、行くなら自分も一緒に行くと言って聞かなかったのだが……

 そんな阿由利を、香流は半ば無理やり置き去りにして、使者について行ってしまったのである。

 折も悪いことに、昼間の騒動で心配をかけた後だ。

 残された阿由利は、それこそ気が気じゃなかったのだろう。

 これは自分にも非がある。

 幼い彼女の心中をおもんぱかった香流は、阿由利殿、とおずおず声をかけた。


「本当に…… 本っ当に、申し訳ありません、阿由利殿。 ずっと心配してくださっていたのですね。 心労絶えなかったですよね? 本当なら、こちらから無事でしたとちゃんと顔を見せに行くべきでした。 ちゃんと無事を伝えておかなかった私が悪かったです。 ですから、」


 どうぞ心を落ち着けて。


 ――――とは、言わせてもらえなかった。




「御無事ではないではありませんかあああああ! そ、そんなお怪我までなさって! 私が、私が一緒にいなかったからあああああ!」




 お一人で行かせてしまったからあああああ、と、泣きが悪化する。

 いかん、手を間違えたと縮こまる香流。

 横と斜め前で、銀正と苑枝は額を覆った。


 しかし、阿由利の狂乱は香流ばかりを狙い撃つだけではない。



「当主様!!」


「!? は、はい!」



 急に鋭く銀正を呼ばわった阿由利は、涙まみれの顔で銀正を睨みつけた。

 いきなり水を向けられた銀正はその剣幕におののき、ばっと姿勢を正す。


「わた、私は、当主様にも言いたいことがありますっ」


 まなじりを吊り上げて、ばしばしと膝を打ち叩く阿由利。


「さ、昨晩、私は狩士様方に止められて、香流様を追いかけることが叶いませんでしたっ! だ、だから、当主様に香流様を迎えに行ってくださるよう、お頼み申し上げたのです! それなのに、それなのに……」


 ぐっと盛り上がる涙。

 銀正は及び腰で、顔をひくつかせた。




「一体、どういう体たらくですかこれはあああああ!?」




 涙腺決壊。

 ひどい音圧が三人を襲う。

「これっ 当主様ですよ!?」と、なんとか苑枝が阿由利を羽交い絞めにするが、阿由利はものともしない。

 尻尾を踏まれた猛虎ばりに両手を振るい上げて銀正を威嚇している。

 銀正は「す、すまなかった」と、ひきつりながら距離を取ろうとして固まってしまう。

 見かねた香流も「阿由利殿、どうどう!」と宥めようとするが、「馬扱いいいいいい!」と叫ばれて終わった。



「わた、私だって…… 私だって! 香流様をお守り申し上げたかったですのにっ できなかったから、当主様にお頼み申し上げましたのに! なのに、なのに、」




「香流様を傷ものにするとはなにごとですかあああああ!?」


「傷もの!?」




 ぎょっと目を見開いた銀正が、飛び出た単語に仰天する。

 そこへすかさず苑枝が、


「これっ その言い方は誤解を招きます!」


と、叱責。


にそのような甲斐性があるわけないでしょう!」


「!!?」


 思ってもみない流れ弾。

 雷に打たれたように硬直する銀正。

 そんな男の心情など気づかない香流と苑枝は、二人がかりで阿由利を抑え込みにかかる。

 三人がもつれ合う後ろで、崩れ落ちた銀正は頭を抱えてうずくまった。


 打ちひしがれる当主の有様など気づかない女たちは、その後もしばらく、一悶着を続けたのであった。





 *





 結局、えぐえぐとしゃくり上げる阿由利に昨夜からの経緯けいいを正直に話し、香流は誠心誠意心を込めて土下座した。

 それでようやく心を落ち着けた阿由利は、今は苑枝に伴われて茶の準備に下がっている。

 残された香流は、なにやらがっくりきている銀正と並んで、広縁に座っていた。


「いやぁ、私の配慮不足で阿由利殿にはご心配をかけてしまいました。 これからは気をつけねばですね」


 切り替え早く呑気に頷く香流。

 それにげっそりした銀正は「……是非とも、そうしてくれると助かる」と弱弱しい。


「もう、余波を受けるのは遠慮したいからな……」


 虚ろな目で遠くを見る銀正に、香流ははてと首を傾げる。

 なにやら思うところがある様子だが、先ほどの騒動が何か気に障ったのだろうか。

 それはいけない。

 あとで阿由利共々、びを入れようと香流が一考したとき、


「そういえば、」


と、項垂うなだれていた銀正が、勢いよく顔を上げた。


「結局昨晩、あなたは母と、何の話をしたんだ」


 あの人は、何が目的であなたを呼び出したと、急に真剣な色を帯びた目を寄越して、銀正は問いただした。

 香流はそれにきょとんとまばたきを返し、それから記憶を探って難しい顔をした。


「そうですね…… 別に、これと言ってはっきりした話をしたわけではありませんよ? 昨晩も申しましたように、明命様という法師殿が私に会いたがっているとか、異国の伝説についてとか……」


「異国の伝説?」


「ええ、比翼の鳥という」


「確か、片翼ずつのつがいの鳥の話か」


「御存じでしたか」


「片翼のために、二羽一対でしか飛べないのを、仲睦まじい夫婦の例えとして使われる話だ」


「そうなのですか? 弓鶴様はその鳥の話を出されて、御当主と私は、まだ信を寄せ合うに足りぬ仲だと……」


 つまりは、


「どうにも、私と御当主との間に不信を抱かせ、わだかまりをおつくりになりたかった御様子で」


 香流の推察に、「蟠り……?」と銀正は眉間を険しくして腕を組む。

 そうしてしばらく考えると、唸りながら拳を額につけた。


「駄目だ、あの人の考えることは分からない。 一体、あなたをどうしたいというのだろう」


 あなたに執心があるのは、確かなんだろうが。

 香流は銀正の様子に目を伏せ、記憶を探って言葉を選んだ。


「……弓鶴様は、こうも言っていました。 御自分は嫁に来た遠き昔と同じ、この国に馴染めず一人きり。 この孤独、分かってくれるのは同じ身の上の私だけだと」


 香流は、鮮明に思い出した言葉を舌先で転がしながら、思考を進めた。

 今までの弓鶴の言動と、立ち聞きした下女たちの噂話。

 少ない断片を寄せ集め、御当主と呼びかけた。


「つかぬことをうかがいますが、弓鶴様と、御当主のお父上様は……」


 濁した言葉尻を正確に察したのか、銀正は寂しげな様子で視線を逸らした。


「父が亡くなったのは、私がまだ三つの頃だ。 だから、直接の記憶ではなく、昔を知っていた育て親である会照寺和尚からの伝聞でしかないが…… 私の両親の仲は、あまり良くなかったらしい」


 銀正の知りえる話によれば、他国から嫁いだ弓鶴を、二代前の当主は狩士としての職に邁進まいしんするあまり、ほとんどかえりみることがなかったのだという。

 そのため弓鶴を疎んじる祖母との仲をとりなすこともなく、子供のできないことを責められていた弓鶴は、誰も頼れず右治代で孤独に過ごしたと。


「当時父は、祖父が亡くなって右治代当主となったばかり。 役職の重責を一時いっときに負うことになって、他に目をやる暇などなかったのだろう。 だが、それでも父の母への無関心は傍目はためにも顕著で、二人の溝は深まっていったらしい」


 のちに二度、子をもうけるも、次子である銀正が生まれる頃には、弓鶴と夫との仲はすっかり冷めきってしまっていた。

 そうするうちに狩場で銀正の父は亡くなり、後を追うように祖母も亡くなった。

 嫁ぎ先の右治代に、何の縁故もない弓鶴一人を残して。



 銀正の内輪話に、香流は眉をひそめながら視線を落とした。

 今の話が真実なら、弓鶴はひどく孤独な日々をこの右治代で過ごしたのだろう。

 己の力だけではどうしようもない世継ぎ生みの責を責められ、頼れる唯一の人に捨て置かれ。

 それはどれほど心細い日々だっただろうと、遣る瀬無さが香流を襲う。


「だからでしょうか……」


 ずっと、孤独の中で生きていた弓鶴。

 だから、あの人は香流を誘ったのだろうか。

 自分と同じ立場の香流を、夫と同じ立場の銀正と仲違いするように仕向けようとしたのだろうか。


「だとしたら、なぜ……?」


 何のために、そんな寂しいことを望んだのだろう。


「恨み、だろうか」


 ぽつりと落とされた呟きに、香流ははっと顔を上げる。


「御当主、」


 見上げた先で、秀麗な横顔が険しい表情で遠くを見ていた。

 銀正は苦いものを含んだように歪めた口元を動かして言った。


「あの人はまだ、自分をかえりみなかった父を恨んでいるのかもしれない。 だから、同じように見立てた私とあなたの中を裂いて、留飲を下げたいのかもしれぬ」


 だとすれば、なんと傲慢な話だと、銀正は厳しい顔をする。


「ひどい扱いを受けていたとはいえ、あなたを巻き込んで自身の慰めにしようなどと、勝手が過ぎる」


「…………」


 銀正の苛立ちに、香流は顔を伏せた。


「(ちがう)」


 何かが違うと、思った。

 目の奥に、昨晩の激した弓鶴の形相が浮かぶ。

 あの人は言っていた。


『この心、この傷は、あの方以外に癒せはせぬ!』


『あの方だけが、私の比翼……!!』


 互いに信を置きあって飛ぶ比翼の鳥。

 香流自身の直観を信じるならば、弓鶴があの方だけと言ったのは、弓鶴の夫なのではないだろうか。

 だとすれば。

 そうだとすれば。

 弓鶴が夫をただ恨んでいるのなら、相手を比翼などという、言い方をするだろうか?


「(本当に弓鶴様は、ただ夫君を恨んでいるだけなのだろうか……?)」


 全ては憶測の域を出ない。

 あの人は、何を望み、何に苦しんでいるのだろうか。

 香流はただ、知りたいと思った。

 あの凍りついた炎の中で立ち尽くしているであろう弓鶴の心を知りたいと。

 どうしようもなく思っていた。

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