第76話 急性胆嚢炎5

 世界樹の第十二階層の断崖ともいえる急斜面を乗り越えた場所に、樹洞がぽっかりと空いている。他の場所では少量ではあるものの樹液が産出されていることもあって、それにより魔物をおびき寄せることになっているが、この樹洞にはそういった箇所はなくここまで来る冒険者たちが比較的安全に過ごすことのできるベースキャンプとなっていた。これより先は第十八階層にランスターたちがつくったベースキャンプがあるだけである。


「この先になると樹皮が人の身長よりも高くめくれ上がる箇所がかなり増える。その死角に魔物たちがいることが多いから気を付けろ」

「アレンはいつもどうやって切り抜けるんだよ」

「魔物に見つからないように隠密行動だな」

「えっ、でもこの人数じゃ……」

「まあ無理だろう。だから期待しているぞ、ノイマン」

「ちょ……」

「依頼主であるシュージが抜けた時点でこのパーティーのリーダーはお前なのだからな」


 肩をポンと叩かれるまでノイマンはその事を忘れていた。

 野営の準備といっても樹洞があるためにテントなどは必要ない。小さな焚火ができるように石が集められている。こんな石をどこから持ってきたのかというのは、ここをベースキャンプとして使うと決めたかつての冒険者たちが持ち込んだからに違いなかった。

 ノイマンたちは地面というべき幹から至る所に生えている小枝を追ってきて薪とし、火をつけた。ここまで持ち込まなくてもいいように、すでにベースキャンプには鍋などを共用のものとして用意してあり、水の魔法を使って洗ってから食事の準備を開始した。


「ねえ」


 その時ヴェールがつぶやいた。


「シュージ先生って、なんであんな事ができるの?」

「あんな事とは?」

「呪いを治してしまうことよ」

「……そういや、西方都市レーヴァンテインから来たっていうのは知ってるけど、なんで医者をやってるかというのは聞いたことがなかったな」


 シュージがユグドラシルへとやってきたその日にノイマンは急性虫垂炎の手術を受けている。レーヴァンテインからやってきたSランクの治癒師で医者、というのがシュージの肩書だったが、そこを深く追求しようにもはぐらかされてばかりな気がしていた。


「レーヴァンテインにも他にあんな事できる治癒師はいないわ」

「言われてみればそうだな」


 指摘されて初めてノイマンはシュージの事を不思議に思った。ヴェールの疑問はさらに続く。


「あれだけの技術と知識があったのに、今まで秘密にしてきたのかしら。どう考えてもシュージ先生が独自に開発したにしては知識量が多すぎるのだけども」


 何か学問の一門が何世代にも渡って引き継いできたものを学んで、初めてあの領域に至るくらいの知識量だというのだ。すでにノイマンの想像をかるく越えてしまっている。


「今までの魔法をただ単純に昇華させるのではなく、純粋な技術と知識と組み合わせることで呪いを治してしまう治癒師……」


 ヴェールは何を思うのか分からない無表情でそう言った。


「先生は治癒師ではなく、医者です」


 治癒師という言葉に反応して、それまで何も言わなかったミリヤが口を開いた。シュージ自身がこだわった職業である。


「それ、医者って、なんなの?」


 誰も、それに答えられるわけもなく、薪がパチンと音をたててはじけた。




 ***




 肝臓にはど真ん中に一筋の繊維状の構造物がある。それは胎児の頃にへそに向かう血管が退縮してできたものであり、肝円索かんえんさくと呼ばれる。腹腔ふくくう、つまりは腹の中の上部はこの肝円索が仕切りのようになっており、ヘソの右と左で分けられる。正中ではなく、やや左側にあるこの肝円索の右を手術するか、左を手術するかでヘソの右を切るか左を切るか決めるのだ。


「今回は胆嚢だから、ヘソは左側によけて切ってある」

「はい、先生」

腹腔ふくくうに到達するときに腸管を傷つけないように、腹膜は何度か持ち直す事。執刀と助手で交互にね。大丈夫だと思っても必ずやることがミスを減らすことにつながるから、めんどくさがらない」

「はい、先生」


 ローガンは緊張しっぱなしだった。僕も初めてやるときにはこのくらい緊張したかもしれない。しかもローガンは大学を卒業した医者ではなく、まだ子供だった。だが、できないとは思っていない。この手術を通して立派な医者に少しでも近づければと思っている。


「さあ、腹膜を切って」

「はい……」

「よし、到達した。僕が鑷子せっしを入れるから、この上を切っていくんだ」

「わ、分かりました」


 大きく腹部が切り開かれた。少量の血が出てくる場所は僕が電気メスを用いて止血していく。

 胆嚢摘出術にしてはかなり大きな腹部正中切開だった。だが、あとで魔法を使って治癒することができれば、手術の視野を確保する方が大事であり、そでが手術の難易度を決めると言ってもいい。誰がやってもできる視野を確保することがうまい人が、手術がうまい外科医と言われるのだと思う。手術の技術というのは手先の器用さ以外にも、こういったところにも表れる。


「よし、ご苦労様。交代しよう」

「あ、ありがとうございました」


 マスク越しにもローガンの顔が赤らんでいるのが分かる。少しは感動してくれたのだろう。これから、もっと大変な場面がくるとは思うけど、今回のことが役立ってくれればと願うだけだ。


「よし、引き続き助手をしてくれ」

「はいっ!」


 肝臓は右の上腹部に存在する。肝臓は主に食べたものの代謝を担っているのだが、それ以外にも胆汁の排泄というのがある。

 胆汁は基本的に脂肪を分解する酵素だ。肝臓で作られ、総肝管そうかんかんという管から総胆管そうたんかんという管を通って腸管に排出される。なぜ、管の名前が途中で変わるかというと、その途中から胆嚢管たんのうかんといよばれる管が分岐し、胆汁は一時的に胆嚢に溜め込まれるからだ。

 だから、手術ではこの胆嚢管ごと胆嚢を取り外す。ついでに胆嚢を栄養している胆嚢動脈も処理する。胆嚢管と、胆嚢動脈の処理が終わって切り離せば、あとは中身を破かないように胆嚢を剥がしてくるのだ。これを電気メスを使って行う。

 ちなみに総胆管そうたんかんがつまって胆汁が排泄されないとビリルビンという物質が体にたまって黄疸が出る。


「ローガン、ここをもってしっかりテンションかけて……そう、そのくらいのテンションを維持して」

「は、はい」


 まだまだ鑷子ピンセットの使い方が甘いローガンが助手であっても、胆嚢を剥がすくらいはできる。剥がすためにちょうどよい層があり、そこにを少しずつ切って剥いでいくのだ。肝臓に切り込んでもいけないし、胆嚢を破ってもだめだった。


「まあ、破けたとしても胆嚢の下にはガーゼを敷き詰めてあるし、今回は胆汁が少しくらい漏れても大丈夫なんだけどね」

「今回はってことは?」

「うん、だめな場合もあるよ。例えば胆嚢癌の場合は破くとがん細胞が飛び散ってしまう可能性が高い」


 がん細胞が飛び散った先で増殖を始めることを播種はしゅというが、そんなことになったら目も当てられない。それに胆汁は脂肪分を溶かしてしまうから、腹壁や腸管が腫れてしまう場合もある。


「よし、とった」

「おお」


 胆嚢を摘出した。胆嚢が肝臓に当たっていた場所からの少量の出血は電気メスで止めてから回復ヒールをかける。これで胆嚢摘出は問題なく終わった。


「さあ、それじゃあ閉腹だ」


 ローガンに持針器を持たせる。糸を結ぶのはもうちょっと練習してからだけど、縫っていくのはできる。多少いびつでも回復ヒールがある。


「よく見て、ここと……ここの層を合わせて縫っていくんだ」

「は、はい」



 ここまで手術は非常に順調だったが、ローガンの閉腹にはいつもの十倍の時間がかかった。




 ***




「シュージ、帰ったぞ」

「アレン。早かったね」

「これがユグドラシルスパイダーの糸だ。運良く第十四階層に出たのだ。ノイマンに担いで降りてもらってギルドで解体してもらった」


 アレンはすでに綺麗に束状にされている糸をとりだした。


「本当に今回はごめんよ」

「なに、仕方がなかったのだ」


 アレンの後ろにはノイマンとミリヤ、それにヴェールがいた。シルクとはギルドで分かれたらしい。


「それで、無事だったってことは注意していたこともなんともなかったんだね」

「ああ、そうだな。少なくとも変わったことはなかったぞ」



 後ろでミリヤと談笑するヴェールを見ても、人間に見える。だが、心眼を発動した僕にははっきりと体の中に存在する魔道具のようなものが、見えていた。

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