第71話 仮性脾動脈瘤6
「さすがにレナだね。明日になってたら間に合ってなかったかも」
僕はそのシグルドという男に心眼を使ってそう言った。近寄るとまだアレンに拘束されている彼の腹部に手を当てて強めに
「もしかして膵炎かもしれないと思ってね。たくさんお酒飲んでたみたいだし」
「うん、正解だ。でも半分だけ正解なんだ……おしい」
「え? どういう事?」
「酒の飲み過ぎによる慢性膵炎が発症しているんだけど、慢性膵炎はすぐに死んでしまう病気じゃない。彼が治癒師で常に自分に
どう説明しようか。僕の言葉をここにいる全員が聞いていた。
***
「おい、本当にやるのか?」
「ちょっとうるさい。つまみだしといて」
清潔を保たないといけない手術室の外からジャックの声が聞こえてくる。それなりに急がないといけなかったために説明は省いてシグルドを手術室に突っ込んだのだった。手術の事は他の誰かが説明したのだろう。腹を切るという説明を受けたジャックが反対しようとしたのだった。
さすがに手術室に入れることはなかったのだけども、その内邪魔でもしてくるのではないかという勢いだ。
「任せといてー」
外からシルクの声が聞こえる。シルクには頭が上がらないのだとかで、説得には適任だという事だった。それよりもこっちに集中しないといけない。
「レナ、大丈夫かい?」
「このくらいなら大丈夫。まだ予備の世界樹の雫もあるし」
「あんまり飲み過ぎてはいけないよ」
「分かっているわよ」
今日はレナは魔力を使いすぎである。身体の事を考えるとこれ以上の魔法は使ってほしくなかったけど、手術の時に麻酔科の位置に彼女がいるのといないのでは僕の負担が雲泥の差だった。
「
「このくらい大丈夫よ。それに町のことも息子のこともあるんだから、あの人も忙しいわ」
それもそうかと思いつつ、僕は少しだけレナが心配だった。それでも彼女は気丈に振る舞い、手術台の上のシグルドに
「メス……よろしくお願いします」
腹部正中切開である。
すでに腸管を見ても精神的にダメージをくらう人間は手術室には入っていない。助手をしてくれているミリヤやローガンだって、器械をだしてくれるサーシャさんも、外回りで助けてくれるノイマンも何度も見た光景だった。今回はマインも手伝いで入ってくれている。
専用の金属の板を入れて、腹腔内の臓器が見えやすくかつ操作を行いやすくする。
胃の下側から横行結腸にむけて続いている膜がある。このエプロン状の膜を
「見て、これが膵臓だ」
ローガンに横行結腸を優しく引っ張ってもらい、膜をピンと張るようにしてもらう。そうすることで
丁寧に丁寧に血管を二か所結んでその間を切る作業を続けた。少しでも血がでた部分は電気メスで
胃と脾臓の間の膜である
横行結腸
「ここからはかなり慎重にいくよ」
今までも慎重ではなかったわけではない。だけど、ここからはそんな次元の話をしているのではなかった。
病名は慢性膵炎、そして仮性脾動脈瘤である。
膵臓の裏には一本の血管が走っている。それは膵臓を栄養する血管でもあるが、最終的に脾臓に行きつくことより脾動脈と呼ばれていた。脾動脈は膵臓の裏側ではあるが、ほとんど膵臓の中を走行していると思えばよい。
飲酒を繰り返したことによってシグルドの膵臓は慢性膵炎を起こしていた。何度も何度も耐えられないほどの腹痛が起こっていたにも関わらず、禁酒することもなく自分で自分に
その効果は意外にもあった。
膵炎の進行は遅れた。しかし、それと同時に恐ろしい病気が産まれていた。
それが仮性脾動脈瘤である。
「ちょっとした事で大出血する」
本来であればこんな手術をする病気ではない。レントゲンで造影検査を行いながらカテーテル塞栓術を試みるのが妥当な病気だ。僕はかなり緊張している。少しでも間違ってしまうとシグルドは死んでしまうほどの大出血を起こしてしまうからだ。
脾動脈が膵炎からの炎症が波及したせいで血管が腫れ上がる事態に陥っていた。それは膵炎を繰り返すたびに徐々に血管そのものをもろく変化させていき、ある時に血管が破れたのである。
ただ、破れたのは脾動脈の膵臓側だった。周囲にもれた血液はある程度広がったあとに周りの組織に圧迫されてたまたまそれ以上は広がらなかった。いつ進行して大出血するか分からない。これが
動脈の
真性瘤は文字通り、血管が膨らんだ状態だった。大して仮性瘤というのは実際はすでに破れた状態である。血管の組織ではない他の繊維組織に覆われて、そこに固まった血がまるで大きな血管の内部のように形成された状態を仮性瘤と言った。繰り返すようであるが、すでに破れているのである。
だから、周囲の組織を剥がしている間にその仮性瘤に切り込んでしまうと、大出血を起こす。シグルドの場合は膵臓の尾側に仮性瘤ができているために、ここの周囲を剥がすのはかなりの危険を伴った。
血管内のカテーテル治療ができれば、この仮性瘤の中をコイルや薬で固めてしまうこともできたのだ。だけど、この世界にはそんなものはない。
「
通常よりも魔力を込めて、長時間の
だけど、仮性瘤は治らない。常に血液が流れ込んでしまっているために自然治癒力が働かないのだろう。
「仕方ない、膵尾部および脾臓の摘出に移るよ」
「はい」
幸いな事に、剥離部分はかなり近いのだが、切離を予定している部分と仮性瘤はすこし距離がある。慎重に慎重に剥離を続けて、僕らはついに膵尾部と脾臓をひとまとめにして切除した。成人の脾臓はその役割をほとんど果たしてしまっているために、摘出しても大きな合併症は少ない。たまに免疫が低下する者もいるが、シグルドの年齢ならば大丈夫だろう。
「断端に
「はい、
電気メスを使いながら心眼を発動させる僕に余分な魔力はない。これでもたまに補充が必要になるほどだった。
通常の手術であれば、この断端には膵管が通っているために膵液が漏れる可能性があった。膵液はタンパク質を溶かしてしまうために術後の膵炎になることもある。術後膵炎は重傷であれば命に関わることもある。
「念のために
かなり大がかりな手術になったが、なんとか成功した。副産物として、開腹して直接膵臓に
「手術終了、おつかれさま!」
僕がそう言うと、麻酔をかけていてくれたレナがへたり込んだ。やっぱりかなり無理をしていたんだと思う。
***
当初、つまみだされたジャックは文句を言っていたようだけど、内容を理解すると僕に対して感謝と謝罪をした。
ガルーダの襲撃から落ち着いたユグドラシル冒険者ギルドでロンやアマンダ婆さんと再会し、シルクにも怒られたことで冒険者ギルドの副ギルド長として復帰することにしたらしい。
それに引き換えシグルドはずっとすねていた。自分から治療をして欲しいとは一言も言っていないと言い張っているのだ。
「子供かよ、おまえ」
「ジャック、お前に言われたくない」
病室には毎日のようにジャックがお見舞いに来ていた。元気になったシグルドをみてうれしそうであるけど、ここにはサボって来ているらしく、すぐにシルクが連れ戻しにくるというのがお約束となっていた。
「ここは病気の人が治療をするところなんだから、入り浸ってるんじゃないわよ!」
「いや、お見舞いにきてなにがいけないんだよ」
夫婦喧嘩はよそでやって欲しいものである。シグルドもあきれてものが言えないというような顔をしていた。
そういえば、入り浸るといえば一人……。
「先生みたいな人、今まで見たことないわぁ……」
ヴェールが用もないはずなのにほぼ毎日顔を出す。レナには煙たがられているのだけども、気にした素振りもなく。
「あなた、何が目的よ!」
「え? それは先生よ。シュージせんせい……」
僕は彼女に何かしたっけ?
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