第32話 筋腎障害性代謝失調症候群 3
ラッセンという治癒師の挑発に乗って、カジャルさんだけではなくレナとアマンダ婆さんも激怒してしまった。だけど、僕らは喧嘩をしにここに来たわけじゃないし、挑発に乗っては相手の思うつぼだ。治療中に冷静さを失うわけにはいかない。
「カジャルさん、至急で治療が必要なひとの回復は終わりましたから、次の段階の人の選別をお願いします」
「む……分かった」
こういう時は徹底的に無視だ。相手の言い分を聞いている時間も惜しいという現実的な理由だってある。それに、逆に大人な対応をした方が後々は利益がある場合が大きい。そして無視するというのは挑発に対して反撃にもなる。
僕に完全に無視されたのが分かったのか、ラッセンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「調子に乗るなよ!」
「貴方も調子に乗る暇があったら手伝ってください。まだ魔力はありそうなので振り分けてもらいますね。あと、僕の魔力がなくなり次第、僕らは撤収しますので」
「なっ、なんだと」
「そういう話でここに来てますから」
そもそもここはダリア領であって、ユグドラシルの町の冒険者ギルド所属の僕たちには派遣されるような義務はない。あちらはノイマンたちのパーティーに難癖つけたかもしれないけど、それだってダリア領都から冒険者を派遣すればよいだけの話だ。
砦が撤収になった場合も、ここの兵士たちはダリア領都へと帰還するつもりなのだろう。ユグドラシルの町とは反対で、
こんな所からはさっさと撤収するのが一番良い。僕の対応を見て、カジャルさんもレナもアマンダ婆さんもひとまずは落ち着いたようだ。冷静になればこんな所で砦の治癒師と喧嘩なんかするくらいなら帰ったほうがよっぽど合理的であるのだ。
だけど、そんな仕事を急ぐ僕らの思惑とは裏腹に、アレンが数人の兵士たちを連れて駆け戻ってきた。
「シュージ、来ていたか!」
「アレン、大丈夫だったかい」
「ああ、それよりもこの兵を見てやってくれ、昨日から第一階層の奥に取り残されていたのを救出してきたのだ」
僕はアレンが担いでいた兵士を見てぞっとした。彼は右足の太ももの部分に大きな傷を負い、そこを仲間に止血されていた。但し、その止血の仕方が悪かった。いや、悪いわけではないけど救出するまでに時間がかかり過ぎていたのだ。
「これを縛ったのは、いつ?」
「昨日の朝だ」
仲間の兵が息も絶え絶えに言った。彼らも絶体絶命の状況下を潜り抜けてきたばかりで疲労が激しい。だけど、今はこの兵の処置が先だった。
その兵の脚の先は、どす黒く変色していた。全体的には青白い。傷を負った時に太い血管を損傷したのだろう。ここの位置だと
「どけ、お前らに任せられるか」
「いや待て、このまま治癒魔法をかけても治らない」
「ふざけるな。お前のような貧弱な
ラッセンが僕と彼の間に割り込む。彼は止血されて縛られている紐と布を取って
「
「それも
「
起こってしまえば治療には多大な労力を要する上に救命できないことも多い、必ず防がねばならない病態だった。しかし、止血していた血管の圧迫を解除するだけという行為で起こってしまうために、医療従事者であっても不用意な事をしてしまう事はある。
だけど、僕は嫌な予感しかしなかった。この異世界では
そして、その予防というのを周囲の人間が納得してくれるかと言うと説得する自信はない。短時間で、こんな状況で僕が信頼されるなんてことはないからだった。
「じゃあ、どうすればいいのだ? ん?」
ラッセンは、苛つきながら言った。僕はそう言われるのがすごく嫌だったけど、いつかは聞かれることである。しかし、この状況でこのタイミングで言うべきではないのだろうが、言わないわけにはいかなかった。
「足を、切断する必要がある。そうじゃなければ、死んでしまう」
一瞬、周囲の人間が僕の言ったことを理解できていないという空気が流れた。それはラッセンや兵士たちだけではなく、カジャルさんたちも含めてである。
「ぶっは、ふざけるなよ三流治癒師!」
「帰れ、お前のような奴に回復魔法なんぞかけてもらわなくてもいい!」
ラッセンと部隊長が同時に叫んだ。周囲の兵士たちも同じような感情を抱いたのだろう。僕を睨みつける兵士もいた。
「もういい、帰れ」
ラッセンはそう言うと、兵士の足をしばっていた布を外そうとした。僕はそれを止めようとしたけど、周囲の兵士たちに阻まれてしまった。布を取り除いたラッセンが
蒼白かった足に、血流がもどって赤みを帯びていく。
「ほら見ろ、良くなってくるではないか」
「はっはっは、ユグドラシルの町にはろくな治癒師がおらんのだろう」
レナとアマンダ婆さんが静かに怒っているのが分かる。それ以上にカジャルさんがアレンを抑えていた。さっきまでカジャルさんも怒っていたはずであるが、それ以上の怒りをアレンから感じとったのだろう。
しかし……、僕はこの期に及んでもこの兵士をどうにか助けられないかを考えていた。まだ、人工透析の設備は診療所にはない。それどころか、機械式のポンプがないから一定量の血流を吸い出すことができないのである。そして、人工腎臓に相当するものもなかった。原理が分かっても、それを作り出すことはできない。素材も分からない。そして、この状況で間に合うはずもない。
機械で行うことができないのであれば魔法はどうだろうか。製薬魔法をなんとか変化させて、血液中の老廃物や毒素を取り除くことはできないだろうか。しかし、できたとしてもおそらくは莫大な時間をかけた訓練が必要だろう。今の僕にできる自信は全くなかった。
「カリウムの除去が無理なら、グルコン酸カルシウムと同等の成分を投与し脱分極を阻止し……いやだめだ、まだ薬が出来上がっていない。ならばインスリングルコース療法でカリウムを下げつつ……インスリンならオーガの膵臓から抽出できるかもしれない……。高ミオグロビン血症で腎臓がやられる前に瀉血と輸血を行って……、ここにいる兵士の中で血液型が同じ人の全血を……」
だめだ、対応策があったとしても僕がここで動けないだろう。この周囲の兵士たちが僕の味方をしてくれるとはどうしても思えない。ならば、レナに頼んであの兵士とともにユグドラシルの町まで
「シュージ!」
考え込んでしまった僕の手を、震える手が掴んだ。華奢なその手は冷たかったけど、混乱した僕を暖かく包んでくれるような気がした。振り返ると、レナが怒りを押し殺しながら僕を見ていた。
「全部を救えるわけじゃないでしょ! 今、できることをしなきゃ」
「…………ああ、そうだね」
足を切断したとしても、彼を救えるかどうかは非常に微妙なところだった。それほどに衰弱は激しく、回復魔法だけでなんとかなるかと言われれば分からない状況である。そして、
非情ではあるけど、これはトリアージの考え方から言うと黒色、つまりは治療困難として他の優先度の高い人の治療を行うべきだろう。
言いたいことは山ほどある。そしてそれは相手側も同じであるという事も理解している。だけど、僕は僕が正しいと思っているし、相手は相手が正しいと思っている。そして、どちらが正しいかはこれからすぐに分かるだろう。
すまない、と僕はあの兵士に心の中で詫びた。僕が下がったのを見て、アレンもアマンダ婆さんも引いてくれたようだった。レナがあれだけ我慢しているこの状況で年上のアレンたちがわめくわけにもいかないのだろう。レナには感謝しかない。
その後すぐにあの兵士が死んだというのを聞いた。僕らはその頃には撤収の準備に取り掛かっており、結局はラッセンと話す機会はなかった。
「シュージ、嫌な思いをさせてしまってすまなかった」
「なんでアレンが謝るんだよ」
まだ、足りない。僕が思う医療を行うには、あの診療所では足りない。ある程度の事はできるようになったと思いあがっていた。逆にダリア領の兵士たちが僕を頼ってきていたとしたら、あの兵士を救えただろうか。設備さえ整っていればと考えるのは傲慢過ぎるのだろうか。
助けられたはずなのに、助けられなかった。
懐かしく、そして嫌な感情がこみ上げる。叫びたいのを堪えて、僕はレナの
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