第13話 慢性硬膜下血腫1
僕らの診療所の開業は、ソアラの破傷風騒動で遅れてはしまったものの順調と言えた。
ユグドラシル冒険者ギルド所属という形で始まった診療所である。冒険者たちが依頼から帰還した時の傷の処置から始まり、日々の不調などがあれば相談にきても格安で治療を行うという事になっている。その分、家賃はいらないし、患者の数が多ければ冒険者ギルドから補助金が出るという制度だ。この辺りはロンさんと話し合って決めた。
すでにノイマンやアマンダ婆さん、それソアラの呪いを治したという噂が広まっているようで、自分も呪いではないかと思った冒険者たちや、優遇はされないけど一般住民なども診察を受けようと訪れてきている。
「血が足りてませんね。血の元になる成分を多く含んだ食べ物を食べるといいです。動物の肝臓とか、緑の野菜とかですかね」
鉄分の話をしてもこの異世界の人間にはいまいち通じない。そのためにかみ砕いて説明する必要があるのだけれども、これはちょっと大変だった。それでも僕の言うことを聞いてくれる人も多い。必要ならば薬も調合する。
「あぁ、これはまずい。軽症ですが肺炎という病気です。薬を調合するんで一日に三回朝昼晩で飲んでください」
「えっと、この薬は何ですか? ごほっ」
「世界樹の雫です」
「ええぇぇぇっ!?」
「でも、これを飲まないと治らないどころか、ずっと悪くなるでしょう。お安くしときます」
あれからも定期的に世界樹の雫を採りに行っている。すでにレナが根っこの上を通るルートを確保したために、二日に一回ほど二人きりで朝に出かけるのが習慣となっていた。レナは意外とそれが楽しいらしく、根っこの上を通るときはご機嫌だったりする。グリフォンたちももう僕らを攻撃してこようとしてこない。だから
「
「でも、ここは魔力の流れが違うせいで
「まあ、そうなんだけど……」
世界樹の雫も大量に採ることができるわけではないし、保存も効きにくい。小屋の裏庭には各種の薬草を植えてあって、それを調合することも多かったけど、他にも必要な素材というのは多かった。
「シュージ! ヒカラビダケが市場に売ってたぞ!」
「おお、助かるよ。それじゃあ乾燥させるから調合室に置いておいてくれ」
「あぁ、分かった」
あれからノイマンとミリヤは僕らを進んで手伝ってくれている。主に薬や器具の素材を中心に採取に言ってくれているのだ。レナに
「そういや、ソアラが復帰したらしいわね」
午前中の診察が終わってレナが言った。この診療所には僕とレナの他にサーシャさんが来てくれている。これから三人でご飯を食べようと思っていたのだけども、サーシャは用事があるとか言っていつも昼休憩は家に帰ってしまうからレナと二人でギルドの酒場で食べることが多い。
「良かったね」
「シュージがいなかったら確実に死んでいたもんね」
「僕だけじゃないよ。レナだって
「それはそうだけど、やっぱりシュージがいないと治せなかったわよ」
ユグドラシルチキンはやっぱりローストで食べるのが好みであり、僕もレナも大好物となっていた。二人で酒場の食事をとる時は二回に一回はこれを頼む。そしてこれを食べている間はレナの機嫌は凄く良いのである。たまに褒められたりする。
基本的に診察は午前中のみである。午後はこれから必要なものの準備だとか、重症で入院している患者の診察や治療を行う時間として設定していた。だけど、今は入院患者はいない。
「ねえ、今日は何の準備が必要?」
「ああ、ちょっとセンリの所に行ってこの前のソアラの時みたいに尿道バルーンっていって、尿道に入れる管の固定をする風船の開発をお願いしようかと思って」
前回、尿道カテーテルを固定した時にはテープすらなくて太ももに縫い付けたのだった。見た目が痛々しくて、改良が必要であった。それに縫い付けるとどうしても血が出るし、感染とかの事を考えるとあまり良くない。
カテーテルの先に空気や水を入れて膨らむ
「また難しそうなものを頼むのね」
「本当は注射器もガラス製じゃなくてゴムとプラスチック製がいいんだけど」
「ゴム? プラスチック? なにそれ」
「ああ、この辺りじゃ手に入りにくい素材なんだよ」
ゴムの代用はスライムゼリーでできるとしてもプラスチックのように簡単に成型できて硬い素材というのは少なかった。これから開発が必要となってくるだろう。それまでは金属製やガラス製で代用する。
「それじゃ、またセンリにお願いしましょ」
「うん、そうだね」
***
「先に……? 風船が………あぁ、なるほど、管の中を通る穴が二つになるんですね。いや、むしろ大小二つの管を合わせると言った方がいいでしょうか」
「さすがセンリ。よろしく頼むよ」
次いでに尿道カテーテルだけではなく、気管切開に使ったチューブの先にも
「分かりました。数日下さい」
「いつもありがとう。それと、この前と同じ細くて小さい針糸があと何本か欲しいのだけども」
冠動脈を縫い合わせた極細の針糸である。針の根元に結び目をつけずに針に固定するという技術がどうなっているのかは僕には分からなかったけど、この工房はそれをやってのけた。おかげでアマンダ婆さんの血管は問題なく
「そ、それは……」
また同じような事があるかもしれないから、もう少し太さの違った針糸が欲しかった。他にも血管の吻合だけではなく、手術があれば使うかもしれない。
「ちょっと、無理かもしれません」
「え?」
センリがうつむきがちのそう言った。今まで、センリはこの工房のプライドにかけてもやり遂げるというような発言が多かっただけに意外である。特にこの針糸は以前注文して作ることができた物であったからなおさらだ。
「あれは、親方の調子がまだ良かった時に……」
「え? 親方さんって?」
「いえ、なんでもないです。とりあえずは挑戦してみますが、針糸に関してはなんとも言えません。他はなんとか作ってみせます」
そう言うとセンリは工房の奥に入って行ってしまった。
「どうしたのかしらね?」
「さあ、分からないけど……」
センリは親方の事を少しだけ言っていた。もしかしたらサントネという親方は体の調子が悪いのかもしれない。もちろんセンリが僕らを頼ってくれたら診察し、治療可能ならば治療することはできる。でも、この状況で工房の奥にまで立ち入るというのは何か違う気がした。
「とりあえず、帰ろうか」
「ええ、そうね」
センリから事情が聞けそうにないこの状況では仕方ない。どうしても針糸は欲しかったし、これからも道具はあの工房にお願いすることが多いだろう。僕らは一旦診療所へと帰ることにしたけど、誰か事情を知っていそうな人を探した。
「ああ、サントネはここ一か月、いや二か月か、調子が悪いらしい」
最終的に聞いたのはロンさんである。相変わらず冒険者ギルドのマスタールームには書類の山が出来上がっていた。これを全て今日中に目を通さなければならないと言っていたロンさんはむしろ僕らの訪問で、苦行ともいうべき仕事から短時間でも逃げることができると喜んでいた。隣には厳しい顔をしたギルドの職員が立ってこちらを睨んでいる。
「そんなに年でもないと思っていたんだがな、よく考えたら私よりも年上だ」
「どんな症状だとか、聞いてませんか?」
「ああ、物忘れが激しいらしい。あと、集中力がないとか、とにかく仕事は調子のよい日にしかできないらしい。身体自体に悪いところはなさそうだが、ああなってしまってはな」
「ああ、なるほど」
認知機能の低下、つまりは認知症の疑いがある。年齢は六十に差し掛かったところというから、かなり早い時期ではあるが全くないとも言えない年頃だった。物忘れの激しさとかが目立つということは、アルツハイマー型の認知症だろうか。認知症の進行を遅らせる薬というのはこちらの世界ではまだ見つけられていない。そして、それらは根本的な治療とは言えず、あくまで進行を遅らせるというだけだった。
「あそこに工房は非常に腕が良くてな。しかし、今は直弟子のセンリだけが残っている状況だ。これからどうなるかは分からん」
センリでも十分に工房としてやっていけるという事だったけど、それだと他の工房とあまり変わりがないのだとか。アマンダ婆さんの手術で使う器具の多くは調子のよい日にサントネ親方が仕上げたのだという。だが、その調子の良いという日がほとんどなくなってきている。最近は歩くのもおぼつかない時があるのだとか。
「歩くのが?」
「仕事なんて、ほとんどできない日が多いと聞いている」
「そうですか」
ギルド職員の視線に耐えられなくなって、僕らはマスタールームを出た。出る時に胃薬も渡しておいた。あれは、その内に胃潰瘍ができるんじゃないかと思うほどの仕事量である。
「もしかしたら道具の中でもできないものが増えてくるかもね」
「他の職人にお願いするっていうのはどう?」
レナの提案はもっともなものだったけど、僕はできる限りセンリにお願いしたいと考えていた。サントネ親方という人がどれだけ凄腕だったのかはよく分かったけども、直弟子であるセンリだって腕があがったらそのくらいになるかもしれない。
「とりあえずはできる道具を中心にセンリにお願いすることにしよう。針糸は当面は使う必要はなさそうだし、まだ二本残っている」
冠動脈バイパス術が必要な患者なんてすぐには出てこないだろうと期待する。もう少し太い糸であればセンリにだって作ることができるだろう。徐々に細くしてもらって、腕を上げてもらえば間に合うかもしれないし、他の方法を考えるというのも必要かもしれない。
「他にも欲しい薬はいくらでもあるんだよ」
「それじゃあ今日は市場によって帰る?」
「そうだね、家の裏の畑の世話もしときたいし」
市場で薬の材料となるものを買って、僕らは一旦診療所へと戻った。ロンさんの胃薬の材料はいくらあっても足りないのではないかと僕は思う。根本的に仕事量を減らしてもらわないと、治らないから厄介な病気なんだけど。
***
「インチキ?」
診療所の帰ると、一人の少年が訪れていた。診察は終わったとサーシャさんが言っているのに聞いてくれないし、どこが悪いとも言わないというから僕が応対したらそう言われた。
「え?」
「インチキなんでしょ?」
「えーっと?」
落ち着けシュージ。相手は子供である。
ブラウンの瞳に赤毛で短めに切りそろえられた髪型と、身綺麗な緑の服からはそれなりに裕福な家庭に育ったのではないかと思わせる。本当だったら優しそうな目をしているのだが、現在は僕を胡散臭そうな感じで睨んでいるためにこれっぽっちも可愛くない。
年のころは十歳程度だろうか。身長もそのくらいである。
「え、えっと、お名前は?」
「おれの名前はローガンだ」
「それで、ローガン君は何をしにきたのかなぁ?」
自分でも笑顔が引きつっているのが分かる。初対面でインチキよばわりされたとしても相手は子供であり、大人な対応をしないといけないのだがどうしようか。
「おまえはインチキだ。世界樹の雫がおまえなんかに作れるわけがない」
「なるほど、僕の診療所で処方している世界樹の雫が偽物じゃないかと思ったんだね。どうして?」
ローガンをよく見ると、少し涙目になっていた。これはちょっとした事情があるのかもしれない。インチキよばわりされた事は少し多めに見て、話をきいてあげるというのが大人だ。うん。
「世界樹の雫は、薬師のお父さんでも作るのがむずかしいんだ。治癒師なんかが作れるわけ……ひっ!」
急にローガンが何かに怯えた。
嫌な予感がして振り返ると、そこには両手に
レナさんや、さすがに子ども相手にそれはいかん。
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