第7話 狭心症5
「世界樹の雫……あれが薬として必要なのか?」
「そうです。それも代わりのきかないものです」
体にメスを入れる。そしてその状態が長く続くとなれば細菌による感染の危険性が高くなる。さらには胸部、とくに心臓の近くにメスを入れるとなると感染が起こったら命に関わる。基本的に皮膚っていうのは細菌感染に関してはものすごい防御機能を持っているのだ。
「世界樹の雫は第七階層以上でしか取れないらしいですからね。さらにはその場で製薬魔法を使う必要があると」
「ああ、そして効果が続くのは数時間と言われている」
だから僕らがそれを取りに来た時はレナの
実はあれはビタミンB1不足による「
しかし、僕はその時に世界樹の雫をすこし分けておいて分析した。そのためにその中の成分に抗生剤が混ざっているということを発見できたのだ。ちなみに劣化が早いのも事実であり、特に紫外線に当てるとあっと言う間に劣化してしまう。紫外線を遮断できる容器に入れておくと少しは違うのかもしれないけど、保存にむく薬ではなかった。
「製薬魔法は僕が使える。だけど僕とレナだけでは世界樹の第七階層までは登れないと思います」
二人だけで登っても登れるかもしれない。だけど、世界樹の雫を手に入れた時にはすでに疲労困憊だろうし、その後レナが
「分かった、私も同行しよう。前衛に立ってくれるものは残念ながらノイマン以上の者は今の所いなくてな」
意外にもロンはそう言った。ノイマンはユグドラシル冒険者ギルドの中では上位の冒険者だったらしい。僕もロンがついてきてくれるならレナの負担も減るし、そこまでノイマンにきつい仕事をせなくてもいいんじゃないかと思ったからそれで了承した。
問題はいつ取りに行くのかである。世界樹の雫を長期間保存させる方法はまだ確立されていない。数時間で効果が切れるところをなんとか二、三日伸ばすのがやっとである。だからこそ、手術の日に採りに行く必要があり、その場で製薬魔法を使いすぐに戻り手術を行う必要があった。
「他の物品の準備が整えば、できると思いますが……」
失敗なんて許されない。僕は頭の中でシミュレーションを繰り返す。だが、それでも現実に何が必要なのかはその場にならないと分からないかもしれず、どうにも不安が取れきれなかった。だからと言って、誰かで練習なんてできるわけではない。
それから僕は道具が出来上がるまで、様々な状況に耐えられるようにできる限りの準備を行った。
そんな中で手術の助手にミリヤが名乗り上げてくれたのは助かった。レナは魔法を使って患者を昏睡状態にしつづけなければならないのだ。手術に集中できないかもしれない。つまりは麻酔科医のポジションに入ってもらうため、助手がいるのは多いに助かる。
ミリヤにはどういう事を手伝って欲しいのかを説明した。手術を行う時には細菌感染をできる限り防ぐことを目的として、マスクと手袋、帽子、ガウンなどを着てもらう。その窮屈さに少しは慣れててもらわないといけないし、清潔だとはっきり分かっている部分以外は決して触ってはならないという事を覚えてもらわないといけない。なんとなく髪の毛を触ったりしてしまうと、そこに繁殖していた細菌が傷口から侵入してしまったりするのだ。細菌は目に見えないけど、至る所にいるのである。
「スライムゼリーでてきた手袋なんて…………」
「慣れてもらう必要があるんだよ」
マグマスライムのスライムゼリーというのは高級品である。そう簡単にマグマスライムは狩猟できるものではないし、それを日用品に使うなんて事はほとんどない。だけど、手術に使うのだから仕方がない。耐熱がなければきちんとした消毒なんてできる自信がないしね。
消毒には「オートクレーブ」という技術を使おうと思っている。これは日本でも使用されている技術で、高温の蒸気での殺菌になる。あまりきちんとした温度とか圧力を測ることはできないけど、要は圧力釜に器具を入れて炊くと思ってもらうと分かりやすいだろうと思う。たしか、百二十一度で二十分くらい圧力をかけると基本的に全ての細菌が死滅するのだとか。こっちの世界には抗生剤なんてほとんどないから耐性菌とかはいないと考えて、あまり正確にそれを実行する必要はないとは思うけど、何があるか分からないから最善を尽くすというのが日本の医療で、僕はそれを習って育ってきてしまっている。何があるか分からないというのは心配なので、念には念を入れるというのが当たり前なのだ。命を扱う、からな。
数日後、ほとんどの物品が準備できた。手術室の改装も目前である。
さらに、レナ待望の風呂が完成した。
「これでわざわざ銭湯に行かずにすむわね」
完成した風呂場の壁と床はマグマスライムのスライムゼリーでコーティングされれおり完全な耐水性が出来上がっている。浴槽に水の魔道具、換気に風の魔道具などそれなりに高価なものも使われていた。そのために湯を温める火の魔道具を買うことができず、結局はレナの魔法でお湯を沸かすという仕様になってしまっている。それでも魔法が便利であるために十分に使うことができるのだ。レナの機嫌が悪いとお風呂に入れなくなってしまう可能性はあるけど。
そのうち小屋も増築して外に出なくても風呂場とトイレに行けるようにできたらいいなと思っているけど、今はこれ以上は望めない。
「実際に使ってみて、不具合なんかがあったら教えてよ」
「分かったわ」
一番風呂はレナに譲ることにした。現在、手術室として改装されている部屋に不具合がでないかが心配ではある。一時間ほど待っていると、レナが出てきた。その顔を見ればとくに不具合なんかがなかったということはよく分かる。
「大丈夫だったわ」
「ありがとう、僕も入ってくるかな」
僕も風呂というのは嫌いではない。長風呂は苦手だけども、ゆっくりと温まると幸せになる。浴槽は十分な広さがあり気持ち良かった。シャワーなどはないので、浴槽のお湯を使って体を洗う必要があるけど、もともと
「御湯加減はどう?」
「ああ、ちょうど良かったよ」
風呂の外からレナの声がした。火の魔法をつかって浴槽の水を温めてくれたのは彼女なのだ。だから必然的にこれから先もずっとレナが一番風呂に入ることになるんだろうなと思う。そしてレナがいなければお風呂に入れない。
多少は黒魔法の勉強でもしようかと考えていると、いつの間にか時間が経っていてのぼせそうだったので出ることにした。
「いやぁ、お風呂いいね。寝る前にしっかり温まることができるってのがいい」
「そうでしょ? 絶対に欲しいと思っていたのよ」
それに手術室に応用する技術を詰め込んだ風呂場には特に不備は認められなかった。これならば現在改築中である手術室も十分に使えるものとなるだろう。今回のアマンダの手術が終わったあともあの建物を使わせてもらえないかな、なんて都合の良いことを考えてしまう。それはほとんどロンが杖を売って作った豊富な資金があるからできることで、僕らのお金ではあんなに立派な建物というのは買えないだろう。
「そう言えば、あのサンライズって杖は誰に売ったのかしらね」
レナがぽつりと言った。もしかしたら、レナはあの杖が欲しかったのかな?
数日後、準備がほぼ整ったという連絡を受けて僕らは出来上がった手術室に道具を運び込んだ。
もともとは何かの住居兼会社でもあったというこの建物の二階にはキッチンがついている。竈に火を入れて、そこに消毒の専用器具である「オートクレーブ」を設置した。綺麗な水を入れて、きちんと圧をかけた状態で炊くことができるのを確認する。
「こっちに濃度を調整した塩水を、……あ、その薬はこっちの棚に入れててね」
今回の手術で使う予定の薬やら点滴の準備も行う。消毒滅菌された状態の蒸留水にさまざまな薬や塩やらを入れて濃度を調節して作ったのだ。それは点滴がしやすいように加工された専用の瓶にいれてある。
手術着とか帽子、マスクに手袋、さらには手術器具の多くも滅菌処理が必要で、オートクレーブはこれから手術日までずっと使い続ける必要がありそうだった。さらにはその消毒済みの器具を置く場所にも気を付けなければならず、密封できる容器の中にそれぞれを入れていく。その作業も清潔な状態でやらなければならないために、最初は僕が行った。それをミリヤとノイマンが見ていて少しずつ手伝ってくれる。
いつの間にか二人は僕の助手のような感じになってしまっていた。助けてくれるというのは本当にありがたい。
「準備はこのくらいかな」
もうこれ以上は何を準備すればよいか分からないというほどに物品を揃えた。何が起こるか分からないから、予備の物もかなりある。汚れてしまったら破損してしまって、使えなくなりましたというのは許されないからだ。
「準備ができたか。あとは世界樹の雫を採りにいくだけだな」
いつの間にかロンが様子を見に来ていた。ギルドマスターとしての仕事もかなりの量が溜まっていると聞いているが、ギルドの隣の建物でもあるために比較的視察には来やすいようだ。
「まだ、大きな仕事が残っていますよ」
「なんだ?」
「アマンダさんの説得です。あれだけの魔力量がある人にはいくらレナでも
手術にはもちろん本人の同意が必要である。それは手続きとかのあまり確立していない異世界であってもだ。本人がやらないと言うのに勝手に拉致して失神させて手術を行うなんていうのは異世界であっても犯罪行為になる。
「たしかにな……」
「これはロンさんに協力を頼むしかありませんからね」
出会ったばかりの僕を信用してくれるかどうかは分からない。僕の処方した薬で
処方内容は血管を広げやすくするニトログリセリンを中心とし、尿をたくさん出して心臓の負担を下げるヒカラビダケも調合した。ギガントードの耳下腺は入れる必要がないと思ったけど、他にも血圧が下がりやすくなる成分の入った草とか胃の粘膜を保護してくれると言われている牛の魔物の乳だとかを製薬魔法で調合して入れている。
どれも単純に回復魔法をかけるだけでは治らない病気に対する薬だ。その薬が効いていればアマンダは僕の事を信用してくれるかもしれない。さらに、僕を信用したとして、手術しか治る方法がないと理解したとしても手術はしないという選択肢を取るかもしれなかった。
もし、アマンダが手術を拒否したら? 僕らは先にロンにアマンダの同意を得るべきだと言った。アマンダが首を縦に振らなければこの手術の準備が全て無駄になってしまう。だけど、ロンはアマンダの説得は最後に回して欲しいと言った。それで手術の準備が無駄になったとしても費用は負担するからと。
「え? なんでよ?」
「いや、分かりましたロンさん。最後にしましょう」
ロンは理由を言わなかった。レナには分からなかったらしい。だけど、僕には何となく分かる。患者の家族がこういった反応をすることは何度も経験してきたことだから分かるのだ。
ロンの心には若干の諦めが芽生えてしまい、それに罪悪感を持っているのかもしれなかった。アマンダが死を受け入れたときにロンはどうすればいいか分からず、不安なのだ。だからできるだけそれを先延ばしにしたいという気持ちがあった。だが、それは最終的に僕がアマンダを治せば全てなかったことにできる。
「明日、一緒にアマンダさんに話をしましょう」
「ああ、分かった」
そうは言ってもロンはユグドラシルの町の冒険者ギルドにおけるギルドマスターで元Sランクの冒険者だ。逃げるなんてことはない。
***
「分かったよ、あんたを信じる」
アマンダは僕にではなくロンに向かってそう言った。胸の痛みが随分と減ったようである。だけど、その顔には自分が生き延びたいというのではなく、ロンに対する何か別の想いがありそうだった。アマンダはロンの不安を全て察しており、そのロンのために手術を受ける気になったのかもしれない。
「では、これから世界樹の雫を採りに行きます。手術は明日、それでいいですね」
「ああ、よろしく頼む」
僕はアマンダさんとガッチリと握手をして、それからロンの方へと向き直った。
「一時間後、世界樹への道の門で集合で良いか? 私は領主の所へ行ってくる」
「領主の所? それはまた何で?」
冒険者ギルドマスターが世界樹に入るために領主の許可でもいるのだろうか。しかしロンは僕の予想外の言葉を言った。
「サンライズを一時的に戻してもらおうと思ってな。あれがあれば第七階層までは数時間で着く」
サンライズはユグドラシルの町の領主が買い取っていた。そのうちユグドラシルの町の博物館にでも飾る予定なのだとか。それは領主がロンと友好な関係を持っており、かつ信頼されているという事を示している。無償で援助するわけではなく、杖を高値で買い取るという事でロンとアマンダの後押しをしたかったという意思表示なのかもしれなかった。
「ミリヤ、留守を頼む」
「はい、気を付けて」
すでに僕とレナとノイマンは世界樹に入る準備ができている。今の時間は午前九時。これからロンたちと世界樹に入って第七階層にまで行けば昼過ぎに到達でき、レナの
また
ユグドラシルの町は世界樹の南側に存在する。それは世界樹が作り上げる影が町に差し込まないようにという配置から仕方なくそうなっていた。かなり巨大な世界樹の影に入れば数時間は太陽の光がほとんど入らないのである。町を作るには南側にするしかなかった。
しかし、世界樹の南側にはその根が広くひろがっていた。
世界樹の第七階層とは、幹の本幹付近であり樹液を産生し続けている樹洞とよばれる穴がある場所を指している。そこまではほとんど樹の根っこをよけながら世界樹に近づいて行くだけの道中だった。
「待たせた」
サンライズを携えたロンは普段の恰好とそこまで変わらなかった。何度も行ったことのある世界樹で、第七階層などはロンにとってみれば庭のようなものなのだろう。
冒険者たちによってある程度開拓された道を進む。先頭はノイマンであるが、ロンがその後ろに付いて来ていた。
「できるだけ早く第七階層に行って樹液を取る必要がある。ノイマン、もっと速く歩け」
「でもそんなに早くって、数時間はかかりますよね」
後ろからサンライズで小突かれているノイマンは剣士であるが、ロンの足取りはそのロンと比べても遜色ないどころか健脚と言ってもいいだろう。冒険者を引退したのはずいぶんと昔の事だと聞いていたが、体を鍛えることはやめていなかったのか。
「ノイマン、こっちだ」
正規のルートを通って世界樹へ向かっているノイマンをロンが止めた。僕とレナはかつて一度来たことがあっただけだったし、記憶なんて残っていないからロンに全てを任せてついていっているだけである。
「いや、でもギルドマスター」
「いいから、ここを登れ」
ロンが示したのは世界樹の根の中でもかなりの太さをもつものだった。その高さは二階建ての建物くらいあった。地面へと突き刺されたそれはうねりながらどこまで広がっているのか分からないが、地上へと出た部分が坂のようになっていて上ろうと思えば登れる。
「根の上にはグリフォンがいるから」
世界樹の根の上にはグリフォンの生息地がある。それはユグドラシルの町からも飛んでいるのがたまに見えるために確実であり、グリフォンはランクAから個体によってはSに認定される魔物であり強力である。それが群れで襲ってくると言われている。
「いいから行くぞ。急ぐんだ」
普段の紳士的な態度が全くなくなったロンは無理矢理ノイマンを根っこの上に押し上げた。それに自分もついて行く。僕らもロンたちについて根っこの上に上がった。
「綺麗な光景ね」
根っこの下のくらい部分をずっと歩いてきたために、空と世界樹がしっかりと見えるこの光景はたしかに綺麗だった。しかしその視界にはすでにグリフォンが映っている。
「ほら! やっぱりすぐに気づかれちゃいますって!」
ノイマンの抗議をロンはその
「
ボウッと伸ばした杖の先に形成され燃え上がる火の玉。ロンはそれを掲げたまま言った。
「ノイマン、根を伝って幹まで走るぞ」
いつでもこの魔法を撃てるのだぞという意思表示に、グリフォンたちは僕らへ襲い掛かろうとしていたのを躊躇したようである。たまにかなり遠くのグリフォンに向かってロンが
「マジすか!?」
「いいから走れ!」
後ろから小突かれながらも根の上を走るノイマン、それにロンも僕らもついて行く。これならば数時間と言わずに一時間くらいで世界樹の第七階層にたどり着くかもしれないと思った。
「グリフォンは炎が嫌いだからな! 現役の時はよくこうやって世界樹まで走ったもんだ!」
「なんで誰にも教えてくれなかったんですか!?」
「そりゃ、グリフォンを一撃で撃ち落とせる
なるほど、べつに隠しているわけじゃなくて誰もできないだけか。隣のレナを見ると、自分ならできるのにという顔をしている。これは今後も世界樹の雫を採りにいくにあたっていい事を聞いたかもしれない。
「ねえレナ。
「誰に言ってるのよ? ただし、あの規模は杖なしではちょっと無理よね」
ロンもサンライズがあって初めて使えるのだろう。だからこそわざわさ領主のところまで行って返してもらってきたわけだ。レナにもかなり良い杖を買う必要があるか。必要経費だと思って……無理か?
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