揺らめき、四つ。

 





 五月も下旬に入り大分気候が落ち着いた。


 日も伸びてきて、わたしが目を覚ますと薄っすら空は明け始めている。


 そうは言っても朝方は少し冷えるので暖炉に火を熾し、燭台へその火を移す。


 勢い込んでベッドから起き上がる必要もなくなり、湯たんぽ代わりの革袋を使う回数も減り、燭台を机に置くと前日のうちに汲んでおいた井戸の水で顔を洗う。結構冷たいが、お蔭で眠気も綺麗さっぱり消える。


 布で顔を拭い、水気の残る手でやや歪んだ鏡を見ながら寝癖を直した。


 自分で作った丈の短いシュミーズの腰部分にある紐を締め、ウエスト部分を覆うステイズを固定したら手早く紐を結ぶ。コルセットと同じものだがわたしは息苦しくなるほど締めることはない。


 頭から被るタイプのシャツを着て、袖を通したら、首元の釦を留める。


 靴下のショースを履き、紐で留め、膝下丈の黒いキュロットを穿いたらブーツの紐を締める。


 ベストのような形のジレと呼ばれる上着にアビを重ねる。ジレは灰色、アビは黒だ。執事バトラー近侍ヴァレット従僕フットマンも大体この色で統一されており、夜会や晩餐会などの華やかな場ではベージュや淡い青色などの明るい色味を着ることがある。


 鏡の前で黒のネッカチーフを首に巻き、髪を梳かし、緩く編んで左肩へ流したらおかしな所がないか確認する。




「……よし」




 懐中時計のネジを回してジレのポケットに仕舞った。


 暖炉と燭台の火を消したら使い終えた水の入った洗面器を持って部屋を出る。


 使用人棟の地階に行き、水を捨てたら軽く洗って元あった場所へ戻しておく。既に起きている人も多いようで幾つか洗面器が積まれていた。


 同じようにやって来た他の使用人に場所を譲り、同じ地階にあるランドリー奥のアイロンがけをする部屋へ向かう。まだ人気のない通路を通ってランドリーを抜けるとヒンヤリとした空気に包まれた。


 部屋に置いてある火打石を何度か打ち合わせてアイロン用のストーブに火を灯す。


 最初の頃はなかなか点かなくて手間取っていたが随分慣れたものだ。


 細い薪を足し、それに火がしっかり移るのを確認してから太い薪を入れ、ストーブの扉を閉める。


 待つ間に今日の予定を思い出していれば執事のアランさんが新聞を手に入ってきた。




「おはようございます」


「おはようございます」




 挨拶をしつつアランさんが台の上へ新聞を広げていく。


 それを手伝い、綺麗に新聞紙を広げたらアイロンが温まったことを確認する。


 現代のものよりも大きくて重たいが持てないほどでもない。


 広げた新聞紙に熱された面を当てて少しずつズラし、インクを乾かしながら皺が寄らないように気を付ける。しかし皺にばかり気を取られていると焼けてしまうし、当てが足りないとインクが乾き切らないしで、アランさんの助言を受けながら時間と当て方を調整していかなければならない。


 一年経ってもこれだけは少し苦手だ。


 昨日は成功しても今日は失敗とか、その逆とかもよくある。


 紙とインクの匂いが鼻を掠めていく。……こんなものかな。


 紙面からアイロンを離してストーブに戻すとすぐにアランさんのチェックが始まる。新聞を手に取り、広げ、指にインクが付かないか、皺が寄っていないか、焦げ跡がないかを確かめられた。




「……ふむ、少し折り目がずれてしまっていますね」




 アイロンをかける際にきちんと揃えて畳んだつもりだったのだが言われて見ると真ん中の折り目が少し歪んでしまっていた。アランさんがアイロンを取り手早く折り目を正す。




「申し訳ありません……」


「折り目がずれていると旦那様がページを捲る時に全体が歪んでしまうので、明日は折り目にも気を配ってください」


「はい」




 アランさんは怒鳴るようなことは滅多にないけれど、きちんとダメな点について注意してくるから怒られるよりも怖い。普段怒らない人ほど、というやつだ。


 それでも新聞のアイロンがけは回数を重ねて覚えていくしかない。


 最後の仕上げとばかりにアランさんがアイロンを新聞に押し当てる。




「ではセナはモーニングティーを厨房から受け取って旦那様の寝室へ」


「分かりました」




 差し出された新聞紙を片手にランドリーを後にする。


 厨房は一階にあるが地階と繋がる階段の傍に位置するため、すぐに目的地に到着し、主人や使用人達の朝食の準備で忙しそうにしているそこへ声をかけた。




「すみません、モーニングティーを受け取りに来ました」




 振り返ったキッチンメイドの一人がワゴンを示す。




「こちらです」


「ありがとうございます」




 サービスワゴンには既にティーセットがきちんと並べられている。


 そこに新聞紙を置き、ワゴンを押して次の目的地へ向かう。


 使用人通路を使い二階へ上がり、やや薄暗い廊下を進んで厨房とは対角線上にある伯爵の寝室へ。


 紅茶に使うお湯が冷めてしまわぬうちに行かなければならない。


 長い廊下を歩いてようやく寝室の扉まで辿り着く。


 その扉を控えめに四度叩けば中から扉が開かれた。




「おはようございます」




 顔を覗かせたのはサリス家三男のアルジャーノンさんだった。




「おはようございます」




 その奥では父親のアランさんが静かに主人の衣装の支度をしている。


 ……アルジャーノンさんは外見も中身も父親似かな。


 よく似ている二人を横目にサービスワゴンを押して室内へ入る。


 そこでワゴンをアランさんに渡し、天蓋付きの大きなベッドへ近寄った。


 薄暗い室内でも見える白いシーツは相変わらず殆ど乱れがなく、そこに横になって眠っているこの屋敷の主人はいびき一つかかないため、死んでいる風にも見える。


 毎朝見ているが何度見ても寝相のよろしい姿に感心と僅かな呆れを覚える。




「旦那様、起床のお時間になりました」




 軽くその肩に触れて揺らせばスッと瞼が持ち上がる。


 僅かな光を反射させるブルーグレーは束の間、ぼうとしていたものの、数度瞬きを繰り返せば焦点が合い、こちらへ向けられる。




「おはようございます」


「……ああ」




 寝起きのやや掠れた声で返され、わたしはベッドを離れて部屋のカーテンを開けに回る。


 その間に伯爵が上半身を起こしてアルジャーノンさんがその肩にガウンを羽織らせ、アランさんがモーニングティーと新聞紙を手渡していた。


 全ての窓のカーテンを開けてアランさん達と共に部屋を出ようとした。




「セナは少し残れ。話がある」




 しかし伯爵がそう言うのでわたしだけが寝室に取り残された。


 新聞を膝の上に置き、紅茶の入ったティーカップをサイドテーブルへ下げ、手招かれる。


 今までこのようなことはなかったが何の話だろうかとベッドへ歩み寄る。




「何か御用でしょうか? ……っ?」




 縁ギリギリまで寄ったわたしに伯爵の手が伸びて来た。


 腕を掴まれ、引っ張られたためバランスを崩してベッドへ倒れ込んだわたしを伯爵が抱き留める。


 薄着のせいか伯爵の体温は普段よりも少し高くて温かい。


 ギュッと抱き締めてくる腕を軽く叩いてわたしは抗議した。




「旦那様、お話があるのでは?」


「そんなものはない」




 意外ではないけれど、がっちり固定された腕を動かすのは厳しそうだ。


 落ちた沈黙は嫌ではないがこのままでは困る。




「用がないのであれば離してください。朝食に遅れてしまいます」


「……ああ、分かっている」




 小さな溜め息と共に解放される。どこか残念そうだ。




「そう拗ねないでくださいよ」




 伯爵の頬に軽く唇を寄せて「それではまた後ほど」と寝室を出る。


 一瞬、目を丸くする伯爵が見えたが構わず扉を閉めた。


 その足で使用人用食堂に向かいながら緩みそうになる唇を引き結ぶ。


 おはようのハグがしたくて引き留めるなんて可愛いじゃないか。


 想いが通じ合ってから数日が立つけれど、こういうことがたまにあり、元々子供っぽい部分も持つ人だとは感じていたが恋人同士となって触れ合いたがるようになった。


 両親を亡くして本当はずっと寂しかったのかもしれないと思うと無碍にも出来ないし。


 わたし自身も嫌ではないから余計に扱いに困る……。


 ぴしゃりと両頬を叩いて弛んだ気持ちを追いやった。


 今日は半休だが午後には伯爵と共にマイルズ=オアの死刑に立ち会わなければならない。


 いつまでも浮かれた気持ちでいるのはやめにしよう。






* * * * *






 昼食後、外出のために身支度を整えて玄関へ向かう。


 処刑を目の当たりにして吐き戻したらどうしよう、と思いはしたが、その時はその時だと考え直してしっかり昼食は食べた。午後のティータイムにも間に合わないだろうし、空腹でいる方が気分が悪くなる。


 玄関で十分ほど待っていればアルジャーノンさんを伴い伯爵が現れた。


 黒いジレとアビ、キュロットに黒のネッカチーフ、黒い靴と喪服のような装いでも顔立ちが整っていると格好良く見える。帽子と外套まで徹底して黒なので色白の肌に銀髪が際立っていた。あまりにも真っ黒なので死神みたいだ。


 かく言うわたしもアルジャーノンさんも真っ黒だけどね。


 扉を開け、待機していた馬車に伯爵、わたし、アルジャーノンさんの順に乗り込む。


 御者が扉を閉め、ゆっくりと馬車が走り出す。


 辻馬車よりも揺れが少ないとは言えどガタゴトと揺れる音が車内に響く。


 …………よく分からないけど気まずい……。


 そういえばアルジャーノンさんがお側付きの時に一緒に出掛けたことは今までなかった。


 一緒に仕事をする機会は結構多いものの、この面子で馬車に乗るのは初めてだ。


 どこか居心地の悪い気持ちでいればアルジャーノンさんが口を開く。




「旦那様」


「何だ」




 伯爵は特に何も感じていないのか車窓を眺めている。




「『明確にするのは許されない』のではなかったのですか」




 それはどこか呆れを含んだ声音と視線だった。




「…………」


「僕としては喜ばしいことです」


「……他には誰が気付いている?」


「両親と兄達は恐らく。古参の使用人も察してはいるかと。女王陛下や殿下のお耳にももう届いていらっしゃるかもしれませんが」


「……内通しているのはアンディか」


「もう少し隠す努力をなさらないからそうなるのです」




 泳いでいたブルーグレーが忌々しげに眇められる。


 一体何の話なのかと伯爵とアルジャーノンさんを交互に見た。


 こんなに話すアルジャーノンさんも珍しい。彼は物静かで無口なので基本的に仕事上でも必要な時くらいにしか口を開かず、いつもひっそりと仕事をこなしている。


 はあ、と大きく息を吐いた伯爵が両膝に肘を預けて項垂れた。




「セナ、私達の関係は使用人達に勘付かれているらしい」




 やや投げやりな言葉にわたしは「ああ、その話ですか」と頷いた。


 外では全くそういった雰囲気はなくとも、屋敷の中では想いが通じ合ってから何かと伯爵はわたしを側に置きたがっていたし、視線を向けられることも増えていたし、他にも色々あったから気付かれない方がどうかしている。


 すぐに得心のいったわたしを見て伯爵が微妙な顔をした。




「何故驚かない?」


「あの日から旦那様はわたしのことを頻繁に呼びつけていましたから、気付かれるのは時間の問題と思っておりました」


「……そんなに私は分かりやすいのか……」




 気落ちとまではいかないが、少なからずショックを受けたようだ。


 そりゃああれだけ熱視線向けていればバレるでしょうね。


 伯爵のわりと分かりやすい態度とは裏腹に、わたしはこれまでと変わった様子がなかったので、むしろそちらの方が判断に迷ったとアルジャーノンさんが言う。


 そもそも仕事中は恋愛感情オフ状態だ。仕事に集中したい。


 伯爵にしてみたら私生活だから気になってしまうのは致し方ない。


 励ますためにその肩を軽く叩いてやれば若干据わった瞳で見返される。




「指摘すれば良かっただろう」


「嫌ですよ、せっかく想いが通じ合えて嬉しいのに」




 拗ねた瞳が逸らされたが色白の肌の目尻が赤く染まる。


 伯爵は自分からの時は羞恥心もどこへやらといった風なのに、こちらから愛情表現をすると途端に照れる。仕事中に欠片もそういう雰囲気を出さないわたしも多少悪いのかもしれないが。


 アルジャーノンさんが「僕は何も見ていません」と両手で目を覆う。


 何それと思う間もなく伸びて来た腕がわたしを掴んで引き寄せる。


 一応声や音が聞えているからか言葉を口にすることはないが、抱き締めてくる腕の力強さや旋毛つむじ辺りに恐らくされているであろうキスを考えると顔が熱くなる。


 どうして海外の人のスキンシップってこうも極端なのか。


 仕事中なのに伯爵は男性だと意識してしまうじゃないか。


 しかし抗議の声を上げるとアルジャーノンさんに聞こえてしまう。


 こういう時の否定は下手するとただの痴話喧嘩に聞こえるから正直恥ずかしい。


 それに伯爵はわたしに拒否されることを恐れている節があり、あんまり抵抗すると悲しそうな顔をするのだ。あの日の翌日にやらかしたら捨てられた犬みたいな顔をされて美形は卑怯だと痛感した。


 ちょっと面倒臭いところも憎めないのは惚れた弱みかなあ。


 これから公開処刑を見に行くとは思えない状況だ。


 でも緊張にささくれ立っていた心が和らぐのも事実だった。




「……ありがとうございます」




 返事の代わりに抱き寄せる腕に力がこもる。


 だがいつまでもこのままではいられない。そろそろ到着する頃合いだ。


 もう大丈夫だと回された腕を軽く叩けば呆気ないほど簡単に拘束は剥がれていった。


 元の席に戻るとアルジャーノンさんが「もういい?」と視界を塞いだままわたしに顔を向けるので、つい笑いそうになりながら「もういいですよ」と言えばそっと両手を下ろす。




「セナも良かったね」




 その一言が嬉しくてわたしは笑みを浮かべて大きく一つ頷いた。



 

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