言、四つ。
わたしが伯爵の後ろの定位置へ着くと空気が変わる。
一瞬で気温が下がったかのような錯覚さえ感じるほど、場の空気が変化した。
室内にいるのは女王陛下とリーニアス殿下、陛下の侍女と従者であるチャリスさん、そして伯爵とわたし。扉の両脇に控えていたはずの衛兵はいなくなっていた。
「セナ、貴方の事情はクロードより聞いたわ。……教会へ行く気はないのね?」
女王陛下の問いかけに強く頷く。
「はい、ございません」
「では王宮に来る気はあるかしら?」
「……申し訳ございません。わたくしはこの先も旦那様にお仕えしたく存じます」
「そう。……そうね、クロードが拾ったのだもの、最後まで面倒を見るのはクロードの責任ね」
女王陛下は納得した風に伯爵へ顔を向けた。
伯爵はそれに黙って頷いた。
二人のやり取りに心底ホッとする。ハッキリと言葉に出した訳ではないけれど、伯爵の下にいることについて、女王陛下からお許しが出たようなものだ。
これでもし教会が口出しをしてきても、余程の利点がない限り王家はわたしを差し出さない。
教会側でもなく、王家の血筋ではあるが王族でもない、微妙な、けれどある意味では良い位置にいる伯爵の下にいるのが一番厄介が少ないだろう。伯爵位といえども王家の血筋を濃く引く伯爵に強引な真似は出来まい。
そうしてリーニアス殿下がパンと軽く両手を叩いて空気を一新する。
「さて、それでは本題に戻るとしよう。先ほどのセナ君の提案だけれど、それに関する利点と欠点を上げて実行に値するかどうか説明してくれるかな?」
どうやら伯爵が止めないところを見るに、三人でその件も話し合ったのだろう。
それにしてもいきなりプレゼンしろとはリーニアス殿下、侮れないな。
「出来るかい?」と聞かれてわたしは一も二もなく「出来ます」と答えた。
「それでは今回の囮捜査の概略について御説明させていただきます」
まず、わたしにもう一つ戸籍を作る。これは男ではなく女の戸籍だ。
双子の姉か妹であれば顔立ちや背格好が似ていても不審がられないだろう。
そして設定を作る。異国よりかどわかされてこの国へ来た双子の片割れは伯爵に仕えたが、もう片割れは体が弱かったために働くことが出来ず、伯爵の知り合いの領地にて静養させていたが、最近は体調が良くなって来たので王都へ呼び戻したというものだ。
静養先の設定は伯爵の信頼出来るところならどこでも良い。
異国の貴族で頼る当てがなく、伯爵家に保護されている病弱な少女。
そんな少女がこの国で初めて社交界に出る。
「社交界に出る必要があるのかい?」
「はい。何年もかけて周囲を探っていたのですから、あちらも疑われていることには気付いているかと。相手は恐らく自分を嗅ぎまわる旦那様のことを疎ましく思っているはずです」
「それならば決定的な証拠を掴まれないよう身を潜めてしまうのでは?」
「その可能性は大いにあります。ですから、そのための
想像してみて欲しい。
自分の悪事を暴こうとしている伯爵は王家の血筋で迂闊に手が出せない。
賄賂などで買収することも出来ない。
しかし何とかしなければ遅かれ早かれ自分が捕まってしまう。
そんな時に、伯爵が気にかける人物が現れたらどう思う?
それも社交界のパートナーに選ぶほど気に入っていたら?
良い弱点を見付けたと考えないだろうか?
「異国の出身というのも、もしかしたら『
「そのためにセナ君は女装するが構わないのかい?」
「大切なことは犯人の逮捕。それだけです」
まあ、女装というか、普段が男装なので本来の性別に戻るだけだ。
何も嫌なことは――……ああ、でもドレスや化粧はちょっと面倒臭いかな。
だけどやってみたいこともあるから拒否するほどではない。
「そして利点は幾つかあります。一つ、他の貴族の子息令嬢の協力を得ない分、情報漏洩が起こり難くなります。二つ、他の貴族の子息令嬢を危険に曝すことがなくなります。三つ、交流もなく知り合いもいない娘という恰好の
他の貴族に事情を話すのがダメとは言わないが、大勢が情報を持つのは危険である。
どこから何の拍子に漏れてしまうか分からない。
次に貴族の子息令嬢に協力を依頼し、その協力者が何らかの怪我を負った場合の責任が問題になる。
伯爵の従者でしかないわたしであれば多少怪我をしたところで騒ぎにはならない。
そうして貴族社会の中で何の繋がりもしがらみもないわたしは狙いやすい。
当たり前だがその間は普段のわたしではなく双子の片割れとして純情な娘を演じる必要はあるが、そこはわたしの腕の見せ所ということだ。
そしてか弱そうなわたしを伯爵の弱点だと思わせる。
「これには、大変恐縮ですが旦那様の御協力が不可欠となります」
ちょっと
「次は欠点を御説明します。一つ、わたしの身が危険に曝されます。しかしそれはどの子息令嬢に協力を願っても同じことです。二つ、失敗すれば今まで以上に警戒され、同じ手は使えなくなるでしょう。三つ、相手が非常に疑り深い場合は乗ってこない可能性があります」
この作戦における欠点というのは利点を考えれば少ない。
「その場合はどうする? 諦めるのかな?」
「そうならないために飛び込むのですよ。
「ああ、そこは気にしていなよ。グロリアからセナ君が警察署で講義を行っていることは聞いている。何でも人心掌握に長けていて、犯人を自供させるのが得意だとか」
「いいえ、それほどでは……。宮殿にいらっしゃる方々に比べればわたしなど赤子のようなものでしょう」
というか、グロリア様とはリディングトン侯爵家のグロリア様だよね?
目を瞬かせたわたしに伯爵が小声で囁く。
「リーニアスとグロリアは婚約者であり、わたしを含めた三人は幼馴染だ」
なるほどと納得した。
いくら侯爵家の娘と言えども
だがリーニアス殿下が後押ししていたら話は別だ。
グロリア様の努力の賜物であるのは明白だが、リーニアス殿下の存在も大きいだろう。
もしかしたら大半の貴族はグロリア様がリーニアス殿下の補佐を行うために領地経営などを学んでいると思っているかもしれない。グロリア様が本当に爵位を継いだ時、その人達がどのような顔をするか
それは置いておくとして、現行犯か確実な証拠でないと裁けないので出来れば現行犯が良い。
証拠は言い逃れが出来ても、現行犯では言い逃れのしようがない。
「クロード、貴方には別の案を出せるかしら? それがセナの案よりも確実に逮捕出来るものであるならば私はそちらでも良いと思っているのだけれど」
女王陛下の問いかけに伯爵は首を振った。
伯爵は頭が良いから、最初からこれが一番良いと分かっていたはずだ。
分かっていてわたしの身の安全を考えてくれたのだ。
わたしはそれだけで充分だ。
「セナ君の案に私も賛成だよ。どちらにしても囮が必要だ。それならば深窓の令嬢や血気盛んな子息を使うより、冷静に目的を理解している彼の方が安心して任せられる」
「ええ、あのグロリアが気に入るくらいだもの、心配は要らなさそうね」
そういうことで、決まったのである。
* * * * *
「伯爵、まだ怒っておられますか?」
ガタゴトと揺れる馬車の中で目の前の人物に問う。
閉じられていたブルーグレーが静かに開いた。
「怒ってはいるが、それは私自身に対してだ」
「御自分に?」
「現行犯逮捕が最も望ましいと分かっていて、それには囮捜査が必要で、しかしお前の出した案以上に良いものを出せない自分が腹立たしい。何時もお前を危険な位置に立たせてしまうのが情けない」
溜め息混じりの言葉にわたしは小首を傾げてしまう。
「あの、わたしが自分で首を突っ込んでるので伯爵が気にされる必要はないと思いますけど……」
自分で言うのも何だが大体において自分から渦中に飛び込んでいる。
今まではそれをやめろと言われ続けてきた。
それに対して怒られることはあれど、何故伯爵が自分に腹を立てるのか。
「お前がそうだともう諦めはついた。が、どうすれば危険を減らせるかという点においてはまだ諦めていない。いざとなれば襟首を掴んででも止めるからな」
「それはつまり、好きにしてよろしいということでしょうか?」
「私の目の届く範囲であればな」
不機嫌そうに少し眉を寄せた伯爵が視線を逸らす。
でもそれが照れ隠しとわたしはもう知ってしまっている。
この人は何時だってわたしの欲しいものをくれる。
居場所をくれた。ココにいる意味を与えてくれた。衣食住も、職も、そして自由さえも。
何時も貰ってばかりのわたしは一体どうすれば恩を返せるのか皆目見当も付かない。
「……ありがとうございます」
そしてこの人は何時も見返りを求めない。
与えることに慣れてしまっているようで、少し心配だ。
不思議そうに眉を寄せたまま顔の向きがこちらへ戻る。
「礼を言われることは何もしていないが……? それよりも屋敷へ戻ったらカーラを呼んで淑女教育をするぞ。陛下からは社交の最盛期までに準備せよと言われているからな。その間は近侍の方を減らす。依頼が来ても極力他の者を使うぞ。立ち居振る舞い、言葉遣い、化粧にドレス、ダンス、色々あるが約二ヵ月間みっちり学べ」
「……そうなりますよねえ」
「当たり前だ。いくらお前が厚い猫を被れると言っても細かなところで粗が出る。二ヵ月しかないが、カーラに任せておけば大丈夫だろう。ダンスの時間は私が相手を務める。アルフ達も必要か?」
何か妙に積極的だなあ。
そんなにわたしに淑女教育を受けさせたいの?
そりゃあこの国の御令嬢に比べればわたしなんて粗野だけどさあ。
「いえ、パーティーで誘われても『他の方と踊らないようにクロード様とお約束しておりますの』とでも言って乗り切ります。病弱設定だからこの国に来て伯爵以外と踊ったことがなくても不思議は――――……」
話の途中でふと伯爵が口元に拳を当てて視線を逸らす。
よく見ればブルーグレーの目尻がほんのり赤く染まっていた。
色白なので照れると目元に朱が入り、色香が出る。
この顔を見たら、この国の女性はどれくらい落ちるのかな。
「……何で照れてるんですか?」
というか、今の話の中に照れるような要素あった?
口元に当てた拳越しにもごもごと喋る。
「……急に、名を呼ぶな。慣れてないんだ……」
「え? あ、すみません?」
え、名前呼ばれて照れたの?
確かに使用人は全員伯爵のこと『旦那様』って呼ぶけれど、女王陛下やリーニアス殿下は普通に呼んでいたはずだ。外出の少ない伯爵は自分の名前を呼ばれる回数は少ないかもしれないが。
それとも普段呼ばれない相手に呼ばれるとむず痒いとか?
…………何それ、可愛い。
「ふ、ふふ……っ」
つい笑いが漏れてしまう。
わたしよりも年上で氷みたいに冷たそうな顔立ちなのに。
ムッと小さく伯爵の口がへの字に曲がるのを見て『ああ、可愛い人だ』と思う。
「すみません、でも、これからは慣れてくださいね。双子の片割れとしてあなたを呼ぶ時は『クロード様』になるのですから」
誰に憚ることなく練習と称してあなたの名前を呼べる。
それはある意味ではわたしにとってご褒美みたいなものなのだ。
使用人が主人の名を呼ぶこともあるが、わたしは公私混同を避けるためにも近侍として側にいるようになってからはずっと『旦那様』呼びを心掛けてきた。
だから、実を言えば伯爵の名を呼ぶのは少しくすぐったい。
伯爵が先に照れてくれたお蔭でわたしは照れずに済んだだけだ。
「分かっている。それと双子のもう一つの戸籍は別の名を付ける。お前こそ間違えるなよ」
「ではお互い今日から二ヵ月間、練習致しましょう。参考までにどのような名前になさるおつもりで?」
伯爵が考える風に視線を斜め上に向けて小首を傾げた。
「セシリナ、セドリナ、セスティナ、セフィリアーナ……」
その頭と尻で本名になる名前は伯爵のこだわりなのだろうか?
双子設定だから似た響きというか同じ文字が入っていても問題はない。
でも分かりやすいような、分かり難いような、微妙なところだ。
「セルディアンナ、セレスティナ――――……セフィーナ。セフィーナ、セフィナ、セラフィナ、セラフィーナ……ああ、セラフィーナが良いな。セラフィーナ・シヴァ=ソーク。……どうだ?」
セラフィーナ・シヴァ=ソーク。本名の
セカンドネームもシェパードに比べたら本名により音が近い。
そして全体の響きもそう悪くない気がした。
「良い響きの名前ですね。姉か妹、どちらに致しますか?」
「妹だな。双子だからどうせ年齢は同じだが、妹の方が警戒され難そうだ」
「畏まりました」
早速、伯爵は淑女教育の予定について組み立てながら話し始める。
これは本当に今日から大変かもしれない。
まあでも、伯爵のパートナーとして夜会に出るなら仕方がない。
この世界に来たからこその体験と思って頑張ろう。
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