ステップ、六つ。

 



 中庭へ戻ると伯爵と夫人が楽しげにパラソルの下で談笑していた。


 まあ、なのだろうが。


 事件だの何だのといったものが絡まなければ、夫人は多少年嵩ではあるが、美男美女の二人は目の保養になるのだけれど。伯爵の方はどんな心境なのやら。良い気分ではないことは確かだ。


 テーブルへ歩み寄ると夫人がこちらに気付く。




「遅かったわね。何か問題でもあったの?」




 声をかけられたバートさんはピクリと反応したが誤魔化すように首を振った。




「申し訳ございません。立ち話をしておりました。廊下の途中にある野薔薇の丘の絵をセナさんが気に入っておられたので、奥様の選んだものだと御説明をさせていただきました」


「あら、そうなの? あれは素敵でしょう? 私も一目で気に入りましたのよ」




 席についたわたしに上機嫌にそう話す夫人へ「奥様は芸術品を選ぶセンスもおありなのですね」と笑みを返す。分かりやすいヨイショに嬉しそうに「ええ」と頷いた。


 内心ではそんな絵画ものあったっけ、と思ったが話に合わせておいた。


 その絵画をどういう経緯で見付け、手に入れたか、その時に自分は絵を見てどう思ったかをやや自慢げに語る夫人の脇でバートさんが温くなった紅茶を淹れ直す。


 若いが手付きは慣れたもので淀みなく新しい紅茶を淹れていく。


 しかし、ほんの微かな迷いがあった後に「あ」と呟き、ティーカップを芝生の上に落とす。


 カップは地面を転がり、中身を芝生の生えた地面へ撒き散らした。


 振り向いた夫人の眦が一気に吊り上がる。




「バート、何をしているの?! そのカップは私のお気に入りだから手荒く扱わぬよう言ってあったでしょう!! それを落とすなんて、自分が何をしたか分かっているの?!!」




 それまでの穏やかさが嘘のように夫人が立ち上がってバートさんを怒鳴りつける。


 バートさんが怯え気味に「も、申し訳ございませんっ」とカップを拾ったが、夫人が使っていたそれは土が付着してしまっていた。


 土が付いたものを見て怒りが頂点に達したのか夫人は手近にあった取り分け皿を掴み、投げ付ける。


 皿はバートさんに当たり、受け止めようとしたが上手くいかず、地面に落ちて欠けた。


 投げ付けたのは夫人なのにそれすらもバートさんが悪いと言わんばかりに怒鳴り散らす。




「まあ、今度はお皿まで?! それが幾らするか知っているのかしら?! お前の給金を一年分払って漸く買えるかどうかというものなのよ!! ……ちょっと、聞いているの?! 私を見なさい!! バート!!!」




 ツカツカと歩み寄った夫人が割れた皿を拾うために屈んだバートさんの手を蹴った。


 靴が固い素材なのか、力任せにやったのか、鈍い音が響く。


 体や頭ではなく守りにくい箇所かしょを狙う様はやり慣れている風だった。


 執拗に手や足を蹴りながら罵声を浴びせかける。




「お前は本当にグズね! 何時も何時も何時も! 失敗ばかりして私を苛立たせるのがそんなに楽しいの?! この恩知らずが、貴方に一体幾らかけたと思っているのかしら?! また貧民街に戻りたいなら何時でも戻してあげるわ!!」


「申し訳、ございません……それだけは……」


「ならもう少し使えるものになりなさい! 私の従者にグズは要らないのよ!! 美しいだけなら他に幾らでも替えが利くわ!! この間の晩餐会でも恥をかかされて私がどんな気持ちだったか――……」




 夫人が靴のヒールでバートさんの足を踏もうとした瞬間、甲高い音が響き渡った。


 既に席を立っていた伯爵の手には愛用の拳銃が一丁あり、空に向けた銃口からは薄っすらと白煙が上がっている。今し方響いた音はこれの発砲音だった。


 驚いて振り向いた夫人がわたし達を見てハッと息を詰める。




「そこまでだ、バディット男爵夫人」




 銃声の音が空気に消えてなくなる頃、にわかに周囲が騒がしくなる。


 ドタバタと慌ただしく走る複数の人間の足音が近付いて来た。




「ア、アルマン卿……」




 その場の空気が変わったことを感じ取ったのか夫人が地面に足を下ろす。


 乱れたドレスの裾を慌てて直し、取り繕った笑みを浮かべても、もう遅い。




「お前の使用人に対する扱いは目に余る。外にいる警官達もじきに此処へ来るだろう」




 振り向いた体勢のまま、夫人はぎこちなく首を傾げた。




「……何をおっしゃっておりますの? これは――……そう、これは使用人への躾ですわ。主人の大切な茶器を落とすような、皿を割るような無作法ものを戒めておりましたのよ? それに使用人は家の所有物もの。私達がどう扱おうとも自由ではございませんか」


「違う。我が国では使用人であっても理不尽な暴力を振るい、その生命を危険に晒すようなことは許されていない。そして貴族であろうとも法による裁きを受け、罰が下される。……意味は理解出来るな?」


「いいえ! いいえ、私は違いますわ! だって今までも罰せられたことなどありませんでしたもの!! 私の行いは正しいとお父様はおっしゃっていたわ!! 私は誰からも愛されているから許されると!!」




 大商会の商会長だという男のただの父親だったのだろう。


 愛娘を甘やかした結果がこれだとしたら父親どころか人としても正気を疑うな。


 ヒステリックな叫び声で己の正義を主張する夫人をバートさんが呆然と見上げていた。


 騒がしい足音と共に見慣れた大柄な体が中庭に現れる。




「旦那、お待たせしました」




 駆け寄った刑事さんに伯爵がフンと軽く鼻を鳴らす。




「遅い」


「すんませんね、使用人に騒がれないように入るのに手間取っちまいまして」




 大柄な男に驚いたのか夫人の唇が戦慄(わなな)いた。




「な、何なのよ!? 勝手にっ、警察が何で……?!」


「奥さん、実は警察署うちにこういうものが届いておりましてね、今回はそれが事実かどうか確かめに来たんですが。まあ、この様子じゃあ書いてある通りなんでしょうかねえ」




 刑事さんが夫人に歩み寄り、数枚の便箋を差し出した。


 それをひったくるように取った夫人が急いで紙面に目を落とし、そして怒りに任せて破り捨てた。


 だが刑事さんはニヤリと笑って懐から別の封筒を出して見せる。




「ああ、言い忘れてましたがそっちはただのなんですよ。原本はこっち」




 ヒラヒラと封筒を振る刑事さんを夫人が睨み付ける。


 手の中の破れた便箋を捨て、掴みかかった。




「それを寄越しなさい!!」


「おおっと」




 だが当然ながら夫人が荒事に慣れた刑事さんに勝てる訳がない。


 あっさり避けられ、受け流された夫人が茶会のテーブルを巻き込んで地面へ転がった。


 豊かに巻かれた髪も解れてしまい、着ているドレスは土や紅茶、菓子などで汚れ、その姿には晩餐会で初めて目にした光り輝くような美しさもあふれる自信もない。


 転ぶとは露ほども思っていなかったのだろう。


 自分に起こったことが理解出来ないといった表情で地面に座り込んでいた。


 が、それも数拍で状況に気付き、羞恥と怒りで顔を真っ赤にした。




「な、なっ……?」


「奥さん。すみませんがね、使用人への事情聴取と家宅捜査をさせていただきますよ。勿論、奥さんにも署までご同行願います」




 刑事さんの言葉に合わせて警官達が屋敷の捜索を開始する。


 屋内だけでなく屋外まで調べるようだ。


 夫人は半狂乱でそれを止めさせろと叫ぶ。



「ああっ! 止めなさい!! ここをどこだと思っているの?! バディット男爵の屋敷であり大商会フェニルファー商会長の娘である私の家なのよ?! 勝手に入らないで!! やめっ、やめさせて!! どうしてっ……どうして私がこんな目に遭わなければならないの?!」




 動き難いドレスで立ち上がった夫人がゆらりと振り返る。


 そこには未だ座り込んだままのバートさんがいた。




「……お前のせいね。そう、何時も失敗ばかりしてるお前がきっと今回もなにかしたんだわ。そのせいで警察に目を付けられたのよ。そう、そうに違いないわ……拾ってあげたのに恩知らずな子……」




 覚束ない足で立つ夫人の様子は明らかにおかしい。


 先ほどまでのヒステリックさが消え、ブツブツと呟きながら顔を上げる。


 その手にギラリと光るものが見えた。




「お前がぁあああっ!!!」





 菓子用のナイフを握り締めた夫人がバートさんへ駆け出した。


 バートさんは恐怖のあまり硬直して動けない。


 伯爵も刑事さんも、他の警官でも間に合わない。


 考える暇はなかった。


 二人は届かない距離にいるが、わたしは違う。


 スローモーションになる世界で駆け出した。


 座り込むバートさんと迫る夫人の間に入り込む。視界の端に映る伯爵や刑事さんの動きもゆっくりに見え、退かそうとしたのか後ろからバートさんに肩を掴まれる。


 目の前まで来た夫人は壮絶な笑みを浮かべていた。


 銀に輝くナイフが腕ごと掲げられる。


 わたしは顔よりやや高い位置に両腕を上げて守りの体勢を取った。




「セナ!」


「坊主!」




 ――――……さあ、来い!




「死ねぇえええっ!!!」




 ナイフがバートさんを庇うわたしへ振り下ろされる。


 同時にガツンと高く鈍い音と衝撃が右腕に走る。少し痛いが我慢出来ないほどではなく、若干の痺れを残した腕を薙ぎ払うとナイフが勢いに負けて夫人の手から弾き飛ばされた。


 予想外の出来事に見開かれた瞳と視線が絡んだ。




「はっ!」




 痛む腕を無視して蹴りを繰り出した。


 握力や腕力よりも、脚力の方が人間は強いのだ。


 右足を上げると勢いのまま、ブーツの甲を体勢の崩れかけた夫人の腹部に叩き付ける。


 鈍い音がしてドレスの布地越しにステイズの硬さと夫人の体の柔らかさを感じながらも、力は弱めず、足を振り抜く。勢いがつき過ぎてわたし自身はその場で一回転してしまった。




「アグッ、ぅ?!」




 恐らく、今まで一度も経験したことのない痛みだろう。


 内臓に配慮して全力では蹴っていない。


 ドレスのスカート部分の生地も厚いので幾分弱まってしまったけれど、相当痛むはずだ。


 地面に倒れた途端に呻き、吐瀉としゃしたことで、夫人は数十分ぶりに自分が用意した茶会の菓子と再会を果たした。辺りに酸っぱい饐えた臭いが広がったがすぐに風に流される。


 立ち上がったわたしに伯爵が駆けて来る。




「セナ、無事か?」


「ええ、少し腕が痛いですが問題ありません」




 切れた袖の隙間を軽く捲り、中を見せる。


 わたしの両腕の背には短く幅のある薪が紐で縛り付けられていた。ナイフは衣類を裂き、薪へ到達したが、それは切れなかったのだ。


 落ちているナイフは薪に負けて曲がっていた。




「……また懐かしいことを」




 一年近く前のことを思い出してか伯爵が苦笑する。


 あの時も犯人と対峙するために腕に薪を縛り付けて服で隠して行ったっけ。


 それよりかは小さなナイフだが多分痣が出来るだろう。


 我に返ったバートさんに腕を掴まれる。




「セナさんっ、大丈夫ですか?! ……木?」


「ええ、腕に薪を縛り付けてあるのです。もしもの時に身を守るすべの一つです」




 目を瞬かせるバートさんに「だから大丈夫ですよ」と無事を伝えると、安心したのかその場に座り込んでしまった。


 刃物を持ち出されてもお茶会では大したものはないと分かっていたから薪で済んだのだ。


 仕込むならばいずれ鉄板をと考えているのは秘密である。


 伯爵越しに刑事さんの声がした。




「坊主、少しは容赦してやれよ」




 吐き戻した夫人を刑事さんが哀れそうに見遣る。




「加減しましたよ。内臓は無事のはずです」




 吐き戻したのはステイズで内臓を締め上げているからというのもある。


 あとはティータイム中だったのも悪かったかもしれない。


 食べてすぐは吐き戻しやすいのだ。




「もうちっと優しく出来ねえのか?」


「女性や子供には優しくしますが犯罪者は別です」


「ああ、そうかい……。奥さん、うちの女性警官をつけるんで気力があるんなら身綺麗にしてから行きましょうかね。……おい、こっちについてくれ!」




 刑事さんが声をかけると離れて待機していた二人の女性警官が近寄って来る。


 二人は夫人を引き上げると意識の有無を確認し、補助する格好で屋敷へ向かう。


 同性の警官が見張っているので使用人に口止めをするといった行動も取れないし、逃亡される心配も減る。結構痛そうに腹部を押さえていたのであれで逃げ出したら根性あるな。


 千鳥足のような夫人の両脇にいる女性警官はどちらも細身ながらも長身でカッコイイ。


 三人が屋敷へ消えていくのを確認し、振り返る。




「バートさん、お疲れ様でした」


「協力感謝する」




 わたしと伯爵が話しかけるとバートさんは慌てた様子で両手を振った。




「いえ! 僕はミスをしただけですので……」


「そうか」


「はい。褒められるようなことは何もしておりません」




 伯爵は頷き、踵を返して屋敷へ向かう。


 しかし途中で立ち止まると前を向いたまま「もし働き口がなくなったら我が家を訪ねて来い」とだけ言い、さっさと一人で捜索に加わってしまった。


 キョトンとしているバートさんにわたしは苦笑した。




「旦那様は不器用な方なのです」




 やがてバートさんがクスリと笑う。




「そうみたいですね……。驚きました」


「では、わたしも失礼します。勇気あるあなたの行動に感謝を」


「それは僕の台詞です。助けてくださり、ありがとうございました」




 それは何についての感謝なのか。聞くのは無粋だな。


 どちらからともなく手を差し出して握手を交わす。


 一度微笑み合い、そしてどちらからともなく手を離す。


 どうか、彼の行く先に幸多からんことを。


 わたしは伯爵の後を追うためにバートさんへ背を向けて歩き出す。


 屋敷の中はとても騒がしかった。捜索中の警官の声や使用人達の声は入り混じり、物を移動させるなど家探しが本格的に始まっていた。



 

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