道、八路。




 テーブルにカップとソーサーを置いて向き直る。




「一つお聞きしても構いませんか?」




 のんびり紅茶を嗜んでいた教授が小首を傾げた。


 答えてくれるかは分からないが、聞いてみないことには始まらない。




「どこからあの老人を引き取ったのか、教えてはいだたけないでしょうか?」


「……何故かな?」




 硬い声音に罪悪感を覚えたが引き下がらない。




「あの献体だけは他と違いました。それだけかと言われたら反論の仕様がありません。でも、違和感があったんです。という違和感が……」




 教授は黙ってわたしの顔を見つめる。


 その顔は真剣な表情にも、無表情にも見え、怖いくらい感情を読み取らせないものだった。




「詮索が良くないことも、それが献体の方の尊厳を踏みにじってしまうかもしれないことも理解しています。絶対にここで聞いたことは口外しません、お願いします」




 だからだろうか、つい早口で言い募ってしまう。


 教授は目を閉じると思案しているのか、両腕を組んだ。顰められた眉からしてもこの質問はやはり禁句タブーなのだろう。


 不安と緊張で心臓が早鐘を打つ。


 待ち時間が酷く長く感じられた。


 数分、あるいは数十分経っていたかもしれない。


 目を開けた教授は難しい顔をして、けれども囁くような声で言った。




「……あの老人を引き取ったのは五日前だった」




 どうやら話してくれるらしい。




「どのような方がこちらに?」


「それは話すよりも書類を見た方が早いだろう。ちょっと待っていてくれるかい?」


「はい」




 わたしが頷き返せば教授は自身の机に歩み寄り、ポケットから取り出した鍵で一番下の引き出しを開け、何枚かの紙束を出す。


 中身を確認しつつ数枚を捲った後に一枚だけ抜き、残りを元の場所へ仕舞い戻って来る。


 渡された紙には写真が一枚貼り付けられていた。


 その写真を見て思わずハッと息が止まる。


 皺の多い老人の顔は酷くはないものの、鬱血うっけつで死人とは思えない顔をしていた。


 年間の気温が低めのこの国では浮浪者が凍死すること自体は稀ではないが、凍死ではこのように顔色が良くなるのだ。


 だが、まだ秋も始まりの今に夜と言っても凍死するほど寒くはならないし、この数日でそのような日もなかった。


 ……もし凍死だとしたら、それは他殺だ。


 気温を考えても冷たい水を常に浴びせ続けるくらいでなければ凍死は難しい。水に落ちた程度では精々風邪を引くだけだ。


 一通り写真の顔を眺め見てから文字へ視線を移す。


 献体が持ち込まれた日時、持ち込んだ人物とその住所、それに対する報奨金の額か明記されていた。


 下には教授のサインと判子が押してある。




「……丁度献体が一体足りなくて困っていた所に話を持ちかけられてね。遺体を見て訳ありだと気が付いていたのだけれど、つい……」



 ソファーに座った状態で、膝に肘をつき、教授は両手を握り合わせるとそこへ額をつけた。


 献体となる遺体は学院の地下の安置室で季節によるが、概ね一週間程度ならば状態を保てるそうだ。


 しかし解剖の実習を行うための最低検体数は三体。内二体は都合がついたけれど、どうしても最後の一体が手に入らない。


 しかし都合よく誰かが死んで献体となってくれるはずもなく、このままでは今回の解剖は流れてしまう。


 日が過ぎて行くうちに段々焦りが募った。


 そんな時に提供したい遺体があると申し出を受け、その遺体の死に問題があるかもしれないと分かっていながら引き取ってしまったそうだ。


 立場故の選択だったのだろう。


 それでも本当にこれで良かったのか、思い悩んでいたらしい。




「やはり神は私の愚行を見過ごされなかった。こうして己の罪を話していると、本当に悪いことは出来ないものだと思うよ」




 責められても仕方がない。そんな風に聞こえた。




「……教授御自身がそこまで後悔しておられるのでしたら口を挟むつもりはありません」




 誰だって一度や二度、過ちを犯す。


 今回の件は誰かに迷惑をかけた訳でもないし、自責の念に駆られる相手を更に追い詰めるほど人でなしでもない。


 わたしの言葉に教授は困ったような、それでいてホッとした表情を見せた。


 だがそれも一瞬で消え、また思い悩んだ様子で溜め息を零す。




「資料を見せていただき、ありがとうございました」


「いや、私も君に話を聞いて貰って少し気が楽になったよ」


「それは良かったです。…教授の行為は誉められたものではありませんが、でもそうしてしまった気持ちも分かります。だから、わたしはあなたを責められません」


「……優しいね」




 どちらからともなく互いに苦く笑みを浮かべ、わたしは立ち上がる。


 手を差し出すと教授はしっかり握り返してくれた。




「今日は本当にお世話になりました。見学、とても良い勉強になりました」


「ありがとう。君もまた遠慮せず訪ねて来なさい。入学出来ても、例え出来なくても、何時でも紅茶を用意して待っているよ」


「はい、それでは失礼します」




 軽く頭を下げた後、廊下へ出て扉を閉めた。


 そして解剖室の扉の前に行き少しの間、中の音に耳を澄ませる。微かに聞こえてきた物音からして中にいる人数は一人だ。


 足音が近付いて来ることに気付き、扉から体を離す。


 一拍の間の後に扉を開けた人物が、わたしの存在に驚き大袈裟に肩を震わせる。




「こんにちは」




 相手――……カルクィートさんは瞠目し、マジマジとわたしを見つめてくる。


 ……おーい。他人の振り、他人の振り。




「何をされているんですか?」


「え? あ、片付けを……」


「他の院生の方々が見受けられませんが、お一人で?」




 質問を重ねてもカルクィートさんはどこか呆けた様子で頷く。


 その雰囲気に乗って、わたしは名案とばかりに手を打った。




「一人では大変でしょう? 見学中に検分について教えてもらったので、良ければお手伝いさせてください」




 そう言いながら脇を擦り抜け、解剖室に入って扉を閉める。


 我に返ったカルクィートさんは、喉に何かをつっかえた人みたいに何とも言えない顔をした。




「セナさん、ですよね……?」


「ええ、数日ぶりです」


「……驚きました。一体どうやって? 顔立ちも以前お会いした時と違って見えますが……」


「すみません、その辺りは職業上お答え出来兼ねます」




 何せ今の身分は伯爵が用意したものだ。


 カルクィートさんはわたしの名前を知っていても、わたしが伯爵に仕えていることは知らないし、知る必要もない。


 返した苦笑に何かを感じ取ったのか、追及はされなかった。


 カルクィートさんが上手くはからってくれたようで、解剖室にはまだ検体が残されている。


 子供と女性の献体は片付けても問題ない旨を告げ、カルクさんがそちらを片付け始めたので、わたしは老人の献体へ向かう。


 ポケットから手袋を出して両手にめ、トレイに載る首にかけられた布を掴むと背後から息を呑む音がした。


 あ、カルクィートさんから見えたらマズいか。


 一旦手を離し、首の載ったトレイを持って教卓らしき机の後ろへ回り込む。顔を上げて一言断りを入れた。




「終わるまで近付かないようお願いします」


「……分かりました」




 さて、それでは調べさせてもらおう。


 トレイに両手を合わせてから、献体の首を覆い隠していた布を取り払った。


 写真通り色合いの悪い皴だらけの顔が現れる。




「ん…?」




 検体の顔に小さな傷が複数あった。皴に紛れているが、中には薄っすら血が固まっているものもある。


 この世界のカメラは精密さに少し欠けているので、先ほど見た写真に傷はハッキリ写らなかったのかもしれない。引っ掻き傷らしい無数のそれは、額や顔の側面、顎などに集中していた。


 顔全体を満遍なく眺めた後、今度は眼球を確認するために瞼を押し開けた。少し顔を離して眼球に光を反射させると、だいぶ瞳孔が濁っている。


 まあ、歳を取れば目の病気を患って瞳孔が濁ることもままある。


 瞼を裏返すと赤い小さな点が無数にあった。


 瞼を戻して今度は口を押し開ける。嫌な臭いがグッと強まり、息を止めて覗き込む。内側に所々だが瞼と同じく溢血点いっけつてんが見られた。


 そうして首の付け根へ視線を移す。


 皴で分かり難いが絞殺の痕などは見られない。


 無数の引っ掻き傷だけでも疑わしい。普通の人は自分の顔に爪を立てたりしない。


 加えて瞼や口内の溢血、血液の非凝固性などからしても凍死や自然死でないのは明らかだ。


 なのに、記憶をいくら掘り起こしてみても合致する死因が思い出せない。何だったかな。


 持ち上げていた首をトレイに戻し、布をかけ直して再度手を合わせる。


 忘れているのか、本当にわたし自身が知らないのか、すっきりしない気分に思わず首を傾げたら乾いた音が鳴った。


 使った手袋を指先が内側になるよう丸めて外し、ポケットに仕舞う。


 思い出せない時はいくら頭を捻っても出て来ないものだと諦め、トレイを持って立ち上がる。


 カルクィートさんが振り返った。




「終わりました。片付け、お手伝いしますよ」




 カルクィートさんは何か言いたげであったけれど、気付かない振りをして解剖室の片付けを手伝った。


 バラバラになった献体を袋に詰め、首も布ごと包んで袋へ入れる。いくつかの袋に全てを分けて詰め、台車に載せた。




「運ばないんですか?」


「はい。焼却はまた別の人達が行うので、僕達の片付けは何時も此処までです」




 そういえば運搬と麻袋の焼却処分は部に入りたての院生達がやるんだった。




「そろそろ人が来るので出ましょう」




 廊下に出ると新鮮な空気に包まれる。


 シャツの襟に鼻を寄せれば、思った通り、香水に混じって血の臭いがした。


 あれだけ濃い血の臭いがこもっている中に長時間居たのだ、臭いが付くのも当然だ。




「それでは、わたしは失礼します」


「……ああ、手伝ってくれてありがとう」




 言い難そうにカルクィートさんが喋る。


 一応今のわたしは何れ入学してくるかもしれない後輩で――まあ実年齢は上だが――設定上は年下だ。先輩である彼がわたしに敬語で話しかけてはおかしい。


 彼は努めて口調を使っているみたいだが、ちょっとぎこちない。最初普通に話せていたのはわたしだと気付かなかったからだ。


 ともすれば不機嫌にも見える表情に笑顔で応える。




「どう致しまして」




 握手を交わし、カルクィートさんと別れて学院の外へ足を進ませる。


 早く帰って忘れないうちに今日のことを報告しなければならない。


 相変わらず警備が杜撰ずさんな門を潜り抜け、秋の微かに冷たさを含む空気に体をつつまれながら、長い石畳を踏み締める。


 大通りから脇道に入り、そこから更に路地を幾つも抜けて屋敷へ帰る。


 目立たないよう裏道を使ったせいで時間がかかったけれど、裏口を通って屋敷に入り、まずは自室に行く。


 暖炉に火を灯し、使用済みの手袋をポケットから出して放り入れ、着替えを手に階下へ向かう。


 働く他の使用人達の邪魔にならぬよう廊下を足早に抜けて上級使用人用の浴室へ入り、編み込んだ髪を解きつつ手櫛で梳かし、癖が出来てしまった髪を後ろで纏めておく。


 湯を沸かし、水を汲み、浴室にたらいとそれらを持っていって小さな湯船を作る。


 衣類は全て脱いで、髪を解いたら石鹸を泡立てて髪を洗う。染料を使用したから丁寧に洗わないといけなかった。泡が染料の明るい茶に染まる。


 しかし二度洗えば元の黒髪へと戻った。


 また石鹸を泡立て、今度は体を洗う。臭いが残っても困るのでしっかり洗い、ついでに顔も洗って湯で流す。


 それらを終えて漸く湯船に浸かった。




「……映画は偉大だ」




 やり過ぎに見えたスプラッター映画も、今ならばあのグロテスクさも頷ける。


 臭かったけど吐かなくて良かった。


 体が温まったら湯船から上がり、布で手早く体と髪の水気を切り、頭に巻いたら服を身に付ける。


 湯を捨て、盥を軽く洗って所定の位置へ戻し、髪を拭う。綺麗に落とし切ったようで布が汚れることもない。


 粗方乾いたら浴室を出て自室へ戻る。


 前に買ったオリーブ油を薄く顔と髪に塗る。髪はブラシで梳かしつつ、念入りに馴染ませた。


 乾いた髪を何時もの三つ編みに纏めて左肩へ流す。


 やっと普段の姿に戻れたわたしは書斎へ向かった。


 寝室にいたアンディに目で挨拶を交わし、書斎の固い扉をノックすれば、中から入室を許可する声が聞こえてきた。




「ただいま戻りました」




 顔を上げた伯爵が頷いた。




「ご苦労。立ち話も何だ、座って話せ」


「いえ、お心遣いは嬉しいのですが、このままで結構です」


「そうか」




 本を閉じて机の端にそれを除けた伯爵が話を聞く体勢になる。




「それで、どうだった」


「大変勉強になる良い経験を致しました。非常に興味をそそられ、思わず院生の方々の真似事を少々してしまいました」


「ふむ、お前が興味を持つとは珍しいな?」




 遠回しな言い方をするわたしに伯爵が乗ってくる。


 今日のことを思い出しつつ必要な情報を纏め、言葉を選ぶ。




「人は死ぬと普通血液の一部が固まると聞いていたのですが、中にはそうならない事例もあるようですね。

それに死因によっては内臓にも変化が現れるなど、改めて検分の大切さを痛感しました」




 多分、内容の意味は伝わっていると思う。ブルーグレーの瞳に先を促されたので続けて話すことにした。




「それから片付けを手伝わせていただいた際に誤って布を外してしまい、献体の方に大変な失礼をしてしまいました」


「落とした、などということはないな?」


「はい、わたしはそのような失態をせずに済みましたが、献体の方は既に怪我をされていたらしく、本当に申し訳ないことを致しました」



 

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