# The third case:Remembrance.―想起―

夢、一夜。


 





 夜も更け、人々が寝静まった頃、わたしは机に向かっていた。


 それなりに文字を覚え、専門用語や格式張った難しい言い回しのものでなければ大分読めるまで識字力が上がったので、最近ではもっぱら読書が趣味となりつつある。


 ふと懐中時計で時刻を確認すると短針が一を示していた。何気なく窓のカーテンを僅かに引いてみれば、煌々と輝く満月と満点の星空が見える。


 ……夜更かしし過ぎたな。


 読みかけのページに栞代わりの紙を挟んでから机にあった燭台の火を吹き消し、カーテンの隙間より微かに差し込む月明りを頼りにベッドへ向かう。


 紐を解いたまま緩く履いていたブーツを脱ぎ、ベッドへ横たわって毛布を引き上げると、不意に幼い顔が脳裏に浮かぶ。


 イルフェスはきちんと寝付けただろうか。


 じんわりと広がる心配に自然と苦笑が漏れる。


 四人部屋の小姓ボーイ用の部屋にイルは割り当てられた。男の子が子供のうちから出来る使用人の職と言えば小姓というのは妥当だが、人見知りをする子なので少し気にかかった。


 あの事件のせいか一人で眠るのが怖いらしく、出来ることなら一緒に眠ってやりたいところだが使用人棟は男性が一階、女性が二階と性別で分かれており、生憎そこに年齢の大小は関係ない。


 部屋に戻る前に会った従僕フットマンのアンディさん――執事バトラーのアランさんと家政婦長ハウスキーパーのベティさんの子で三兄弟の真ん中、わたしより三つ年上だ――に「アイツのためにもあんま甘やかすなよ」と釘を刺されてしまった。


 しかしイルは兄を失ったばかりで寂しくつらいのだろう。うなされて、何度か夜泣きをすることもあると聞く。まだ十歳なんだから多少甘やかしたっていいじゃないかと思ったのだけれど、伯爵にも「一人だけ贔屓ひいきしていると小姓同士で軋轢あつれきが生まれるぞ」とたしなめられた。


 たまに寝不足で眠そうにするイルを見かけると大丈夫か心配になってしまうが、わたしが構い過ぎて他の小姓と仲が悪くなるのはもっと問題だ。


 まあ、初日に一緒に寝たいと言われてわたしは女で、部屋は上の階だからそれは出来ないと話した時のイルの仰天具合は凄く、落ち着かせるのがとても大変だったが後になれば楽しい笑い話である。


 一日でも早くイルの心に安寧が訪れることを祈り、わたしも目を閉じた。






* * * * *






「セナ、今後イルフェスをどうするかお前の希望はあるのか?」




 朝食を食べていた爵は壁際に控えるわたしにそう問いかけてきた。


 感情の読み取りにくいブルーグレーの瞳には微かに好奇心の色が垣間見える。


 使用人の教育に関しては男性使用人であれば執事のアランさんの管轄で、直接教育を施すのは従僕達の役目で、屋敷に関する仕事は行わない近侍ヴァレットのわたしの意見など関係あるのだろうか。


 当のイルフェスは小姓の仕事として屋敷中のランプを拭いて綺麗にするという仕事の真っ最中で、本人の意思を尊重したくとも話を聞くことは出来ない。




「それはイルフェス本人に確認するべきではありませんか?」


「聞いたが『お前のようになりたい』『悪い奴を捕まえられるようになりたい』とハッキリしているのか曖昧なのか判断の付き兼ねる目標を返された」


「では、まずは読み書きと算術、礼儀作法、それから以前わたしがお世話になりました先生に護身術を学ぶ、といった辺りでしょうか。様子を見ながら勉強を増やしていけたら良いですね。旦那様はどのようにお考えで?」


「何(いず)れ従僕までは務めさせて経験を積ませたい。それまでは礼儀作法や読み書きは当然だが、次の仕事の内容を見て従僕と共に現場へ連れて行く。現場の状況を見て動けなくなっていては警官の道も厳しいからな。……その時は考え直すよう諭すしかあるまい」




 伯爵の側に控えていれば、そう遠からず悲惨な現場を目にするだろう。


 確かにそれに耐えられないようではこの仕事も警察の仕事も難しい。


 可愛いイルに血腥ちなまぐさい現実を突き付けるのは少々気が引けるが、これは遅いか早いかという違いがあるだけで通らなければならない道でもある。


 恐らくアランさんの息子達の従僕三兄弟も同じ道を歩んだはずだ。




「畏まりました。イルフェスが耐えられると判断出来ましたら、旦那様が必要と思う教育を授けてあげてください。わたしも時間の許す限り自分の持つ知識をイルフェスへ引き継がせます」


「……お前の知識を持ったアレを警察へやるのは惜しくなるな」


「その頃には旦那様へもほとんどの知識を披露した後かと思われますが?」


「そうだと良いのだが」




 今日はわたしは午後から半休の日なので仕事は午前中だけだ。


 朝食を終えて今日の予定を聞いた伯爵は自室で政務に当たり、わたしはアンディと側付きを交代し、残りの午前中いっぱいは衣裳部屋で繕い物や革製品の手入れをして過ごした。


 これと言って出掛ける予定もないので午後は読書でもしよう。






* * * * *






 人の足音に意識が浮上する。


 少し重たい瞼を持ち上げると、窓から差し込む日差しがテーブルを照らしていた。


 昼食後、男女どちらでも立ち入りが出来る使用人棟のサロンの片隅でのんびりと読書に興じていたのだが、どうやら途中で寝てしまったらしく、伏せていた体を起こすと枕に代わりにされた右腕が僅かに痺れる。


 眠たい頭でも何とか本を閉じて脇へ追いやったのだろう。


 左側に栞も挟んでいない本が置きっ放しだ。


 血の巡りを良くするために起こした上半身をやや反りながら両腕を頭上へ掲げて万歳をする。その状態で手を開いたり閉じたりしてみると右腕の感覚が消え、すぐに血の流れが戻って来る。両腕を下ろし、ついでに首も左右に曲げてみるとゴキッという鈍い音がした。


 指の骨を鳴らしていると関節が太くなってしまうという話があるけれど、もしあれが事実なら毎日首を鳴らしている人は首が太くなるのだろうか?


 唐突に浮かんだしょうもない疑問に首を傾げていれば、元気良くサロンの扉が開く。


 振り向けば扉を閉めたイルが満面の笑顔で小走りに駆け寄ってくる。




「セナ、旦那様が書斎に来て欲しいって言ってたよ!」


「旦那様が? 今日は特に御予定はないと思いましたが、何かおっしゃっていましたか?」


「ううん、ただセナを呼んでお前も一緒に来いって」


「そうですか。探しに来てくれてありがとうございます。それでは一緒に向かいましょう」


「うん!」




 柔らかい茶色の小さな頭を一撫でして席を立つ。


 窓硝子で大雑把に髪型をチェックすると少しだけ前髪に寝癖がついていたが、服に皺はよっていない。手櫛で整え、襟を正し、まだ眠気の残る顔を軽く叩いてから本を片手にイルと共にサロンを出た。


 差し込む日差しはやや暑く強いものの、夏だと言うのに気温は過ごしやすい。


 秋が訪れたら、伯爵に拾われて一年経ってしまうと気付き、不思議な気持ちになる。


 やや感慨深く思いながら伯爵の寝室へ行き、扉を叩いた。


 すぐに扉が開いてアンディが顔を覗かせて招き入れてくれた。


 更に書斎へ続く扉へ向かい、それを叩くと中から入室を許可する声が小さく響く。


 軋む音が立たないように気を付けながら扉を開けて中に入り、静かに閉める。


 イルはアンディに止められたので書斎へは立ち入らない。小姓だからというよりか、伯爵の書斎へ入ることが許されているのは使用人の中でもほんの一握りに過ぎないのだ。




「お呼びと伺いましたが、何か御用でしょうか?」




 問うとブルーグレーの瞳がこちらへ向く。




「リディングストン侯爵家へ行く」


「何か事件でも?」


「そうではない。今日は珍しく予定が空いたそうで、仕事を抜きで遊びに来ないかと手紙が着た。新しい小姓も見たいと催促もあったのでイルフェスも連れて行く。今日はキースもいるそうだ。急な話だがお前も行くだろう?」


「御迷惑でなければ。それと、こちらをお返しします」





 持ってきた本を書斎机の上へ置く。


 伯爵が器用に眉を片方上げた。




「もう読み終えたのか?」


「ええ、つい時間を忘れてしまうほど面白かったです。それに専門用語も噛み砕いた説明があり、医学に詳しくない者でも読みやすく、勉強になる内容でした」


「そうか」




 伯爵に勧められて借りた本は面白かった。


 中身は医学書だったが学生向けらしく、非常に分かりやすく書かれていた。


 わたしの感想にどこどなく伯爵の雰囲気に喜色が混じる。




「また何か面白いものがあれば貸そう」


「楽しみにしております」


「……ではイルフェスと共に支度を済ませておけ」




 喜んでいることをわたしに気付かれたのが恥ずかしかったのか、小さく咳払いをして喜色を消した伯爵が話題を戻した。別に恥ずかしがる必要もないだろうに。まあ、いいか。


 キースとグロリア様ならばきっとイルにも優しく接してくれるだろう。


 あの二人は身分という枠にあまり囚われない人達だ。


 それに前回は事件の最中だったため、キースともロクに話せなかった。使用人の仕事では休日がそもそも少なく、キースもスクールに通っており、自宅に帰省するのは長期の休みぐらいだと聞いた。


 久しぶりにのんびり話せると思うと嬉しくて口角が上がる。


 伯爵もそれに気付いたのか、珍しく口元を緩めて微かに笑みを浮かべた。




「ではイルフェスと共に支度をして来い」


「はい、失礼致します」




 浅く体を前へ傾けて退室の挨拶をし、扉を静かに開けて書斎を後にする。


 きちんと扉を閉めたわたしにイルがソロソロと忍び足で近寄った。




「イル、御者にこれからリディングストン侯爵家に行くことを伝えてください。それから部屋に戻って身嗜みの確認と、あなたの分の帽子も持ってきてくださいね」


「ボクも行くの?」


「はい。リディングストン侯爵家のお二人は恐らく今後イルもお世話になる方々ですから、一緒に御挨拶をしに行きましょう」


「うん、わかった!」




 仕事を頼まれたことが嬉しかったのか、それとも出掛けることが嬉しいのか、イルは二つ返事で部屋を飛び出して行った。


「まるで鉄砲玉だな」と言ったアンディの言葉に思わず噴き出した。


 伯爵は外出の用意に少し時間がかかるはずだ。それを手伝うためアンディも動き出すからこれ以上の長居は邪魔になる。「それでは」「ああ、また後で」と互いに言葉を交わして部屋を出た。


 本館から使用人棟の別館へ移動し、自室へ行く。


 夏ではあるが主人よりも高位の貴族家へ向かうのにラフな格好など許されない。鏡の前で改めてブラシで髪を梳いて纏め直し、シャツとジレ、アビの襟を整え、シワがないか確認する。


 使用人と言っても執事や従僕、近侍はわたしの想像する服装とは全く違った。


 少し流行遅れの色やデザインの服を着たり、主人よりも地味にして小物を減らしたりといった感じはあるものの、この世界での貴族や富裕層が着る服だ。執事、従僕、近侍とそれぞれ同じ職の者は色もデザインも揃いなので、一応はお仕着せと言えばそうなのだろう。


 秋が来れば拾われてから一年になるが、まだしばらくこの服装は見慣れないかな。


 何度見ても一瞬口の端が弧を描きそうになる三角帽トリコーンを持って玄関へ向かった。


 ホールには既にイルがいて、わたしの方へ駆けて来ようとしたが、執事のアランさんに鋭く名前を呼ばれてピタリと固まり、恐る恐るゆっくり歩き出す姿に笑いを噛み殺す。


 すぐに伯爵も来て、アランさんとアンディに見送られながら外に停めてあった馬車へ乗り込んだ。


 扉が閉まり、御者が乗り、走り出す。


 イルは意外にもはしゃぐことなく椅子に座っている。


 けれど、やはり外が気になるのか視線が落ち着きなく窓へ動き、やがて耐え切れなくなって伯爵に問いかけた。




「あの、旦那様、外を見てもいいですか?」


「構わんが、あまりカーテンは開けるな」


「はいっ、ありがとうございます!」




 あっさり許可を得られた嬉しさにイルはニコニコしながら窓に寄ると、言われた通りカーテンの隙間からこっそり外を覗き出した。流石に走行中に身を乗り出したり手を出したりはしないだろう。


 視線を戻せば何時の間にか伯爵がわたしを見ていた。


「どうかしましたか?」と聞くと「大した事ではないが」と前置きをして伯爵が言う。




「秋が来たらお前を拾って一年になるのかと、ふと思っただけだ」




 少し前にわたしが考えたことを伯爵も考えたらしい。


 というよりも、その言葉に驚いた。




「わたしを拾った日を覚えておいででしたか」




 てっきり忘れ去られているとばっかり思っていた。


 伯爵はわたしの言葉にやや気分を害した様子で「拾ったのは私なのだから忘れるはずも無い」と言う。それもそうだ。


 舞い込む事件の印象が強くて、正直この一年近くは随分短く感じられた。


 そして元の世界から離れて一年も経つというのに、心のどこかで変わらず後ろ髪を引かれている。ふとしたきっかけで帰れるかもしれない、なんてパーセンテージの低い希望を手放せないままだった。


 ……考えるのは止めよう。虚しいだけだ。


 あるかどうかも分からない可能性に縋るよりも、今をどう生きるか考えた方がよっぽど大事だ。




「――……ったと思っている」


「え?」




 不意に言われて聞き取れずにいたわたしに、伯爵がぶっきらぼうに言う。




「あの時お前を拾って良かったと、そう言ったんだ」




 それはわたしが持つ新しい知識を得られるからなのか。


 それとも良き助手だと思ってくれているからなのか。


 どちらにせよ視線が重なったブルーグレーには照れ混じりの優しい光が滲み、その言葉に嘘偽りがないことが伝わってきて嬉しくなる。


 わたしもあなたに拾われて良かったですよ、伯爵。


 返事の代わりに笑みを返せば、伯爵は満足そうに目を細めて車窓へ視線を滑らせた。



 

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