華、五輪。
伯爵の方は時間がかかるだろう。懐中時計を見れば正午に近い。
椅子を引きずって小さな暖炉の前に陣取って冷えた体を温める。
「そうだ、花弁も持ってきたんだっけ」
机の上に置きっ放しにしていたハンカチを持って暖炉の前へ戻る。
ちょっと嫌な臭いがするが構わずに開けば赤黒い花弁が一枚ある。
安置所の地下で見た時は完全に血に染まっている風に見えたが、明るい場所でよくよく観察してみるとピンクに近い紫色の部分もあり、花弁全体が恐らく薄いマゼンタに近い色合いなのが分かった。
楕円形ともアーモンド型とも言える形で大きさは爪くらいか。
やっと冬を終えた春先に咲く花は意外と多い。特にわたしなんか花の種類や花言葉といったものに疎くて、花を見ても‘ああ、綺麗に咲いてるな’程度の認識だ。似た花があったら多分違いも見分けられない。
「こういうのは物知りな人間に聞くのが手っ取り早いかな」
知り合いの中でも花に詳しい人間を思い浮かべる。
嫌いではないけれども、どちらかと言えばちょっと苦手な人物だ。どこが苦手か問われても上手く答えられないが、馬が合わないとも違う、微妙な感覚の苦手意識がある相手なのだ。
花弁ごとハンカチを畳んで机の上に戻す。
そろそろ食堂に行かなければ食いっぱぐれてしまう。
大分体も温まったので暖炉の薪を崩して熾火にしてから自室を後にする。
女性使用人は使用人棟の二階にあるため、階段を下りて本館一階の使用人食堂へ行けば、家政婦長と庭師頭が先に来て声を抑えて談笑している風だった。
家政婦長は三十代後半のややふっくらとした体型の女性で、庭師頭は四十代半ばのよく日に焼けた体格の良い男性だ。ちなみに家政婦長は執事のアランさんの奥さんだ。息子を三人も持つ母でもある。息子達も全員この伯爵家の従僕として働く使用人一家なのだ。
本来使用人の恋愛は禁止されるはずだが、
「あら、お帰りなさい」
「おお、セナ、ご苦労さん」
わたしに気付いた家政婦長と庭師頭に小さく会釈を返す。
「ただいま戻りました。何だか楽しそうですね」
歩み寄ると二人が顔を見合わせておかしくて堪らないという顔をした。
「それがね、うちのアルジャーノンが最近庭師の仕事に興味を持ってるらしくて、休みをもらっても使用人棟の裏庭で土弄りをしてるのよ。あそこ畑があるでしょう? 野菜を育ててみたいんですって」
「あいつはやる気はあるんだが、どうにも畑仕事が下手でなあ。鍬を持たせても腰が入ってないもんで土の掘り返しも浅いし、でかいミミズが出たくらいで飛び上がってるようじゃあまだまだだって話してたんだよ」
二人の話にアルジャーノンの顔を思い起こす。家政婦長の三人目の息子で年齢はわたしの一つ上。三兄弟の末っ子だからなのか、物静かで口数も少ないけれど、働き者で気の優しい青年だ。
そして貴族の敷地には実は畑がある。アルマン伯爵家に限ったことではなく、特に領地を持つ貴族はカントリーハウスに畑があって、そこで採れる野菜が主人達の食卓に上がる。
アルマン伯爵家は領地を持たぬ宮廷貴族だそうだ。しかしこの家は特殊な成り立ちと血筋のために伯爵と名乗っているものの、実際に行使できる権力はそれ以上だと伯爵本人に聞いたことがある。
線の細いアルジャーノンが鍬で畑を耕す場面を想像して微笑ましい気持ちになった。
「そうなんですか。きっとアルジャーノンさんも初めてで慣れていないのでしょう。ですが何度もやっていくうちに段々勝手が分かるようになりますよ。わたしなんて当初は好き勝手して散々叱られましたが何とか形だけでも近侍には成っているんですから」
「確かに。お前さん、お客人だった時に柵をよじ登って抜け出してただろ? あれを見た時はとんでもない奴が来たと思ったもんだ」
「我ながらお恥ずかしい限りです。後で守衛の皆さんに怒られました」
「あはは、うちの息子達よりセナはお転婆だものねえ」
あの頃は外に出してもらえないと思って、自分のいる場所が一体どこで、どんな所なのか知りたくて屋敷の敷地を囲っている鉄柵をよじ登ってこっそり出掛けていたのだ。最初からバレていたが。
使用人として働き始めた際に真っ先に守衛の方々にお灸を据えられた。
伯爵は報告を聞いて呆れたらしい。こちらも後になって本人から聞いた。
そうやって談笑している間に料理長や御者頭、アランさんが食堂の前に集う。
先頭に立つアランさんが懐中時計で時刻を確認してから食堂の扉を開けた。
中では朝同様に殆どの使用人が席に着いており、やはりわたし達が入室すると立って出迎える。現代で例えるならば会社で部下が上司を立って出迎えるのに近いんだと思う。
毎日のことなのに、この緊張感のある静けさでの食事は少し居心地が悪い。
メニューは肉と野菜が入った温かいスープとパン、野菜を使った何かしらの料理が一品、飲み物はミルクや紅茶。庭師や御者など外仕事の使用人は寒い体を温めるために、酔わない程度に少量のシードル――
食事を終えたら上級使用人は席を立ち、二階にある
そこで上級使用人は家政婦長お手製のプディングやタルト、チーズなどを頂く。
家政婦長の作るものはどれも凄く美味しいので大好きだ。
「セナ、この後に旦那様の書斎へ行くように」
口に入っていたプディングを飲み込んで頷き返す。
「はい、畏まりました」
マナー違反にならない程度の速度でプディングとタルトを一切れずつ胃に納め、紅茶も飲み干してから断りを入れて退出した。
廊下で軽く服を叩いて皺を伸ばし、襟も整えつつ伯爵の寝室へ足を向ける。
書斎は伯爵の寝室の更に奥にあって、そこへ行くためには寝室を通り抜けなければならず、書斎への立ち入りは使用人の中でも伯爵より許可を得た限られた者しか立ち入ることが出来ない。
もしも無断で立ち入ればクビは当然、場合によっては厳罰に処される。
伯爵の下に届く書類は犯罪に関するものが多く、その情報を使用人が漏らして犯人や違法な悪事を働く者に逃げられたり、逆手に取られて危うい状況に追い込まれたりといった可能性もあるので神経質になるのも当然だ。
伯爵の寝室の前で立ち止まり扉を叩く。
「セナです。お呼びと伺い参りました」
やや張り上げた声をかければ内側から扉が開く。
出迎えたのはアルフさんだった。視線で促されて入室する。
寝室の扉を閉めて奥の書斎へ向かうアルフさんの後を追う。
「セナが参りました」
書斎の扉を叩いたアルフさんが声をかける。
一拍置いて「入れ」と返事があった。
アルフさんが扉を開けたので「失礼します」と断って入室する。
書斎は寝室より狭いが一人の人間が使う部屋としては十分に広く、壁は本棚に覆われ、正面の書斎机は本だの書類だのが積み重ねて置かれている。物が多いのに雑多に見えないのは本も書類もきっちり角を揃えて重ねてあるからか、部屋の主人の几帳面さが分かる。
背後で書斎の扉の閉まる音がした。
「午後についてだが、私は宝石商に聞き込みに行く。お前はどうする」
「ご許可を頂けるのであれば花屋を回りたいと考えています」
「あの花が気になるか。当ては?」
「知り合いに花に詳しい方がおりますので、まずはそちらへ伺ってみます。種類が分かればその花を扱う花屋へ聞き込みもします。博識な方でして、もしかしたらその花を扱う店も知っているかもしれません」
わたしの言葉に伯爵が呆れたように顔を上げた。
「お前は何時そんな人脈を作っているんだ」
花に詳しい人間というのは案外少ない。花屋や貴人に仕える使用人、貴人などは花の種類や花言葉も知っているけれど、労働階級の一般人は有名な花でもない限りはあまり花に詳しくない。
使用人は休みが少ない職業なのにそういった知り合いがいること自体、不思議なのだろう。
「お休みを頂いた時に街を散策しているんです。様々な職業に就く方との出会いや景色の良い場所を見つけられて楽しいですよ。体力作りにもなります」
「それは休みの意味がないと思うが」
「そうでしょうか? 私にとっては非常に有意義なお休みです」
「……そうか」
あ、今言いたいことが色々あったけど面倒臭くなってやめたな。
とりあえず気付かない振りをして笑みを返せば、伯爵がバサリと数枚の紙を机の上に放る。
目で示されたので書類を手に取って読む。
あまり格式張った文章は苦手なのだが、書類はある程度書式が決まっているので読みやすい。
書類にはこの王都の花街周辺にある花屋の情報が記載されていた。そこそこ大きな店から、ひっそりと商売をする小さな店まで、全てとは言えないが大よその店の名と店主の名前、そして住所も。
わたしは小規模過ぎる店を除いた他の店の場所を地図で確認して目に焼き付ける。
指輪を買ったのが犯人で、花屋から花を買った者だとしたら小規模の店で買わないと思ったのだ。自宅に飾るにしても、犯人が被害者に贈ったとしても、見栄えの良いものは値も張る。
小規模の店には見栄えの良い美しい花は少ない。
店の名も店主の名前も覚えていなくても何とかなる。
重要なのは店の位置を間違えないことだ。
「…………ありがとうございます」
書類を整えて伯爵へ返却する。
個人情報なので持ち歩くわけにはいかない。
伯爵は受け取った書類を机の端に置き、元の書類へ視線を落とす。
そうして、さっさと行けと言わんばかりに軽く片手を振った。
……わたしを犬と勘違いしてない? まあ、いいけどさあ。
その場で一礼して下がり、静かに扉を開けて執務室を出る。
寝室にいたアルフさんがティーセットの乗ったワゴンを押して、わたしと入れ替わりに執務室へ入って行く。午後に伯爵について宝石商を回るのは恐らく彼の役目になるだろう。
寝室を出て扉を静かに閉めたら廊下を足早に進み使用人食堂へ行く。
そこから使用人棟の自室へ戻り、上着を着て帽子を頭に被る。
使用人棟から裏門に回って仕事に出る旨を門番に伝えて道へ出る。
使用人の私は屋敷の馬車を使えないので移動は徒歩か、適当な場所で辻馬車を掴まえて乗るかといったところである。辻馬車もそう気軽に使えるほど安い値段でもないため財布事情を考えると徒歩だな。
「今日は足が棒になるかもなあ」
歩く距離を想像して一瞬だけ挫けそうになったが首を振って追い出す。
これも仕事のうちと思ってやるしかない。
道を行く人々の波に紛れて歩きながら行くのは
そこに花に詳しい知り合うがいるので最初の目的地はそこだ。
それは男娼のみが働く娼館だ。普通の娼館と違い目立つ商売はせず、元々貴族か大商会などの金のある者でない限りは男娼を買う事も出来ないのだから目立つ必要がないのも頷ける。男娼の方が高いらしい。
この国では結婚は出来ないが同性同士の恋愛は許されている。
女性の娼婦と遊ぶよりも男娼の方が妊娠のリスクを負う必要もないため、貴族の中では結婚するまで男娼の下へ通う者も少なくないらしい。男娼の愛人と結婚後も関係が続くこともあるとか。
結婚を許さないのは貴族の血筋を絶えさせないためで、政略結婚して跡継ぎが生まれたら夫婦でお互いに愛人をつくって後は好きに暮らす。そういう状態も珍しくないと言う貴族世界の泥沼感が凄い。
感心とも呆れともつかない気持ちでつらつら考え事をしながら歩く。
わたしの見た目だと花街地区に入れないことがあるのだ。
東洋人は幼く見えるという都市伝説的なアレはここでも発揮されてしまい、実年齢より下に見られるので「子供が来るところじゃない」と追い出された経験も一度や二度ではない。
右へ左へ路地を通り抜けて娼館へ行く。道を知っているのは、そこで働く男娼が貴族の子息と無理心中しようとしたことがあり、その時に偶然居合わせて止めに入った張本人だからだ。
わたしの休み中に起こったことなので当然だが伯爵はいなかったのだ。
薄暗い裏通りの一角にある重厚な木の扉の前に立って、扉を叩く。
回数は二回、一回、三回、最後に二回。
すると扉が開き、わたしよりもやや背の低い可愛らしい少年が顔を覗かせた。
「あっ! いらっしゃいませ!」
わたしを見るとパッと表情を明るくして建物の中へ入れてくれる。
中は赤と黒を基調とした物で統一され、赤い派手なソファーには二人の見目麗しい男達が座っていた。
片方は以前訪れた時に話を聞いたことのある男で、もう片方は新しく入ったのか見たことのない男で、横にいた少年に手を引かれながら彼らの傍に行く。
「いらっしゃい、もう来てくれないと思っていたよ」
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