第32話 鼻血とお母さんの涙と

「前山! 園山から離れなさい!!」

 響くような怒鳴り声と同時に壁を叩く音が聞こえる。

 涙で曇ってよく見えない先におじいちゃん先生がいるのだけは分かった。


 少し遅れて他の先生たちも来て私の上にいた毬乃は引き剥がされた。

 糸の切れた人形のようになった毬乃は引きずられるように窓の方に連れて行かれた。

 私を見て毬乃が何か言っていたけれど、私は図書室から連れ出されてしまったから分からない。


 そのまま保健室に連れて行かれて手当てをしてもらった。

 首の噛まれたところに血は出ていなくても歯型が残っているらしかった。消毒されると痛かった。

 保健室の先生は、報告に行ってしまって保健室から動かないように言われた私はベッドに座っている。

 当然、騒ぎを起したから二回目の親の呼び出しになっている…と思う。


 毬乃は、どうしちゃったんだろう。

 何個も約束を破られた。でも、それ以上に乱暴にされたことが悲しくて涙がにじんでくる。


「ちえ!」

 一人でべそをかいていたら保健室の扉を乱暴に開けてお母さんが入って来た。

「お母さん、私…あの…」

「言わなくて良いから!」

 女の子の日が来たことを伝えようと思ったのにお母さんは私を抱きしめて口を塞いでしまう。


 お母さんはおじいちゃん先生が来るまで離してくれなくて何も話ができなかった。

「こちらの監督不行き届きです。申し訳ありません」

 最初におじいちゃん先生は、私たちに頭を下げた。

 先生達は、転校前から毬乃が起した問題を知っていて、問題が問題なのでそれとなく毬乃のことは気にしていたらしい。

 ただ、聞いていたよりも明るく良い子で大人しくしているから安心していたと。

 おじいちゃん先生は、時々図書室で私たちがくっついているのも知っていた。

 女の子同士が仲良くなるとありがちだと思いながらも様子を見に来ていた。

 それで今日も様子を見に来て、あの現場に遭遇した。

 毬乃が来たことを知った他の子がいて職員室に話に行ったから、あんな風に先生たちが来たんだ。

 おじいちゃん先生は自分が見た状況として話している間、つないだお母さんの手がずっと力が入って痛かった。

 私は毬乃とふざけあっていて転んだ。たまたま今日初めて女の子の日になったと言う説明は信用してもらえなかった。

「ちえ…」

 お母さんが私をじっと見る。

「本当だよ。毬乃とふざけてただけ」

「ちえ!」

「本当なの。ちょっとふざけすぎて歯型がついちゃったけど。毬乃は悪くないの。本当だよ」

「ちえ! もう良い。何も言わなくて良いから」

 お母さんは、また私の頭を抱え込んでそう言った。

「娘の処分は、どうなりますか?」

「被害者、という事になるでしょうから処分は無いと思います。最終的には明日の緊急職員会議で決まります」

 処分? 被害者って?

「違います! 私は毬乃とふざけてて」

「ちえ、黙りな。勝矢先生が話しているンだよ」

「でも、だって、毬乃が」

「園山さんには他の生徒に動揺を与えないために首の歯形が消えるまでは休んでもらうことになると思います」

 おじいちゃん先生は私の声が聞こえないように話を続ける。

「休んでいる間は、基本的に外出禁止でお願いします。今日はまだ娘さんも混乱しているでしょうから、お帰りいただいて、ゆっくり休ませてあげて下さい。何かあればご連絡しますので」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて帰らせていただきます」

 立ち上がったお母さんは頭を下げてから私の腕を引っ張って力ずくで立たせる。

 それから頭を後ろから押されて頭を下げさせられた。

「あの、先生。毬乃は、前山さんは…」

 おじいちゃん先生は、私の方を向かなかった。


 手を引かれた私は、大人しくお母さんのあとについて保健室を出る。

 そこに赤い顔をした茶色の髪の女の人が早足で歩いて来た。

「前山、待ちなさい!」

 先生の声がしたから振り返ると毬乃が青い顔をしてこっちを見ていた。こっちに来ようとしているのを先生達が抑えている。

 戻ろうとした私の肩をお母さんがつかむ。

 お母さんの方を見ようとすると私たちの横を茶色の髪の女の人が横を走り抜けて――毬乃を殴った。

 ごん、とすごい音がして毬乃が倒れる。

「目を放した隙に逃げ出して! あんたは、また!! どれだけ私に恥をかかせれば気が済むの!!」

 何度も毬乃のママが毬乃をグーで殴る。

「お母さん、落ち着いて下さい!」

 慌てて先生達が毬乃のママを止めている影で見えた毬乃のワンピースに何ヶ所も小さな赤い点が増えていく…

「毬乃!」

 近づこうとして、肩をつかむお母さんの手に力が入って私は向きを変えられてしまう。

 毬乃が鼻血を流しているのが見えたのに。

「行くよ。あれは他所の家の問題だ。家には関係ない」

 お母さんの力には勝てなくて、何度も振り返りながら校門の外に止めてある車まで引っ張って連れて行かれた。

 上履きも履き替えてない。毬乃のところに行こうとしているのが分かっていたようだった。

 車に着いても助手席側から手をつかんだまま、お母さんは車に乗った。引っ張られるままに私も車に乗るしかなかった。

「逃げないから手を離して。痛い」

 ウソじゃなくて本当につかまれた腕が痛い。

 お母さんが手を離すと指のあとがついてる。でも、これはお母さんの手じゃない。もっと細くて小さい。毬乃の手だ。痛いその指のあとに手を重ねる。

 最後に見た毬乃はいつもの大好きな毬乃だった。

「毬乃、鼻血出してたのに…」

「言ったろ。あれは他所の家の問題だって。他所の子より自分の子供が可愛いなんて当たり前のことを言わせないで。まったく! 本来ならお祝いするのに、なンでこんなことに」

 私は黙った。怒っているお母さんが怖いからじゃなくて悲しそうな顔をしていたから。


 家に帰ってお父さんの優しい顔を見ると、ほっとした。

「で、本当は何があったの?」

 リビングでテーブルにつくと腕を組んだお母さんが低い声で聞いてきた。

「だから、毬乃とふざけてて…」

「ちえ…そンな嘘が通用すると思ってンの? 親を馬鹿にするのも良い加減にしな!」

 お母さんがテーブルを叩いてすごい音がした。私はその音にびくっとしてしまう。

「じゃあ、聞くよ。どういう悪ふざけをしたらこんな風にショーツが千切れるの?」

 ショーツという言葉にお父さんがぎょっとした顔でお母さんと私を交互に見る。

 図書室で毬乃に掴まれていた破れたショーツ…どうしたんだっけ。保健室で専用ショーツをもらった時は足になかった。

 思い出そうとしていると小さい中の見えない紙袋が目の前に置かれた。怖くて袋を開けられない。

「ひっ、引っかかって破れたの」

 嘘は言ってない。毬乃の手が引っかかって破れたはずだから。

「ふぅん。引っかかってね。スカートがあるのに? 何に引っかけたのか言ってごらんよ」

 すぐに嘘が思いつかなくて私はうつむいてしまう。

「まさか…ちえ。あンた達?!」

 椅子を倒してお母さんが立ち上がる。

 私はぎゅっと口を閉じて何も言わないようにする。嘘なんかついてもすぐばれちゃう。だったら何も言わない方がいい。

「ちゃんと答えなさい、ちえ!」

 でも、黙っていたら毬乃を好きなのも嘘になってしまう気がして私は顔を上げた。

「悪いことなんてしてない」

 お母さんは怒って真っ赤な顔になっていた。

「私が毬乃を大好きで、毬乃も私が好きで。

 私に恋してるって言った毬乃の気持ちが嬉しかった。

 好き同士だからそうなっただけだもん。

 恋人がそういうことしてるのは小説に書いてあるし、映画だってそうでしょ。

 私は毬乃に触られて嬉しかったし毬乃だって喜んでくれてた。

 今日だって、ちょっと毬乃の機嫌が悪かっただけで、そんなのすぐに仲直りできるよ!」

「…ちえ…待って。話を聞いて…」

 お母さんが止める言葉を聞かないで、私は溢れる感情のままに言葉を続ける。

「初めて好きになった人が毬乃だっただけ。それの何が悪いの?!

 初恋が女の子じゃだめなの? 毬乃が男の子だったら良かったの?

 でも、そんなの関係ないよ。

 だって、だって私は毬乃を愛してるんだもん!」

「ちえ!」

 お母さんの声と同時に頬が痛くなった。

 叩かれた…

「ひどいよ! どうして叩くの。人は動物じゃないから叩いて言うことを聞かせるなんて間違ってるって、いつも言ってるのに。お母さんのうそつき!!」

「違う…違うんだよ、ちえ……」

 聞いたことの無い弱弱しい声に驚いてお母さんを見る。

 テーブルに両手をついたお母さんはうつむいてしまった。その顔の下あたりのテーブルが濡れている。

 泣いている? 黙っている間にも涙が落ちている。

 お母さんを泣かせた――その事実に私は愕然となって話せなくなってしまう。

「ちえ、いつも言っているよね」

 倒れた椅子を起こしてお母さんを座らせたお父さんが静かな口調で言う。

「僕達は悪い事をしたら叱る。それが大人である僕たちの役割だからね。ましてや僕達はちえの親なんだから」

 でも叩かれたことが不満で私は痛い方の頬を押さえる。

「ちえは、お母さんが声をかけても聞かなかっただろう。それは話を聞かないちえが悪い。痛いのは罰だから我慢しなさい。

 いいかい、ちえ。良く聞きなさい。悪い事というのはね、何も毬乃ちゃんを好きになった事じゃ無いんだよ」

 お父さんの言葉に驚いてお母さんの方を見ると、うつむいたまま小さくうなずいていた。

「ちえの言うとおり好きな人と愛し合うことはおかしなことじゃない。自然な事だと僕も思う。

 でもね、ちえも毬乃ちゃんもそう言う事をするのはまだ早い。

 何故なら二人ともまだまだ子供で身体も心も準備ができていないから。

 子供のうちからそういうことをすると成長に悪影響が出ることもある。

 好きだから何でも許すんじゃなくて自制も必要なんだ。

 大人でも難しいのにちえたちにはできていたかい?」

 毬乃にお願いされると好きだからって許していた私は返事ができない。

「人を好きになるのは良いと思う。

 でも好きは何でも許される免罪符にはならないんだよ。

 だからお母さんは怒っているしお父さんだって怒ってる」

「…毬乃を好きなのは…いいの?」

「そりゃあ親としては複雑な気持ちではあるよ。

 けれど人を好きになるのに性別が関係が無いことも僕達は知っているから。

 ただ、良く考えなさい。

 ちえくらいの子は恋に恋してしまう年頃だからね。恋をしていると勘違いしていると言うこともある」

「毬乃のことを考えると胸の奥の方がきゅうってしても、勘違い?」

「はは、これは重症だな。それでも、ちえ」

 お父さんが真面目な顔をしたから私は姿勢を正す。

「悪い事をしたんだから罰を与えるよ。それもお母さんを泣かせるような事をしたんだ。

 明日から歯型が消えるまで食事やトイレなんかの必要以外の部屋からの外出禁止。

 それと半年はお小遣い無し。何かちえから言うことは?」

「……ありません」

 自分のしたことで親を――お母さんを泣かせてしまったことがショックで何も言えない。

「じゃあ、お風呂に入っておいで。それからご飯にしよう」

 私は、立ち上がって顔を上げないお母さんを見る。

「お母さん…うそつきなんて言ってごめんなさい…」

 ちょっとの間、お母さんを見ていて顔を上げる気配が無かったので私は着替えを取りに部屋に向かった。


 叩かれた顔だったり、つかまれた腕だったり、噛み付かれた首だったり、む、胸とか、あっちこっちが痛い。こういうのを満身創痍って言うのかな。でも特に嫌な感じはお腹。これから毎月だと思うと気分が滅入ってくる。

 ちょっと休みたくてベッドに横になった私はそのまま寝てしまい、夕ご飯は食べられなかった。

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