第15話 風邪と初めての“おまじない”

 ……ぼやーっと天井が見える…私の部屋?

「ほら、大丈夫だって言ったろ。泣かなくて良いから」

 お母さんの声がする。頭がぼーっとしてよく分からない。

「あっ、ちえ起きた?」

 水の中にいるような見え方で毬乃が覗き込んでるのが分かる。

 謝らなきゃ…でも、起き上がりたいのに身体が重たくて起き上がれない。

「ごめん…ね…毬乃」

 他人のようなかすれ声が聞こえる。のどが痛い。

「いやな気持ちにさせて…ごめんね」

「ううん。わたしもごめん。でも今は休んで風邪治して」

「か…ぜ…」

「うん。診療所ってとこからおじーちゃんなお医者さんが来てそう言ってた。ここ病院が無いんだねー。驚いちゃったよー」

「体調が悪いンだったら川に入っちゃだめだろう。倒れて毬乃ちゃンに迷惑かけて。ニ、三日は大人しくしてな。ちゃーんと大槻先生に注射も打ってもらったからね。お尻に」

「お尻に」

 お母さんの言葉を毬乃が繰り返す。

 ああ、大槻先生はみんなを赤ん坊の頃から知っているから女の子でもお尻に注射するから嫌がられているんだっけ。もちろん私だってそう。おじいちゃんだって男の人にお尻を見られたくない。

「桔梗さん、冷たくするの、頭と首の交換しますねー」

「お願い。終わったら毬乃ちゃンも下でご飯食べて」

「わっかりましたー」

 視界から毬乃の姿が消えた。

 重いまぶたに目を閉じると額に乗っていた温かいものがぺりぺりはがされた。

「ひえひえの張替えですよー」

 冷たいものが額に乗せられて、ぱっと目を開く。ぼんやりと楽しそうにしている毬乃が見える。

 冷たくて気持ちいい。

「次は首の交換するよー」

 私の首筋からまたぺりぺりとはがして冷たいのを張る、を二回してもらった。

 頭のズキズキとぼーっとしたのが、ちょっと薄れた気がする。

「寝て欲しいからもう下に行くね。んと、降りる前にいっこだけ話しとく。ビキニの話は桔梗さんにもうバレてましたー。そんで、これ」

 がさがさと音をさせて見せてくれたのは学校指定の新品の水着。

「買ってもらうのヤだっていったんだけど、ならちえと会わせないって言うから…出世払いで許してもらったんだよー」

「…お母さん…ずるい。私が買ってあげたかったのに……」

「買ってもらってないから! 出世払いなんだから。借金、そう借金だよー。この若さで借金持ちなんだよー、がっくし」

 久しぶりの毬乃のがっくしに笑い出したら咳になった。

「あー、ごめん。変なことしなきゃ良かった」

「だい、じょうぶ、だから」

 咳が出てのどが痛くても毬乃が笑っている。その方がうれしい。

「毬乃ちゃん、ご飯にするよ」

「はーい」

 鞄を持った毬乃が立ち上がって、もう一度私に近づく。

「ゆっくり寝てて」

 私の方を向いたまま後ろに下がって部屋の入り口で投げキッスをした毬乃はリビングに下りていった、と思う。

 規則正しい足音が遠くなるにつれて寂しさと心細さが大きく膨らんでくる。

 みんなで晩ご飯かぁ。いいな…一緒に食べたいな……


 眠ったり、苦しくなって目を覚ましたりの繰り返し。身体が水の中で浮かんでいるみたい。

「今日は帰るねー。ちゃんとノート取っとくから。無理して来ちゃだめだよって聞こえてないかー」

 帰り際に毬乃が顔を出してくれても頭がぼーっとして返事もできない。

「早く治るおまじない」

 綺麗な毬乃の顔が近づいてきて――左頬に触れる柔らかくてやさしい感触。

「じゃっまったねー」

 真っ赤になって恥ずかしそうな、でも嬉しそうな顔で毬乃は、でも逃げるように帰って行った。

 驚いたけど…嫌じゃなかった。

「もっと、熱でちゃうよ…ばか毬乃」

 くちびるに触れられた頬が熱のせいじゃなく熱くなっている。

 ああ、本当に熱が上がりそう……



 やっぱり熱は下がらなくて、翌日は学校を休むことになってしまった。

「じゃあ、畑に行ってくるよ。時間を見て様子を見に来るから大人しく寝てンだよ」

 おかゆを食べて――ちょっとしか食べられなかった――薬を飲むとお母さんは畑に行くのに私から離れようとする。

「いやだよ、お母さん。いかないでそばにいてよぉ」

 子供みたいに泣きじゃくってお母さんの作業着の裾を引っ張る。

 夜に何度もお母さんが様子を見に来てくれたのは知っていても寒くて頭がグルグルして心細くて一人になるのは怖い。

「早めに戻って来るから。それに良い子にしてたら毬乃ちゃンが来てくれるかもしれないよ」

「まりの……毬乃ちゃんずるい」

「なにがさ。あの子の何がずるいの?」

「だって、私はあンたなのに毬乃ちゃんなんだもん。ずるいずるいずるい」

 何度もずるいを言い続けて私は咳でむせてしまう。

「そうかぁ」

 立っていたお母さんがベッドに座ってつかんでいた手が離れてしまった。

「毬乃ちゃンは嫌だったか」

 掛け布団をずらしてお母さんが私の脇の下に手を入れて軽々と抱え上げてくれた。

「ごめンよ、ちえ」

 膝に乗せて抱っこしてくれるお母さんがうれしくて柔らかい胸に顔をうずめる。

「おかぁさぁん」

「ありゃりゃ、ちえが大きな赤ちゃンになっちゃったよ。しょうがないねぇもう」

 うれしい。うれしいけれどつらい。身体を起こしているのもベッドから出て体が寒いのも。

 お母さんは私をそっとベッドに横にした。

「いつも良い子で頑張ってくれるから、お母さンもちえに甘えていたのかもしれないねぇ」

「がんばってる?」

「そう。家事も勉強も。そりゃあ時々嘘つきになるけれどね」

「……ごめんなさい」

「そうやって、ちゃんと謝れるだろう。それも頑張っている一つだね。だからかな。ついついちえに甘えて仕事を優先しちゃってるンだよ。お母さンもお父さンも。悪いと思いながら一人で寂しい思いをさせてる」

「寂しく…ないよ。いまは毬乃もいるから」

 お母さんが頭を撫でる。でもお母さんの撫で方は力が強くてあんまり優しくない。

「じゃあ今日は農家の嫁を休んで、ちえのお母さンに戻ろうかね」

「…やっぱりいい。我慢できる」

 本当は一人はいやで、心細いのは変わらないけど、なんだかお母さんに甘えちゃいけないって思った。

「どうしたの急に? せっかく人が休めると思って喜んでいるのに」

「いい子にしてたら毬乃…ちゃんが来てくれるんでしょ?」

「ああ、気を使わせちゃったか。分かった。押し問答になるのはもう言わない。畑に行くよ。その代わりバイクで行くから、ちょくちょく戻るからね。じゃあ、大人しく寝てるンだよ」

 もう一回、頭を撫でてお母さんは部屋から出て行った。

 玄関の扉が閉まる音がして続けてオートバイの音。

 確かお母さんのオートバイは郵便屋さんとかが乗っているようなのじゃなくてガタガタ道でもどこでも走れるって言ってた。

 危ないから急いでいる時にしか使わないオートバイ。

 そのオートバイの音が遠くなっていく。

 我慢できる。寂しい。我慢できる。寂しい。グルグル頭の中で同じ言葉が回っている。

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