第7話 名前呼びと遠くの景色と

「ちっえー、起きなさーい」

 誰かの声で私を起こす声が聞こえる。

「お母さん? 畑に行く前は起こさないでぇ」

「ちえは、お寝ぼーさんだねー。起きないとちゅーしちゃうぞー」

 毬乃だ。私、いつの間にか寝てた?

「えっへへー、起きたー?」

 目の前には毬乃のアップ。鼻が付きそう。

 勢いよく立ち上がった彼女は見下ろしながら私にVサイン。

「毬乃ちゃん大復活! お騒がせしましたー」

 続けて、びしっといつもの敬礼。

「大丈夫だからデートの続きをしよーぜぃ」

「本当に大丈夫なの? さっきはすごい具合悪そうだったよ」

 今度は逆に私が座ったまま毬乃を見上げる形。

「いやー予定くるって始まっちゃったから貧血気味で。しかも寝不足でさー、ごめんなさい」

 長い髪を気にしないでばさっと頭を下げる毬乃。そんな勢いよく頭を振ったらそれこそ貧血がぶり返すんじゃ。

 私の心配をよそに毬乃は頭を下げたまま話を続けた。

「ちーちゃんを置いて帰っておいて、わたし怖くなっちゃったんだよ」

「ちがーう…」

 下ろされた頭のてっぺんを見ながら、さっきの毬乃の口調のまねをする。

 不思議そうな表情で中腰の毬乃の顔だけが上がった。

「ほへ?」

「ちっ、ちーちゃんじゃなくて、ちっちえ、でしょう」

「ちっちえ?」

 にんまりと意地の悪い笑みを浮かべて胸をそらしてふんぞり返った毬乃のニヤニヤ笑いは止まらない。頭を左右にゆらゆら振り出しながら私の表情を見ている。

 むー、分かってやっているのはこっちも分かっているんだ。

 じーっと毬乃の顔を見て、ぷいっとそっぽを向く。

「じゃあ、もうデートは終わりね、ま・え・や・ま・さん」

「ぎゃー!!」

「ぶはっ!」

 毬乃の叫び声に横を向いたまま私は吹き出した。本当にぎゃーって言った。

 横を向いていたから見えてかったけれど一瞬毬乃は固まっていたように何も言わず動きも無い――と思ったら膝立ちになった毬乃にガシっと両肩をつかまれ激しく揺さぶられた。

「お許しをー! ちえって呼びます。呼ばせていただきます。なんでもするからー」

 がくがく、がくがく。揺さぶられながら話すタイミングを待ってみるけど止まらない。

「も、う、わかった、から」

「ホント?」

 揺するのを止めて上目がちに見てくる毬乃の瞳に映っている嬉しそうな私の顔。 

「ホントに終わりにしない?」

「もちろん。毬乃が大丈夫なら、このまま上に行くし体調が良くないなら次の場所にするけど。階段、上れそう?」

「ゆっくりでいーなら。都会っこは体力無いのだー」

「うん。無理しないでゆっくり行こう」

 先に立ち上がった私はお尻をはたいてホコリをはらう。

 レジャーシートを折りたたんでバスケットからレジャーシートがもともと入っていたビニールにしまう。

 遅れて立ち上がった毬乃を見るとワンピースの裾が土で茶色に汚れてしまっていた。さっき座ったのと私のおふざけて膝をついたせいだ。失敗した。白いワンピースを汚させちゃった。

「あらためて、しゅっぱーつ!」

 元気の戻った毬乃が高々と右手を上げる。

「毬乃、ストップ」

「ほへ?」

「そのままにしててね」

 最初に後ろに回って柔らかく白いワンピースの裾を叩く。強く叩きすぎると生地の中に入り込んじゃうから気をつけないと。うん、後ろは体育座りの時についただけだから大丈夫かな。

 立ち上がって今度は前に回りこんで自分のスカートの裾が地面につかないようにしてしゃがみ込む。

 前は裾だけじゃなくて膝の辺りも――そこが一番汚れていた。膝をついたらそうだよね……

 がんばってみたけど完全には落とせなかった。

「ごめんね。私がふざけたせいでワンピース汚れちゃった。全部は落とせなかった」

 顔を上げようとするとスカートの裾を持ったままなのに毬乃は後ろに下がって両手で私の頭を包み込む。

「最初もそうやってホコリ落としてくれたんだよねー」

 頭のてっぺんに毬乃の頬らしき柔らかいものが乗せられる。

「ありがと…」

 頭の上で動きがあって毬乃の言う最初の時と同じ感触を頭に受けた。今度ははっきりと分かる。

 頭にキスされた。

「さー」

 頭から唇と手も両方とも離れた。

「今度こそ、デート再開。で、いー…よね?」

「うん、行こう」

 待ち合わせの時とは逆に私が手を差し出して毬乃の手を取った。


 二人で手をつないで石段を上がる――のは、ちょっと無理だった。

 手をつないで上がるには石段はこう配がきつ過ぎたのと本調子じゃない毬乃が何度か休憩を入れないと上がれなかったから。

 苦労して石段を上がり切ったところはベンチ以外に何も無い広場になっている。

 ベンチのあるところが本日最初の目的地。

「ひっろいねー」

 説明をしようとしたのに疲れた様子はどこへやら毬乃は走り出した。

 まあいいか。笑い声が聞こえるから。


 ベンチに腰掛けて帰って来るのをのんびり待つ。

 バスケットから水筒を出していつでも飲めるように準備して。

 座りながら毬乃の姿を追いかける。


 急に毬乃が立ち止まった。くるっと振り返ると猛然と走って戻って来る。

 ぜーはー息を切らせている毬乃に黙ってお茶の入ったコップを差し出した。

 一気に飲み干した彼女がコップを突き出したのでもう一度お茶を注いであげる。

 今度は隣に座ってゆっくりと飲んでいる毬乃の汗をポケットから出したハンカチでぬぐう。

「ひどいよー。そばにいると思ったのにー」

 落ち着くと理不尽なもんくを言い出した。

「勝手に走り出したの毬乃でしょ」

「だって、ちえが見せたかったのってここじゃないの?」

「はぁぁぁぁ」

 わざと大げさにため息をつく私をじっと毬乃が見つめる。

「広場なんてわざわざ見せないよ。毬乃だってただ広い場所を見せられても面白くないでしょ。見せたかったのはね――」

 サンダルを脱いでベンチに立ち上がってみせる。

 首を斜めに傾げて私を見ていた毬乃は、?マークが見えるような顔をしながらも同じようにサンダルを脱ぎ始める。

 周りに人がいないからか毬乃はスカートを気にした様子も無く白い足を見せながら同じようにベンチに立ち上がった。白い綺麗な太ももにどきっとしたのは秘密。

「うわっ、すっごい!!」

 目の前に広がる景色に毬乃が歓声を上げた。

 広場自体は本当にただ広いだけだけれど、ベンチに立ち上がると手前に神社を見下ろして、さらにその先にはきれいな自然――山々が広がる。

「……ただ、綺麗ってしか言えない……」

 そう小声で言った毬乃は、景色を楽しんでくれているみたいだ。

 喜んでくれたようで一安心。

 いつだったか、一人でベンチに座って本を読んでいる時に急に立ち上がってみたくなって、この景色に気が付いた。

 ここも子供の頃はみんなと遊びに来た。けれど大きくなるとみんな石段が面倒らしく――と話しているのを聞いた――最近は村の子と会った記憶は無い。

 だから、多分この景色をみんな知らないんじゃないかな。

「さっきの神社があるでしょう。秋になると収穫祭で出店をやるの。うちも参加するんだよ」

「ちえんちで出店するの?」

「うん。みんなするよ。料理のコンテストみたいのもあるし。そうだ! 毬乃も一緒に出店しようよ。きっと楽しいよ」

 あれ、反応が無い。横の毬乃を見ると遠くを見ていた視線が下に落ちて神社を見ているようだった。

「毬乃?」

「秋かぁ。そーだね。できたら楽しいよね、きっと」

 こっちを向く毬乃の顔はまた例のひきつったぎこちない笑顔になっていた。

 何か言わなくちゃと思う私の耳にぐー、と音が聞こえた。お腹の音が鳴った。私じゃなくて毬乃のお腹が。

「えっへへー、お腹減っちゃった。何か食べに行こうよー」

「なに言ってるの? この辺にお店なんか無いよ。都会じゃないんだから」

「がーん! じゃあ、わたしのペコペコのお腹はどうやって埋めれば。もうちえを食べるしかないじゃん」

 こちらを向きながら毬乃が両手をにぎにぎして近寄ってくる。

「馬鹿やってないの。毬乃、お弁当があるって分かってやってるでしょ」

「はい、ごめんなさい」

 私の指摘を毬乃はあっさり認めて頭を下げた。

「早いけど移動してお昼にしようか。」

「えー、ここでいーじゃん。ベンチもあるんだし。ぶーぶー」

 疲れているから移動が嫌なのか毬乃は口を尖らせて文字どおりぶーぶー言ってる。

「ここだと太陽が直撃しちゃうし。ちょっと歩けば木漏れ日のきれいな林があるの。歩くのが無理そうなら、ここでもいいけど」

「んー、木漏れ日が綺麗かー」

 腕を組んで目をつぶり毬乃は思案する。その間もお腹がぐーぐー鳴ってる。

「ガマンしまーす。この景色を見せられて、さらに木漏れ日が綺麗なんて言われたら、その景色を見ながらご飯を食べないでどうするって思うじゃん」

 一人でうなずいた毬乃は、ぴょんとベンチを飛び降りる。翻ったスカートは、毬乃の白い下着を隠してくれない。

「毬乃、下着見えたよ! 気をつけないと」

「ん? 別にーちえしかいないから気にしなーい。それより腹ペコだから早く行こーよ」

 ベンチを降りようとすると毬乃がしゃがんで頬杖をつきながら楽しそうに私を見ている。

「何してるの?」

「いやー、見られちゃったからちえのパンツも見てあげようと思って」

「見せるわけないでしょ」

 そもそも毬乃のワンピースと違って私のエプロンワンピースはそんなにひらひらするような柔らかい素材じゃない。

 本気かどうか分からない彼女の期待に応えることなく私はベンチを降りてサンダルを履いた。

「ほら行くよ。毬乃もサンダル履いて」

「ざんねーん」

 毬乃がサンダルを履くのを待って、それから手をつないで歩き出した。

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