十頁「エピローグ」

 ――また守れないのか……。


「なんて……」


 ――膝を付いて。


「ごちゃごちゃ考えるのは、もうやめだ」


 ――倒し方を練りながら動き続けるんだ。


 正太郎は、右手の手首に前歯を突き立てると渾身の力で噛み千切った。

 痛みで意識を呼び戻し、正太郎は覚醒する。


「お前等、起きてるか!?」

「あったりまえでしょ!」

「大丈夫だよ!」

「まだやれます!」


 溢れ出る血は一滴も余す事なく黒いイバラへと変じ、正太郎の両腕に絡み付いた。

 戒めのつもりだった痛みが、今では正太郎を奮い立たせてくれる。


「美月」


 ――俺に力を与えてくれ。


「みんな正念場だぞ! 奴の動きさえ止めちまえば、俺がとどめを刺す!」


 今は、一人ではない。

 仲間がいるから負けられない。


「こいつをぶっ倒したら焼肉おごってやる!」


 正太郎は、両掌にイバラを巻き付けてから拳を作ると、ウロボロスへと駆け寄った。


「寝てる場合じゃねぇぞ!」


 正太郎の鼓舞を受けて薫は立ち上がると、右手首を噛み千切った。

 地面に零れた大量の血は、犬と猿の形へと変じ、身の丈は三メートル超に膨らんでいく。


「行け!!」


 薫の指示を受けた二匹の家来は、正太郎の傍らに寄り添うようにしてウロボロスへと走る。

 それを見ていた涼葉は、親指姫サンベリーナを作り出し、薫を見やった。


「亀城君。小さいきじ作れる?」

「ええ。でもこれで最後です」


 薫は手首から流れる血を、鳩の大きさのきじに変じさせた途端、へたり込んでしまった。

 出血量は、もはや限界。

 正真正銘、命を削って造り出した最後の一羽だった。


「エリカちゃん。このハンカチに入れられるだけ血の付いたビー玉を」

「うん」


 エリカは、涼葉から白いハンカチを受け取ると、ビー玉を一掴み乗せて、右手首を噛み切り、流血をハンカチへ注ぎ込んだ。


「先生! 時間稼ぎを!」

「はいよ! 任せろ!」


 涼葉の指示に正太郎は、巨大な猿を足場に跳躍し、ウロボロスへ飛び掛かった。

 落下の慣性を乗せて繰り出した拳は、ウロボロスを捉える事なく、煉瓦れんが造りの地面に突き刺さる。

 正太郎に出来た数瞬の隙。好機を見出し、牙をいたウロボロスの頭部を、猿の拳が打ち据えた。

 怯むウロボロスの頭に犬の牙が食らい付き、きらめく鱗に亀裂を入れる。

 防戦に回るウロボロスを、涼葉は嬉々と見つめていた。


「あいつは今、先生と亀城君のネクストページに意識が行ってるわ。これがラストチャンスよ」


 涼葉は、ビー玉の詰まったハンカチを風呂敷のように包んで、親指姫サンベリーナに背負わせてからきじの背に乗せた。


「亀城君!」

「任せてください!」


 親指姫サンベリーナを乗せたきじが舞い上がると、


「ウロボロスの頭上へ行って!」

「了解!!」


 薫の操作によって小さなきじは、ウロボロスの頭上へとたどり着き、羽ばたきながら滞空した。

 ウロボロスは、犬と猿を胴で締め付けながら頭上を仰ぐ。


「よそ見すんなよ蛇野郎!」


 意識が逸れた絶好の機会に飛び込んだはずの正太郎をウロボロスの視線が射抜いた。


 ――誘われた!?


 ウロボロスの尾は、イバラで覆われていない正太郎の腹を打ち据え、上空へと跳ね上げた。


「先生!」


 エリカの悲鳴を断ち切るように、正太郎が地面に叩きつけられる。

 そのままピクリとも動かない。

 エリカが駆け寄ろうとした瞬間、ウロボロスの尾がひるがえり、親指姫サンベリーナを乗せたきじをも打ち落とした。


「まだよ!」


 空中に投げ出された親指姫サンベリーナは、背負っていたハンカチを広げてビー玉を撒き散らした。

 ウロボロスの頭上のビー玉は、爆発的に体積が膨らみ、一つ一つがバス車両程もある巨大なガラス片となって降り注ぐ。

 圧倒的な質量の墜落から逃がれようとするウロボロスだったが、


「させるかよ!!」


 薫の犬と猿が喰らい付いて離さない。

 がんじがらめに胴を巻き付けていたせいで、余計に犬と猿から離れられなくなっている。

 本来のウロボロスなら回避など、息をするより容易い所業。しかし身動きを封じられた今、それも叶わず、無数のガラスの塊は、豪雨のようにウロボロスの巨体を打ち付け、犬と猿ごと押し潰した。

 如何にウロボロスの膂力りょりょくと言えど、しばらくは身じろぎ一つ出来ないはず。


「エリカちゃん!」

「よっしゃあ! ラスト!!」


 エリカは、トドメの一撃をガラス塊の隙間から覗くウロボロスの頭部へと繰り出すべく構える。

 だが、突如全身から吸い出されるように力が抜けていく。

 膝が震え、ついには堪え切れず尻餅をついた。

 グリムハンズ連射の出血多量に加えて、ウロボロスの与える睡魔がエリカを蝕み、追撃の体力を奪い去っていた。


「トドメ……」


 いくら大量のガラスでも、いずれはウロボロスの馬力に負け、砕かれるかもしれない。

 急いでトドメを刺さなくては。

 何よりも大切な人を奪った怪物を、生かしておく事なんか出来ない。


「先生の仇を!!」

「勝手に殺すな!」


 突如怒声が上がり、朱色と黒の影がウロボロスへと駆け寄った。


「これで終わりだウロボロス!」


 正太郎が吠え、イバラを纏って繰り出された右拳は、ウロボロスの額に打ち込まれた。

 その瞬間、原子分解が拳を中心とした球状に広がっていく。

 砂のように崩れるガラスの結晶と共に、白金の光球へと昇華してゆく怨敵を見つめ、 正太郎は右手で取り出した白紙の本に光球を封じ、本を閉じる感触を噛み締めた。

 ゆっくりと開き、ページに刻まれた新たな単語『ウロボロス』の五文字を、正太郎は微笑を浮かべて、じっと見つめていた。


 ――美月。ようやく終わったよ。


 本を閉じてから生徒達に視線を向けた瞬間、黒いイバラは消え去り、正太郎の意識は安らかな闇へと墜ちていった。







 県立彩桜高校・童話研究会部室で、三人の部員達は怠惰たいだに駄菓子をかじりながらグリムやアンデルセンの童話集の文庫本を読みふけっている。


「薫君。それ取って」

「沙月さんの方が近いよ」

「レディファースト」

「絶対意味ちがうよ」

「じゃあ部長命令」

「ああ、もう!」

「亀城君。悪いのだけれど、そのホッケスティックを取ってくれないかしら?」

「副部長命令?」

「もちろん」

「なんで僕、古株なのに役職ないの?」


 こんなやり取りを毎日続けている。

 以前、揺蕩たゆたっていた覇気の類は、今の童話研究会からは感じられない。

 神災級討伐から一週間、如月正太郎は姿を消した。

 病院に搬送された翌日、部員一同が見合いに行った頃には、退院したと告げられて以降消息は掴めないまま。


「如月先生。どこ行ったのかしらね」

「カラス達を使って探してるけど、どこにも居ないんだ」

「前も十年ぐらい外国に行っていたって話だし、心配ね――」

「だとしたら勝手だよ!」


 激昂げっこうするエリカの左脛すねに、にゃん子が頬を擦り付けてくる。

 エリカは、にゃん子を抱き上げると、ふわふわとした毛並みの額に口元を埋めた。


「大切に思ってる人が居るのに、何も言わずに行っちゃうなんて……」


 くすぶる思いは告げられず、会えないと一層膨らんでいくばかりだ。


「酷いやつ。サイテー」

「そんな人じゃないわ。私達の知ってる如月先生は」

「沙月さん。あの人は、帰ってくるさ。絶対に」


 涼葉と薫の励ましに、エリカは初めて部室に来た日を思い返す。

 化け物だと思っていたあの頃、正太郎に与えられた居場所。

 ここには、こうして大事な仲間が増えて――。


「うん」


だからこの場所に欠かせない大切の人が帰ってこなければ、沙月エリカにとって童話研究会は、本当の居場所ではなくなってしまう。


「そうだね」


 居場所を与えてくれたあの人が、居場所を壊すような事なんて絶対しない。

 でも、もしも帰ってこないというのなら――。


「いざとなれば、私が迎えに行けばいいや」


 お姫様が王子様を探しに行ったっていいのだ。

 物語とは、他人に描かれた物を読むばかりではない。

 自分の物語を紡ぐ事は、全ての人間に許された自由なのだから。







 日本政府がグリムハンズ治療のために設立した、某所病院に設けられた庭園。

 花々と蝶が彩り、甘美な芳香が鼻をくすぐるここで、如月正太郎と倉持健吾は木製のベンチに座り、空を眺めていた。


「正太郎」

「んー?」

「お前これからどうするんだ?」

「しばらくは教師やってるよ。先生の真似事で始めたけど、存外向いてる気がする」

「その割に、生徒には連絡取らないのか?」

「あ。忘れてた」

「わざとか?」

「素でやらかした……」

「お前、外国に行った十年前もそうだったよな。あの子たちに見放されるぞ……」

「ああ。気を付けるよ。あいつらは、俺にはもったいない生徒だ」


 そう、正太郎は恵まれすぎている。

 これ以上ない程、素晴らしい人達が寄り添ってくれている。

 正太郎にとっても童話研究会は、この上もなく居心地の良い居場所だ。

 だからこそ生徒達について、責任を持つ義務がある。

 教師としても、グリムハンズとしても。


「あいつらを鍛えないとだしな」

「一人前だって言ってなかったか?」

「まだまだ。あいつらは、超一流に育てる」

「厳しいな」


 着信音が鳴り、正太郎は朱色のジャケットのポケットからスマホを取り出した。

 相手はマリーである。


「よう。どうした?」

『体は、平気?』

「万全だ」

『フランスの一件まだ片付かない。協力して』

「了解。とびきり強力な助っ人を連れて行く」


 正太郎は、マリーとの通話を終えると、くだんの強力な助っ人に電話を掛けた。


「ようエリカ。久しぶり……無事だよ。そんなに怒るな。悪かったよ」


 正太郎とエリカ達は、教師と生徒で立場は違うかもしれない。


「お前さ、焼肉よりも高級フレンチ喰いたくないか?」


 けれど正太郎にとって三人は、生徒である以上に掛け替えのない仲間だ。


「もちろん本場のな。パスポート持ってるか?」


 それは、あの頃美月達に抱いた想いと変わりなく、


「よし! ならフランスフルコースの旅に連れて行ってやる!」


 この想いを大切にしていきたいと、自らに誓ったのであった。

                                   おわり

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新訳グリムハンズ ~彩桜高校童話研究会活動録~ 澤松那函(なはこ) @nahakotaro

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