第十八章 夢の時間とその終わり

第102話 王子様

「どこに行ってたんですか?」

「知ってるくせに」

 信じてはいたのだが、実際に見ると安心して、気が抜けたのか、涙が零れてきた。また、休んでいろ。なんて言われないように、シャーロットはゴシゴシと目を擦る。

「じゃあ、一緒に帰りましょうか」

 なぜか、見守る先輩たちまで涙ぐんでいた。当初はどうなることかと思ったが、なんとか解決した。これでまた、いつも通りの日々が返ってくる。そう思い、シャーロットは少女の手を軽く引っ張った。だが、少女はその場に立ち止まり、動こうとしなかった。じっと地面を見つめ、何かを考え込んでいる。

「あのね――」

 その俯きがちな顔を見た途端、全てが解決したと、そう思っているはずなのに、シャーロットは異様な不安感に包まれていた。まるで、夢を見ているかのような、そして、手だしの出来ないような遠い場所から少女を見ているかのような、そんな不思議な感覚に陥って、呼吸がだんだん苦しくなる。

「私――」

 次にくる言葉を、ずっと昔から知っていたような気がした。

「もう城には戻らないつもりなの」

 それほど、信じられなかったということなのだろうか。シャーロットには少女が言うことが、どこか遠い世界の、物語の中の台詞であるように聞こえていた。だが、冗談でしょう。と茶化す勇気も無かった。目を見れば分かる。少女は本気だった。

―――――――――136―――――――――

「これ以上外にいるとお身体に障ります。もう一度、考え直しましょう? 私と一緒にお部屋に――」

 そう言いながら、平静を装って、差し伸べた手は振り払われ、少女は、儚げな顔で僅かに微笑みながら、此方を見ている。

「ねえ、シャル。あなた、私が何でずっと部屋の中にいたのか、知ってる?」

 その問いに、知らない。と、そう答えるのは簡単だった。

 だが、シャーロットは、考え無しに言うより、間違っていても、自分なりに考えた答えの方が幾分かましだろうと考える。

「多分ですが――、病気によるものかと」

 そこで、一番に頭に浮かんだことをそのまま言った。

「それも、重大なもの。例えば、外気に触れると身体が溶けてしまうとか」

「それだと、今、私、外にいるから、溶けて死んじゃってるんだけど」

 少女は愉快そうに笑った。昔のシャーロットだったら、ご機嫌を取るためにつられて笑っていただろうが、今は笑えない。

「うん、でも正解よ」据わった目で、落ち着いた口調で、少女は言った。

「本当なら、私。今、死んじゃってるはずだもん」

「どういうこと……ですか?」

 試されているのだろうか? シャーロットは少女の表情を探るようにする。だが、どれもが、冗談には聞こえなかった。

―――――――――137―――――――――

「お父様から聞いてないの?」

 少女は首を傾げ、可愛らし気に言った。

「私ね、あなたの言う通り。重い病気だったの。外を歩いただけで、すぐに死んじゃうような酷い病気」

 そのまま、後々教えると言われたきり、結局告げられることは無かった、あの時主が仄めかしていたこと。自分の娘――少女が、部屋の外に出られない理由を語りだす。

「だから、生まれた時からずっと部屋に閉じ込められてた。お父様にも、お母様にも会えず、ずっと独りぼっち……。ううん、閉じ込められてたって言い方はきっとふさわしくない。閉じ込めさせてもらってた。うん、これが正しいんだと思う。外に出たら死んじゃうから、私を守るためにお父様は、自分の部屋から遠く離れたこの場所に、誰の目にもつかないような寂しい場所に、私の部屋を作ってくれたの。この部屋だけで、日常生活の全てが完結するから、召使いも、誰も要らない。便利なお部屋」

 シャーロットは何も言えない。ただ黙って、寂しげな少女の言う事を聞いていた。

―――――――――138―――――――――

「シャル。あなたがやってきてくれる前はね。私、ずっと独りぼっちだったのよ。たまに部屋で泣いていた。どうして、私のところには王子様がやってきてくれないんだろうって。……ねえ、シャル。聞いたことない? 絵本の中ではね、閉じ込められているお姫様のところに、真っ白な大きな鳥に乗った王子様が訪ねてきてくれるのよ。そして悪者を倒して、頑丈な扉を破って、広い世界に連れ出してくれる」

 それは何の根拠も無い、夢物語だった。

 何年前のことを語っているのかは分からないが、いつかは素晴らしく、偉大な未来がやって来ると信じて疑わない姿は、シャーロットに、少女も年頃の女の子であるということを再確認させる。けれども、少女が続けるお話は、シャーロットが知っている現実よりも、ずっと現実的でもあった。

「でも、よく考えれば分かることよね。私は別にいじめられているわけじゃない。想像の中で、自分を悲惨な運命にあるお姫様だと何度も妄想したけれど、結局、私が生きていること自体、愛されているからだと最後には気が付くの。大体、外に出たら死んじゃうのに、あの時の私は、本当に王子様が来たらどうするつもりだったのかしらね。……それで、何年か過ぎて、私も少し成長して、その頃には諦めてた。一生、此処で一人で寂しく過ごすんだと、心のどこかでそう思いながらも、たくさん本を読むことで、いつかは自分でこの病気の治療法を見つけ出して、外に出るんだ、とそんなことを毎日考えてたわ」

―――――――――139―――――――――

 どうして、今になってそんな話をするのか。それは、もうこれっきり。話をする機会なんて二度とこないから。そう暗に言われているような気がした。

 まるで、これまで仕えてくれたことへのお礼、餞別代わりとして言葉を渡しているかのように、少女は淡々と語り続ける。

「あなたが来たのは、ちょうどそんな時だった。私と違って、何の悩みも抱えていないような幸せそうな顔。今でも覚えてる。正直、最初はシャルが憎かったもん。毎日、ニコニコ顔で帰って行くあなたの姿を見て、どうにかして身体を乗っ取れないかとそればかり。本を読むのもそっちのけで考えてたのよ。あなたより、私の方が、世の中のために役に立てるはずなのに、どうして私だけがこんな目に合わなきゃいけないのかと、自分の運命を呪ってた」

「今は……今でも憎いですか?」

 そんなことを聞いている場合ではないのに、シャーロットは思わず尋ねていた。

「憎くないって言うこと、薄々分かって聞いてきてるでしょ。でも、残念。最初の印象ってなかなか変わらない物よ。今でも私は、自由なシャルを見てると、羨ましいし嫉妬もする。だけどね……」

 少女はニコッと安心させるように笑いかけてくる。

―――――――――140―――――――――

「それ以上に感謝しているの。……だって、シャルは私に、新しい世界を教えてくれたじゃない」

「私なんか、全然。お嬢様に迷惑かけてばっかりですし、今日だって……」

「そんなことないよ。初めて、本物の花を持ってきてくれた時、私、心臓が止まっちゃうかと思ったもん。シャルは外の世界から私の元にやってきてくれた。シャルは私にとっての王子様だったんだよ」

 何か言おうと思ったが、言葉が出てこない。何の汚れも知らないような、真っ直ぐな台詞にシャーロットはすっかり狼狽えてしまっていた。

 天にも昇る心地だったと表現しても、決して言い過ぎにはならないだろう。

 側仕えにとって、雇用主に喜んでもらえることは、至福のこと。一時は、出来るなら、この甘い余韻をずっと味わっていたい、とさえ思っていた。

 だが、シャーロットはどこまでも女中だった。彼女の本能は、少女が自分に向けた好意の何よりも、病気に対して鋭く反応するべきだ、と言っていた。

 そこで泣く泣く自分の心を公私で区切り、言わなければならないことを口にした。

「お嬢様、話してください。どんな病気なのですか、今は外に出ても大丈夫になった。そういうことなのですか?」

 聞きたいことを包み隠さず言った事で、今までの話の流れは見事に断ち切られた。いい雰囲気は跡形もなく崩れ去り、話を無理やり、終着点に持っていかれてしまった少女は、心なしかムスッとした顔になる。

 だが、特に不満を言うことはなく――、それともシャーロットが気が付かなかっただけで、それが不満だったのか、とにかく口を開いて言った。

―――――――――141―――――――――

「こうして今、生きているんだからってことじゃ、納得してくれないの?」

「そんなので納得できるわけないでしょう。後からじわじわと症状が進行してくるなんてことも無いとは限りませんし」

「……うーん。その点に関しては本当に大丈夫なんだけどなあ。仮に、計算を違えていたとしたら、もうとっくにポックリいっちゃってるはずだから」

 そのあっけらかんとした、自分の死を日常の一コマか賭けの対象としか捉えていないような言い方に、シャーロットは言いようのない気持ち悪さを感じ、ゾクリと身を震わせる。だが、きっと気のせいだ。そう自分に言い聞かせた。

 少女が考え無しに、行動するはずがない。

 きっと、シャーロットが倒れた日と少女の外出が重なったのは本当に偶然のことで、少女は図鑑を完成させようとしていた時のように、あらかじめ綿密な計画を練って、そして今日実行したのだろう。

 衝動的という言葉は少女には似合わない。少女は、分の悪い賭けを嫌うどころか、突き詰めきれないほど突き詰めてから、動き出すような性格なのだから。


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