第99話 脱走
「あーあ、つまんないなあ。ねえ、シャル。なんか他に面白い遊び無いの?」
少女は、既に自分の中で、話題を終結させていた。ギュッと枕を抱きしめて、気だるげにベッドに倒れ込む。口元を枕で隠して、両足をベッドでバタバタさせて……。うーうー言っている少女の顔は、言葉通り、本当につまらなそうだった。
逆にシャーロットは、申し訳なさでいっぱいでいた。自分が不甲斐ないばっかりに、少女の一日をすっかりダメにしてしまった。そう思うと途端に、居ても立ってもいられなくなっていた。昨晩、あと少しでも勇気を出していれば――。今からでも、もう一度、卵を取りに行った方がいいのではなかろうか。そうすれば、早ければ半日。遅くとも、少女の大切な一日のうちのいくらかは取り戻すことが出来るのだから。そして、少女の少し悲しそうな顔を、笑顔に変えることが出来るだろう。
―――――――――116―――――――――
「お嬢様、私――」
だから、シャーロットは、心を決めて立ち上がった。巣穴の位置は分かっているのだから。慎重さとは名ばかりの臆病気質を捨て、一直線に向かえば、運が良ければ昼時には戻ってくることが出来るだろう。そう思い、数時間の辛抱です。そう告げて、颯爽と部屋を飛び出し、ふたたび森に繰り出すつもりだった。だが――、
何の前触れも無く、視界がぐらりと揺れた。シャルは立ち眩みだろうと考えて、少女に笑いかけた。けれど視界が回り始め、身体も妙にフワフワしていた。そして驚く暇もなく、今度は一気に落下していくような感覚が――、血という血がことごとく抜け去っていくような感覚。悪寒に近い感覚に、シャーロットは全身を襲われた。
膝に力が入らなくなっているのが分かった。支えを失った自分の身体が倒れていくのが分かった。ひどい眩暈、踏ん張りがきかない、世界がぶれる――。少女が駆け寄ってくるのが見えた。だがこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
「大丈夫ですから」
その言葉を、シャーロットは繰り返した。まるで呪文のように何度も何度も唱えていた。けれど、大丈夫ではないことは明白だった。舌の回りも随分おかしかった。呂律が回らず、そのまま床に、崩れるように倒れ込む。
思えば、昨日。そしてその前から、危険を示す兆候はあった。夜の森を走り回っていた頃から、シャーロットの体調はおかしかった。なのに夜中捜索を続け、昼間はこうして少女とお喋り。睡眠不足を気にもせず、くまは化粧で押し隠してきたのだから、ぶっ倒れるのは自然なことだった。
―――――――――117―――――――――
だが、疲労からくる倦怠感。過労が常態化していたのだろう。シャーロットは、自分の体調がよく分からなくなっていた。危ない状態にあるのかさえも、判別できなくなっていた。しかし、意識はダメでも無意識は別。どうやら、優秀な身体はシャーロットの体調を、ちゃんと理解してくれていたらしい。
もしかすると、自分を酷使し続けているシャーロットに、ストップを掛けようとしてくれていたのだろうか。ひんやりとした感触を額に感じた。とともに、頭がグワングワンと大きく揺れ動き始めて――、強制的に目をつむろうとする身体に抗えない。シャーロットの意識は、少女の前だというのに、深い闇へと落ちて行った。
もう少しだけ、このままでいたい。そう思った。起きる直前、フカフカの布団は数段心地よさを増し、シャーロットは出勤前、いつもその誘惑と格闘する。少女の側仕えになってからは、始業時間が曖昧になったせいか、心なしか誘惑に負ける日が増えた。夜の間走り回って、朝方にようやく得られる僅かな一時。もう少し寝ていてもいいじゃない、と布団は誘う。丸ごと全てを包み込んでくれそうな包容力と温もり。それと、少女の笑顔。この二つを天秤に掛けて、やっとのことで、シャーロットは毎朝、目を覚ますのだ。
目を覚ますと、いつものように手を伸ばし、枕元に置いてあるはずの小型の時計を探す。七を指していたら……、少なくとも八つの鐘には間に合うように、そろそろ支度をし始めなくてはならない。いくら家から近いと言えど、城下町を駆け抜けるには、そこそこ時間がかかるだろう。……だが、
「ありぇ、無い」
もしかして、夜の間に蹴っ飛ばしてしまったのだろうか。寝相はいい方だと思っていたが、時計はどこにも見当たらなかった。
―――――――――118―――――――――
「下に落ちてるのかなあ」
そう言って、ベッドの下を覗き込むようにする。そして、
「ん?」
自分の家には似つかわしくない、緻密な幾何学模様が描かれた手織りの絨毯。格式高く高貴な雰囲気が漂っている、大きな本棚。それに、沢山の縫いぐるみが見えたところで、何かが変だ。と、シャーロットは、この時初めて気が付いた。
何故だかこの感覚に覚えがあった。光景もそうだが感覚の方に、何かが変だと感じること自体に、既視感があるのは不思議だった。
何処でこの感覚を感じたのだろう。それにどうしてこの感覚を覚えていないのだろう。そう考えて、シャーロットはしばしの間、動きを止める。
たしか、昨日は宿で寝て……いや、違う。どうして、宿などという言葉が出てきたのだろうか。自分の家で寝たに決まっている。いや、それも違う。そういえば、少女と会った後、部屋で倒れて――。シャーロットは毛布を跳ね除け、起き上がった。そして、自分が寝間着では無く、仕事着を着ていることに注意が行く。
目に入ってくるのは、見慣れた一室。程よく散らばった本の山。本棚の上の縫いぐるみたちと、ベッドの脇に置かれた兎の抱き枕がシャーロットの事を見返している。
私は仕事中に倒れたのだ。そう、気が付くまでに、もう時間はかからなかった。額に自分の手を当てて、よろめくように数歩歩くと、意識を失う直前のこと。少女とのやり取りがぼんやりと思い出されてくる。
あれから、どれくらい眠っていたのだろう? どのくらいの間、気を失ってしまっていたのだろうか? 自分の今の状態は――、ベッドに倒れ込んだ記憶はない。
だが、自分で寝ころんだのでないならば、少女がシャーロットをベッドまで運んでくれたということになる。そして、毛布まで掛けてくれたのだ。そう考えると、恥ずかしさと、申し訳なさが先に来た。そして、その後。
「お嬢様――」
周囲を見渡したシャーロットは、少女の姿が見当たらないことに気が付いた。
―――――――――119―――――――――
「お嬢様?」
ベッドから降り、目をパチパチとし、眠気を飛ばす。どこかに隠れているのだろうか? 最初に思い当たったのは、お風呂に入っている。その可能性だった。
主人または客人用の豪華な浴室。そして、住み込みで働く使用人たちのための大浴場。この城で風呂場と言えば、大抵その二つのうちどちらかを指している。だが実は、この城にはもう一つ。部屋の外に出られない、少女だけのために作られた、小さな小さなお風呂があった。この部屋――いや、正確には部屋の奥にある窓もない小部屋。姿が見えない時、大体少女はそこにいる。しかし――、
「お嬢さ……」
扉を開けてもその中には、水の張っていない空っぽの浴槽と、一つの桶が転がっているだけ。手洗い場にも、どこの場所にも少女の姿は見当たらなかった。しかし、まだシャーロットは慌てなかった。以前にも、少女は衣装ダンスの中に隠れ、シャーロットを驚かせたことがあったのだ。その記憶を頼りに、タンスを開ける。が、いない。本棚の陰になっている部分、後ろ。それから、先ほど覗き込んだがベッドの下。果ては、入るはずもないのに引き出しの中。シャーロットは、なくしものをした者が通る道をあらかたなぞった。物を退かし、また元の場所に戻し、最後には出てきてください、と少女を呼んでは、ただオロオロとした。そして――、
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案外、落とし物というのは、見つけやすい場所に転がっていたり、手掛かりが残っていたりするものである。シャーロットは、探し疲れて脱力するように椅子に坐り込んだ。その時、机の上に小さな紙切れが置かれているのに気が付いた。そこで、その見覚えのないものを、おや、と何の気なしに取り上げて見ると、
自分で探す。だから、シャルは休んで待っていて
それだけ。切れっぱしには、たったそれだけの短い言葉が、乱暴に書きなぐられている。故意か、それとも、偶然か。普段の少女の、流れるような美しい筆跡からは想像も出来ないような拙い走り書きを、シャーロットは食い入るようにしばらく見つめた。不意に、他にも何か書いてあるんじゃないか。と、そう思い、裏返してみるものの手がかりはない。インクが滲み、鏡文字になっているだけだった。
「お嬢様――!」
シャーロットはもう一度、目一杯の声で叫んだ。だが声は、四方の壁に吸い込まれるだけで、虚しさしか残らない。
既に部屋は探し尽くしていた。どんな隙間も、この目で調べたあとだった。シャルは思わず自分を疑い、少女が何かに変身していることを疑った。だけどそれならまだましだ。何かに化けているのでなければ、外に出て行ったとしか思えない。
汗が頬を伝い落ちた。心臓が早鐘を打っていた。責任問題になる――と、つまらない保身を考えたわけではなかった。自分の処遇なんて、この際シャルにはどうでもよかった。想定外の事態が起こったこと。それ自体に、シャーロットは焦っていた。
―――――――――121―――――――――
部屋の入口を閉ざす重厚な扉。一見それは、少女の自由を奪っているようにも見えるのだが、シャーロットはその扉に鍵がかかっているところを見たことがない。
いつでも、扉はただ押すだけで、または少女の方から引くだけで、簡単に開いていたものだったのだ。だから、物理的な問題に限っていえばおそらくは、この部屋に、少女の意思を邪魔できる物は何もない。
にもかかわらず、シャーロットが知る限り、少女は一歩たりとも、扉の外に足を踏み出したことすらなかった。暇を持て余すたびに、扉の向こうに広がる世界に思いを馳せては悲し気なため息をついていたことを思い返せば、少女が外に憧れを抱いていたことは間違いない。だったら、おそるおそる片足だけ踏み出してみるとか、扉の隙間から外を覗いてみるとか。口頭で禁じられているだけならば、こっそり外に出てみた経験があってもおかしくないだろうに。普段、諦めが良くない性格をしている少女は、何故かこの点に関してだけは、仕方のないことだと受け入れている様子だった。だから、シャーロットは少女の友だちであっても、監視役では無かった。少女が部屋から脱走する。そんなことは考えたことすら無かったのだ。
それに、後々教えると、主にそう言われていた以上、少女に直接話を聞いてしまうのは失礼だと考え、外に出れない理由について、シャーロットは少女に何も聞いてこなかった。ただ、少女自身も知らない、という可能性はないと見ていた。
まさか、理由も分からず、大人しく親の言いつけを守っているだけなんて。言い方は悪くなってしまうのだが、少女がそこまで素直な子どもだとは思えない。まだ年端も行かない。それも知識を得たくて、外を一目見たくて、憧れて図鑑まで自作してしまうような少女が、狭い部屋の中で我慢しているのには、何か重大な理由がある。勝手にシャーロットは自分の中でそう決めつけていた。
―――――――――122―――――――――
おそらくは、扉を開けて踏み出せば、自分の身に恐ろしいことが降りかかると分かっているから、少女は外に出ないのだ。例えば――外に出たら、死んでしまうとか。
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