第83話 内なる声

「じゃあ、何のために、アンタは……」

 ユリはルーツの頭に触れた。触れてから、気が付いた。

 助けると言うまでは、一歩もルーツに近寄らせまい。そう思って、私は赤鎧の足にしがみ付いていたはずなのに――。

 ユリはいつの間にか、ルーツに触れられる距離に居た。ルーツの鼓動が聞こえてしまう位置にいた。絶望している少しの合間に、ユリは赤鎧に引きずられ、ルーツの傍まで近づいてしまっていたのだ。

 あと少し。もうあと少ししゃがめば、赤鎧は槍をその手に出来る。そうなれば、あいつは槍を抜くことに何の躊躇もしないだろう。もちろん槍が抜けたところで、ルーツの生死が決してしまうわけではない。だが、今のユリにとって、自分以外の誰かがルーツに触れてしまうことは、刑の執行と同じ意味を持っていた。

―――――――――013―――――――――

「やめてよ……」

 もう足にしがみつくことも忘れて、ユリは赤鎧に訴えかける。だが、今まで散々否定され続けてきたのだ。赤鎧がルーツを助けてくれるはずがない。思い直すはずもない。むしろ、槍を引っこ抜く時に、わざと下手を打って殺すかもしれない。

 ユリは、訴えることの無意味さを心の内では分かっていた。分かっていながら、他に何も出来ないことが一番辛かった。

 止めなくちゃ。最後まで抵抗しなくちゃ。

 そうは思っているはずなのだが、身体はちっとも動いてくれない。

 思考はその場を回るばかりで、少しも形になってはくれない。

 生き残るための筋道は、まったくどこにも見えてこない。

 戻りたかった。赤鎧と出会う以前の時にまで。いや、王都にやって来る前に。いいや、出来ることなら、ルーツと出会う前にまで戻りたい。

 選考会に参加しなければ。ルーツを無理やり参加させなければ。そもそもルーツと出会わなければ、こんなことにはならなかったのだ。

「全部、全部、私のせいだ……」

 ルーツは、ユリがくるまれていたお布団を、とある魔獣から手渡されたと言っていた。……だけど、そのまま。私は魔獣と、行動をともにしていた方がよかったのかもしれない。誰にも見つけてもらえないまま、森の中で野垂れ死んでいた方が、まだ幸せであれたのかもしれない――。

 頭の奥がズキズキと痛んだ。気持ち悪い。気持ち悪い。食べた物や胃液と一緒に、内臓までもが身体の中を逆流し、今にも口から飛び出してくるような気がする。息が出来ない。苦しい。潰れてしまいそう。

―――――――――014―――――――――

 ――邪魔なら消してしまえばいいのに。

 すると、意識がふっと遠のいた。一瞬、痛みと苦しさが紛れ、違う世界に居た気がした。だがすぐに、また耐えがたい苦痛が戻ってくる。

 ――邪魔なんでしょ?

 ふたたび、ふわり。身体全体が、心地いい快感に包まれた。しかしその快感は、次の瞬間には鋭い針となり、更なる痛みを伴って、ユリの臓器を突っついている。

 ――簡単じゃん。邪魔なものは全部、消しちゃえばいいんだよ。

 身体の内側から、誰かに呼びかけられている気がした。

 心の奥底から、誰かに囁きかけられているような気がした。

 どこかでこの声を聞いたことがあるような気がする。ごく最近、それも王都にいる最中に。だが、思い出すことが出来ない。

 ――そして、私にはそれが出来る。

 その声に意識を預けている時だけ、痛みを忘れられた。

 現実に戻ると、痛みが襲った。

「やめて」

 赤鎧が、槍に手をかけている。

 ――私なら、ルーツに指一本触れさせやしないのに。

 心の動揺に入り込んでくるように、頭の中の声は一層大きくなっていた。声のトーンに比例して、両目の奥が熱くなり、行き所の分からない怒りが迸ってくるのを感じている。赤鎧に怒っているのか、不甲斐ない自分に怒っているのか。もうそれさえも分からない。そして、怒りとはまた別の、曖昧な感情を抱いている自分もいて――

―――――――――015―――――――――

「ごめんなさい」

 ユリは何故か、自分自身に対して謝っていた。自分に怒られ、自分が謝っている。その不自然さに脳が混乱し、思考を投げ出したくなってしまう。しかし――、

 ユリは舌を噛むようにして、手放しかけていた意識を何とか捕まえた。錆びた鉄の味が口の中に溢れ、さらに気分が悪くなってくる。だが、堪えがたい痛みと引き換えに、声は一時、ユリの中から、その姿を消してくれた。

「今の声は何――?」

 けれども、ユリに考える時間は残されていなかった。

 赤鎧が、槍を引き抜くために力をかける。ルーツの傷口から、暗赤色の血液がじんわりと湧き出てきたのを見て、冷静になりかけていたユリの心臓はバクンと跳ねた。

 目の前で、ルーツの身体が傷つけられていく。血の匂いが混じり合い、鼻孔の中でこびり付いていく。濃厚な異臭に頭が眩んでしまったのか。ユリの意識は、取り戻したのも束の間に、あっという間に薄れていった。そして、

 ――ねえ。たかが人風情に、好きにさせておいて良いの?

 今や、頭の中の声を――いや、内なる声の呼びかけを、ユリは正確に聞いていた。自分なら絶対に言わないこと。考えもしないようなことがふっと浮かび、そして次の瞬間には我に返っている。頭が持ち主に逆らっている。そう思えてくるほど、今のユリの思考はバラバラで、一貫性を成していなかった。

―――――――――016―――――――――

 ――殺されるくらいなら、殺した方がいいでしょ?

 また、脈絡の無い思考が、頭の中にポツリと浮かんだ。

 もしかしたら、自分とは違う考えを持つ生き物が、頭の中に潜んでいるのかもしれない。異物感は既に不快のラインを通り越し、ユリに恐怖を与えつつあった。

 自分が、自分で無くなるような感覚。ユリという存在が、消えて無くなってしまうような感覚。そんな途方もない不安感に、身体全体が包まれていく。

「安らかに眠れ」

 赤鎧がそう言うのが、どこか遠い世界の出来事のように思えた。自分の身体が、自分の物ではないように思えた。

 時間がいつもより、ゆっくりと進んで行っているような気がする。

「失うくらいなら、殺した方がいい」

 小さな声でユリは言った。いや、当の本人は言ったつもりは無かった。ユリの意思とは関係なく、口が勝手に動いていた。口だけではない。立ち上がるつもりなんてまるでないのに、ユリの体が勝手に動く。

 ――どうなってるの?

 口に出したはずの問いかけは、頭の中で小さく響いただけだった。

「安心しなよ、あとは私が、全部代わりにやってあげるから」

 ユリは独り言つ。それは明らかに、自分自身に向かって発せられた言葉だった。

―――――――――017―――――――――

 ――おかしい。私、今、喋ってるの? それとも黙ってるの?

 またしても、意思に反して口元が歪んだ。ユリは指を口の中に突っ込むと、すぐに取り出し、ヌメヌメと光る鮮血を眺め、また笑う。

「低俗な人間が」

 出したことも無いような、凄みのある低い声が口から漏れた。

 ――何する気なの! いま反抗したら、本当に殺されちゃう!

 意識が何かに乗っ取られていく。自分という存在が書き換えられていく。手も足も口も目も。身体全てが持ち主に逆らい、思うように動かなくなっていってしまう。

 ――やめて、やめて、やめて、止めて。止まってえぇ……

 だが、ユリの願いに反するように、ユリの身体を操る何かは、赤鎧の背後で立ち上がった。そしてそのまま、殴りつけるように――。


 プツン、と映像が途絶えた。

 音も、臭いも、気配も感触も、何も感じない。感じることが出来ない。自分の身体に触れられない。そもそも身体が、今あるかどうかすらわからない。ただ、暗闇の中に消えていく。自分という存在がどんどん小さくなっていく。

 涙を流しているはずなのだが、感覚が無かった。心が痛いはずなのに、感覚が無かった。全身の痛みも引いていた。

 ――誰か、助けて。

 願いが届くことは無い。

 ――ルーツ。

 頼りない少年の笑顔を思い浮かべたのを最後に、ユリだったものの意識は闇の中に埋もれ、そして消えた。

―――――――――018―――――――――


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