第72話 何も言わずに殴られなさい

「それが何か分かるか?」

「いえ、全然分かんないですけど……ゴミ?」

 手の中でコロコロと転がすと、その物体は、小動物の干からびた糞のようにも見えた。だが、正直な感想を述べただけにも関わらず、男の口角はひくついている。

「そうか、金持ちには、これがゴミに見えるのか。確かにな、お前らにはこんなはした金――って、お前ら本当に知らないのか? しばらく王都に居たなら、一度くらいは目にしただろ? 黒貨だよ、黒貨」

 そう言われても、分からないものは分からない。

 お金と言えば、ルーツが知っているのは、緑と、青、それから手にすることは無いだろうが赤色の貨幣だけなのだが……黒? 村の情報は遅れている。もしかすると王都では、新たな貨幣が実装されていたりするのかもしれない。だとしても、今まで一度も目にしていないのは、いささか奇妙ではあるとルーツは考えた。

「それってとっても高価なものなんですか? 表の通りを歩いている時は、使ってる人、一人も見なかったけど」

「……うーん、まあ、それなりの価値はあるな」

 疑問の色を浮かべたルーツに、男は笑みをたたえながら言った。

「少なくとも、緑貨五枚分は……」

「嘘ね」

 最後まで言わないうちに、ユリがスパッと断ち切るように言う。男は眉を少し動かしたが、何事も無かったかのように続けた。

―――――――――484―――――――――

「そうだ、すまないな。今は相場がちょっと下がってて――」

「豆緑貨の十分の一。黒貨は先代の王の時、財政難のため臨時で発行された通貨で、今は全くと言っていいほど価値がなくなってる。そういうつもり?」

 男の眼が細くなった。それに応じてユリの目つきも鋭くなる。だが、男が目を逸らすと同時に、ユリの目は我に返ったかのように大きく、そして丸くなった。

「ユリ、どうしてそんなこと知ってるの?」

「あ、え……えーと。あー、今のはね……、宿屋に本が置いてあったでしょ? それに書いてあったのよ。うん」

 明らかに奇妙な挙動。そして、一瞬前のことを忘れたかのようなその態度。ルーツは、ユリに追及したいことが山ほどあったのだが、それはそれ。今は今。

「なんだ、知ってたのか。……まったく、最近の若いのは知らんでもいいようなことばかり知ってるような雑学野郎だらけで困る。これじゃあ商売あがったり。せっかくニーナに、客引きの真似事までやってもらったってのにな」

「やっぱり、一人にしてるじゃないですか!」

 此方が何も知らないのをいいことに、騙そうとしていたことも癪に障るが、それよりも。客引きという言葉が気にかかった。ルーツは、ようやくボロを出したと言わんばかりに男に食って掛かる。だが、

―――――――――485―――――――――

「さっきから何をごちゃごちゃ言ってんだ、お前?」

 ルーツの言いたいことは伝わらなかったようで、男は不思議そうに、腕の中に抱えたニーナと、ルーツを交互に見ていた。

「だから、その客引きって奴が、目を離してたってことなんでしょ?」

 そこまで言って、男はようやく何度かうなずく。が――、

「見えてたさ」

「でも、あの時は周りに誰も――」

「だから、それでも見えてたって言ってんだよ。何度も言わすな。間抜け野郎」

 男を責め立てていたつもりだったルーツは、気付けば男の言葉に押されていた。

「お前、此処からあのゴミが目に入るか? ……いや、そこじゃない。もっと左だ」

 男の指が路地の奥を差し、ルーツの視線を誘導する。だが、ルーツの目で捉えられたのは、せいぜい十歩先くらいまでの距離。それより先は、薄暗闇のせいでよく見えず、奥に至っては一切の闇。地面に落ちている物どころか、道が真っ直ぐ続いているのか、曲がりくねっているのかさえ、なんとなくしか分からない。

 すると男は、必死で目を凝らすルーツに向かってニヤリと笑い、さらに言った。

「そこに手のひらサイズの真っ赤な実が落ちている。誰かに踏まれたのか、潰れて靴跡が付いているな。多分、右――、いや、あの足型は左足だ。大人の男の平均サイズ。それから、その横。黒い縮れ毛が何本か。おおかた、この辺りを根城にしている野良犬の物だろう。そして、そのもう少し奥には……残念、何もない」

―――――――――486―――――――――

 確かめる気は起きなかった。嘘を並び立てているだけの可能性もゼロではないが、貨幣の話とは違い、今回ルーツたちを騙したところで、男には何の得も無い。

「本当に見えてるの?」

「当ったり前だろ? 何年この場所で商売やってると思ってんだ。ずっと此処に住んでいれば、否応なしに目は慣れるさ」

 その言葉に、白々とした空虚感が漂っていたのは気のせいだったのだろうか。

 何年も、こんなホコリとカビだらけの場所で暮らしている。その事実を、男は努めて明るく語ったが、辺りにはしばしの沈黙と重い空気が垂れこめた。

 と同時に、ルーツはある事実に気付き、青ざめる。

「と、いうことは……僕らからは見えていなかっただけで、そっちは最初から、僕らが何をしているか丸見えだったんですか?」

 ルーツがそう言うと、男はきょとんとした顔で言い返してくる。

「そりゃあ、そうだ。お前がそこのツンケンしてる子の身体中を触りまくってたことも、言い争いをしていたことも、残らず最初から見えてたぞ。もちろん、うちのニーナも一緒に、俺のとなりで目にしている」

 自身の記憶が合っているかどうか、確かめたかった。だから、ルーツなりに、あの行動には意味があったのだが、目の前の男にそんなことが分かるはずもない。

―――――――――487―――――――――

「下から覗き込んで何をしているのかと思っていたが……下着でも覗こうとしてたのか? だが、仲がいいのは何よりだ。ニーナもいつまでも、俺のことを好きなままでいてくれるといいんだが」

 もう終わったこと。その時殴られなかったのだから、そこまで気にしていなかったのだろう。そう思っていたルーツの見立ては甘かったようだ。

「あの、ユリさん」

 どういうわけかユリの周りの空気だけ、熱気で揺らいでいるように見える。先ほどの男と全く同じ、ポキポキという嫌な音がルーツに向けられた。

「とりあえず、何も言わずに殴られなさい」

 後ろはごみの山――と壁。逃げる場所はどこにもない。男の笑顔をバックに、ルーツの身体は宙を舞った。






―――――――――488―――――――――


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る