第26話 悪魔だった


 次に目が覚めた時、眼前にあったのは、プラチナブロンドの麗しいご尊顔だった。見覚えのある本棚をバックに、ぼんやりとそのかんばせを見上げていると、それに気付いたルビーダイヤのオッドアイが、ほっとしたように細められた。


「ああ、気がつきましたのね」

「副店長……? わたし……?」

「お客さまをご案内中に、突然、倒れたそうですわよ。下のお客さまにも見ていた方がいて、わたくしに知らせてくださいましたの」

「ああ……そういえば」


 そんな感じだった気がする。

 なにか、血の気が一気に引くような感覚があったのだ。それで身体中の力が抜けて、倒れてしまった。今もなんだかくらくらする頭を押さえると、副店長は「貧血かなにか?」と心配そうに背中をさすってくれる。そうかもしれない、と苦笑交じりに頷くと、綺麗な眉を上品に顰めた。


「落ち着くまで、少しそこに座らせていただきなさい。ちゃんと動けるようになったら、一度わたくしのところへ来て。体調によっては早退なさい」

「すみません、この忙しい時に……」

「そう思うなら、早く体調を整えなさいな。さあ、立てまして?」


 副店長に支えられて、ヴァルくんが座っていた椅子に腰を下ろす。さすがに背もたれに身体を預ける真似はできないけど、それだけで、疲労感が解け出していくような気持ちになる。あー、お尻に根っこ生えたわ。


 副店長が仕事に戻ると、そこにはわたしとヴァルくん、そして金髪ツインテールの天使しか残らなかった。


 ……あれ? お世話係とかいう男の人は?


 うすぼんやりしている人だったから、また見失っているだけかと思って辺りを見回すけど見つからない。それより先に、天使の美少女と一緒にやってきたヴァルくんが、頭の痛そうな顔で謝ってきた。


「……すみませんでした、ユッテさん」

「え? いえ、こちらこそごめんなさい。目の前で急に倒れて……驚かせちゃったでしょう」


 目の前で普通に話していたはずの大人が、突然、意識を失うなんて、子どもからしたらトラウマレベルだろう。中身が魔王のヴァルくんはともかく、女の子のほうは、きっとひどく驚かせてしまったに違いない。

 しかしヴァルくんは、溜め息交じりに「いいえ」と首を横に振った。


「貴女が謝ることは、なにもありません。この状況を作ったのは、彼女リリム本人なのですから」

「……へ? リリム?」


 誰だそれ、と思うと同時に、どこかで聞いた名前だな、とも思う。名前というか名称だ。それはそう――


 確か『勇者叙事詩』にも出てくるような。


 出典はともかく、ヴァルくんに「謝りなさい」と促されたのは天使の美少女だった。さっきから彼女はヴァルくんの片腕にぴったりと張り付いていて、わたしは、自分が倒れたことでひどく驚かせてしまったのだと思っていた。けれど。

 向けられたその顔を見て、どうやら違うらしいと思い直した。


 美しく澄んだブルーアイ――そこに宿るのは、底知れぬ恍惚の光だったのだ。


「ウフフ、ごめんねぇユッテちゃん。別にあたし、貴女のこと殺そうとしたわけじゃないのよ? ただちょーっと、魔力を根こそぎ全部いただいて、ついでにお口をチャックしてもらおうとしただけだったの」


 ごめんなさいっ、と媚びるようにしなを作って微笑むさまは、とても幼い子どものものとは思えない。口調も声音も、いつの間にか変わっていて、まるでこなれたプロの女性とでも対峙しているかのようだった。


 けれど……悲しいかな。そういう驚きは、わたしはすでに経験済みなのだ。

 なんだかなんとなく全貌が見えてきて、脳が思考を放棄する。あー、これたぶん深入りしちゃダメなやつ。ね。うん。


「……あー、えー、なるほど? 命の危険はなかったのなら?」


 別にいいか? と遠くを見ると、ヴァルくんが大きな溜め息をつく。


「こんな時まで日和るのはやめなさい。魔力が枯渇すれば、たいていの人間は死ぬんですよ。十分、命の危険はあったんです」

「おお……死人に口なし系だった」


 それはさすがに日和れない。

 ミジンコレベルのわたしから魔力を根こそぎ盗るなんて、赤子の手をひねるより簡単なはずだ。通りで、意識が途切れるまで一瞬だった。

 美少女は、ぷくっと頬を膨らませる。


「ヴァルちゃんが止めなかったら、もっとちゃんと盗れたのに。邪魔されるなんて思ってなかったわ」

「逆になぜ邪魔しないと思うんですか。こんな目立たしい場所で」

「だって、ヴァルちゃんはあたしの味方でしょ?」


 長い睫毛でぱちぱちと瞬き、甘えるようにすりつく美少女。


 ……ていうか、ヴァルちゃんて。

 ずいぶん可愛らしく呼ばれてらっしゃる。あと今の彼女の発言は「殺意あり」とも受け取れるんだけど、その辺は誤魔化し切らなくてよかったんだろうか。いいなら別に、わたしも危機管理ができていいんだけど。


 それにしても、美少女に甘えられている顔じゃないのはヴァルくんだ。相変わらず頭痛がしているようなしかめ面で、うんざりしたようにそっぽを向いている。

 ……知り合いみたいだし、昔なにかあったのかな。

 そうだとしてもわたしには関係ないけれど、とりあえず、現状把握くらいはさせてもらいたい。


「あのー……それで、お二人はどのようなご関係で?」


 黒髪の美少年と金髪の美少女は、まるで絵本に出てくる闇の王子と光の姫君のような取り合わせだが、実際そうでないらしいことはさすがにわかる。

 そもそもたぶん、このは、光属性でも天使でもない。


 どちらかと言えば――


「……彼女は悪魔リリム。私を魔王の地位へと導いた、上級悪魔です」

「ああやっぱり悪魔さん……って、え? 悪魔リリムって――」


 浮かびきらずに一度は沈んだその答えが、ぐわっと一気に飛び出してくる。


「――まさか、〈魔王の母〉ですか!?」


 やっと思い出した。

 悪魔リリム。通称〈魔王の母〉。


 百年前、勇者ユウタロウに敗れて封じられるまで、軍下の悪魔を一手に従え、常に魔王のそばに控えていたという上級悪魔。夜の女神リリスの娘であり、多くの悪魔や魔物の母といわれる、女悪魔の総元締めだ。


 ……確かに、確かに悪魔リリムが出てくる時は、だいたい美女枠だけれども。


 それも淫猥とか誘惑とか、そういう方向性だったはずだ。『勇者叙事詩』でも聖騎士団を魅了する下りがあったはずだし、他の作品では、もっと直接的で過激な表現が好んで行われる立ち位置だ。それが。


「こ、こんな天使みたいな小さい子が、そうだったんですか……!?」


 ヴァルくんより幼い、無垢な天使にしか見えないこの子が〈魔王の母〉? 聖騎士団さん、こんな小さな子に魅了されてたの? ひえ、知りたくなかった……。

 いろいろな意味で衝撃を受けたわたしに、リリムは「いやん」としなを作る。


「一応言っておくけど、今のあたしは本調子じゃないのよ。ちょーっと失敗しちゃって、全然魔力が足りてないの。この姿はそのせいよ」


 でも、可愛いでしょ? と小首を傾げて睫毛をパサパサさせる美少女に、確かに否やはないけれど。ないけれど!


 ……いや待て。落ち着けわたし。他に考えるべきことがあるだろう。


 ヴァルくんが訂正しない以上、嘘や冗談でもないのだろう。この天使は悪魔なのだ。しかも〈魔王の母〉と呼ばれた伝説級の上級悪魔。そんな彼女が今ここにいるこの状況は、冷静に考えて、かなりまずい状況だと言えるはず。


 ……これってまさか、魔王復活の危機、再び……!?


「それにしても、〈魔王の〉なんて失礼しちゃうわ。なんで妻や恋人や愛人じゃないのかしら。こんなにも相思相愛らぶらぶらぶぅ~なのに」

「相思相愛の意味が、悪魔と他では違う可能性がありますね。少なくとも私と貴女ではズレがありそうだと心底思っています」

「いやん、いじわるぅ」


 舞い戻ってきた世界の危機に戦慄するわたしを余所に、美形幼児たちはなにやらイチャついている。聴覚さえ放棄したら目の保養にはなる光景だ。耳栓も音声遮断ミュートする魔力もない今は、ただただ胃が痛くなるけれど。

 ううっと密かにお腹を押さえていると、散々に甘え倒していた美少女が「ま、いいわ」とこちらを向く。


「そんなことより、もっと楽しいおしゃべりしましょ。ね、ユッテちゃん」

「おしゃべり……ですか?」


 リリムは、にっこりと、花びらのような唇を吊り上げて笑う。


「あたし貴女のこと、とっても気になるの。ヴァルちゃんが自分やあたしのことを、包み隠さず話す相手だもの。いったいどういう関係で、どうしてそんなことになったのか、ぜひそっちも包み隠さずお話ししてほしいわ」

「……え、えっと……」

「その必要はありません」


 静かに割って入ったのはヴァルくんだった。


「説明がいるのなら私がします。仕事中の彼女をこれ以上、ここに拘束すると、不要な注目を集める可能性が高い。玉眼竜ヴィーヴルの相手は面倒ですよ」

「あらぁ、あのノロマな竜なら、さっきもなにも気付かなかったじゃない? せっかくなんだから、ヴァルちゃんのお友達、ちゃんと紹介してほしいわ」


 ね? と恐ろしいほど綺麗な微笑みを交わし合う美形幼児二人の間に、十把一絡げなわたしが入る隙はない。渦中の人間のはずなのに。


 その時、ぴんぽんぱんぽん、と間抜けな音が店内に響いた。


『……本日は、ザ・フィーンド・モールにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。ご来城のお客様に、迷子さんのお探しをお願いいたします』


 夏季休暇の真っ最中。特に珍しくもない迷子放送だと聞き流そうとしたのも束の間、続いた内容に、その場の全員が動きを止めた。


『二つ結びにした金色の髪、青い色の瞳に、ピンク色のワンピースにピンク色の靴をお召しになった、人間年齢四歳くらいの女の子が迷子さんになっていらっしゃいます』

「…………」

『お見掛けになりましたお客様は、お近くの店員か、本館インフォメーションまでご連絡くださいませ』


 ぴんぽんぱんぽん、と下がり調子に締めくくられた城内放送に、金髪ツインテールにブルーアイ、ピンクのワンピースと靴できめた人間年齢四歳くらいの美少女は、しばし沈黙して再びニコッとはにかんだ。


「さっ、おしゃべりしましょ!」

「いやいやいやいや」

「観念したほうがいいですよ。もう何人もの店員に会っているでしょう。ほら、あの玉眼竜もこちらを見ている」


 一階店舗を見下ろせば、確かに副店長がこちらを見上げている。そこにハンスも駆け寄っていくのを見て、こりゃ完全に特定されてるなとよくわかった。


 ……まあいいか。どっちにしろ、もう少し情報も欲しかったしな。


 よっこらしょっと立ち上がり、こちらを見た美形幼児たちに手を差し出す。


「わたしももう動けますし、一緒にインフォメーションまで行きましょう。よかったら、ヴァルくんも。おしゃべりなら、その道中でもできますからね」




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