期末テストと「残り時間」

 内田君に、大川さんを好きなことがバレた。いや、とっくに勘付かれてはいたけれど。


「ま、大川さんのことも気になるだろうけど、まずは期末テストをやっつけないとね」


 図書館から出たとき、そう言って内田君は、僕の肩をポンと叩いた。そのまま図書館の前で別れた。


 すっかり薄暗くなった中、足早に家を目指す。相変わらず冬の風がひゅうひゅうと吹きつけてくる。図書館の暖房で暖まった顔や耳が、急速に冷えて強張っていく。寒さに慣れない僕は、すぐにぶるぶると震えだした。


「内田君、見事な推理やったなぁ」

「うん」

「なのに、彩ちゃんの好意には気付いてないんやろうなぁ」

「あぁ……どうなんだろうね」


 大川さんの見立てでは、千田さんは内田君のことが好きらしい。決定的な証拠はないけど、そう感じるそうだ。


「でも、内田君も内田君で、何考えてるか分からないところあるしなぁ」

「それもそやな」


 案外、周囲の観察はできていても、自分自身に向けられる感情には鈍感なのかも知れない。普通は逆なんじゃないかな、……いや、僕がそう思っているだけで、そうじゃない人も、案外たくさんいるのかも知れない。現に、内田君はそんな感じがするし。


「いろいろな性格の人がいるんだね」

「そらそうやろ。人間いろいろ、人生いろいろやで」


 オルカはときどき、妙に示唆めいたことを言う。でも、その言葉には、まだあまりピンと来なかった。


「そういうもの、なのかな」

「そういうもんやで。知らんけど」

「なにその『知らんけど』って。無責任だね」

「え? いや関西人はみんな最後に『知らんけど』付けるで?」

「いや君、関西人じゃなくて悪魔でしょ」

「せやったっけ? よう分からんわ」

「えぇ……あの、言葉に困るんだけど」

「なんやノリ悪いな。そこはなんかええ感じのこと言いや」


 なんかよく分からないけどダメ出しされた。なんだよ「ええ感じのこと」って……。


「それ、具体的に言うと?」

「いっちゃん分かりやすいんは『なんでやねん』やな。ノリツッコミとか、ボケにボケ重ねるなんてのもあるけど」

「はぁ」


 ……ノリ、ねぇ。


 確かに、お笑い芸人が漫才やバラエティ番組で、そんな感じの掛け合いをしている気がする。ツッコミ役の人が鋭くてつっこんだり、司会者や共演者がうまいコメントをしたりしているのをテレビでは見かけるけど……。


「それやな」

「え?」

「椋介は圧倒的に『ノリ』が足らへんねん。別に芸能人みたいにうまいこと言わんでええねん。その場の空気や会話のテンポに乗れるようにならな」

「……それって、やっぱり重要?」

「せやな。ノリがええと会話もポンポン進むし、女の子口説こ思たら必須スキルやで」


 マジかよ。ここにきてめちゃくちゃハードル高くなってんじゃん。


「すごく……すごくすごく、壁が高くなった」

「やる前から決めつけんのは良くないで」

「そうは言ってもさぁ……」

「まぁ、そら向き不向きはあるで。でも、ある程度は慣れや」


 そりゃ、僕だって、ノリよくみんなと話せる人に憧れたことはある。小学生のときは、いつも面白いことを言って、クラスのみんなを笑わせるお調子者キャラのクラスメイトを、心底羨んだ。


 実際の僕は……そう、これを読んでいる皆さんの想像通り、目立たない奴だった。クラスのみんなに混じって、ドッヂボールや鬼ごっこをするのも好きだったけど、図書室や教室で本を読んだり、ひとりで黙々とゲームをしたりするのはもっと好きだった。


 誰とも会話しないわけじゃなかった。そこそこ話をするクラスメイトだっていた。でも、あのお調子者の彼のように、ノリ良く話せていたか、と訊かれても全く自信はない。たぶん、実際ノリは良くなかったと思う。


 なんて考えながら机に向かっても、勉強にはさっぱり身が入らなかった。


「あ~あ……だめだ、全然集中できない」

「お前はいちいち考え過ぎやねん」

「考えの元作ったのは誰だよ」

「元々あったノリの悪さを指摘しただけや」


 あーそうかい。言い合いするのが面倒になった僕は、シャーペンを机の上に放り投げて、背もたれに体重を預けた。そして、机の端に置いてあるスマホを取って、ライムを開く。スクロールするほど多くもない連絡先から、「おおかわ ゆき」の名前をタップする。アイコンには、白に茶色の虎柄の猫が映っていた。大川さんが飼っている猫だろうか。縁側のような場所で、のんびりと日向ぼっこをしている。


 トーク画面を開いて、「お疲れ様。勉強どう?」とだけ送った。


「ん? お? なんや、結希ちゃんにライム送ったんか!? おお!?」


 驚きと興味でいっぱい、とでも言うような表情を浮かべて、オルカは僕のスマホをのぞきこむ。


 正直、半分ヤケだ。内田君に見破られていたという事実と、オルカから散々「ノリが悪い」と言われ続けて、どうやらけっこう頭にきていたらしい。僕って、こんなに短気だったかな。


 画面を閉じて机に置いて、ハァ、とため息を吐いた途端、スマホが軽く震えて「新着メッセージがあります。」の通知が表示された。送り主は「おおかわ ゆき」。ライムを開くと、白い吹き出しには『おつかれ! ふつう!(笑)』と表示されていた。そこからほとんど間を置かずに、『秋山君は?』というメッセージが送られた。


「僕も普通かな」

『そっかー』


 何か返そうと思って、手が止まる。最初にライムすることだけを考えていて、どうやってこのやり取りを続けるかは、全く考えていなかった。仕方なく、なんとなく質問してみることにした。


「アイコンの猫って、大川さんが飼ってる猫?」

『そうだよ。モモっていうの』

『いま3歳くらいかな』


 反射的に「かわいいね」と打とうとして指が止まる。後ろを振り返ると、ニタニタとした表情を浮かべたオルカがいた。


「なんや? 早よ返信したったらええやん」

「……かわいいねって送って、気持ち悪いとか思われないかな」

「自意識過剰か。猫の話からそう発展する子はそんなにいーひんわ」

「いるにはいるんだ」

「メンヘラならありうるけど、結希ちゃんはそんなんちゃうやろ」


 オルカにそう言われて、それもそうかと自分を奮い立たせると、僕は「かわいいね」と返信した。滑らかな液晶画面に触れる指は、重心を失って頼りなかった。


『でしょ。いま目の前で寝てる』


 一緒に画像が送られてきた。ストーブの前で丸くなって寝る茶トラ猫のモモと、モモの顎を撫でている大川さんの白い右手が映っていた。モモは気持ち良さそうに目を細めている。確かに可愛いけど、僕はそれよりも大川さんの白い腕に目がいってしまう。指の先まで綺麗な白い腕だった。手首の近くに、小さなほくろがあった。


「一番いい場所で寝てるね」

『うん、いつもそうだよ(笑)』


 こうして液晶画面上のやり取りをしていると、いつもと何も変わらないような気がしてくるから不思議だ。直接顔を見たり、声を聞いたりしないぶん、少し落ち着くのかもしれない。


 しばらくそんな他愛ないやり取りを続けて、僕たちはどちらからともなくライムを終えた。なんだか、妙にやり切った感がある。


「なんか、思ってたよりはなんとかなった」

「ライムひとつでえらいこっちゃ」

「うるさい。慣れないんだからしょうがないだろ」

「は? こういうこと、友達としたことあるやろ?」

「前は友達いなかったから」

「あ、あー……ごめんやで」

「いいよ別に」


 口では軽く言った。少なくとも、そう言ったつもりだったけど、それを考えると、身震いすることが多くなった。


 今までは、あまり親しい友達がいないのが当たり前だった。いじめられ始めた頃は、どこにも行き場のないような、自分の周りには高い壁しかなくて、その向こうには決して行けないというような、そんな孤独感に胸を押し潰されそうなこともあったけど、いつの間にかそれは当たり前の感覚になって、どうにか一日、また一日と耐えるのに必死で、それ以外の感覚は麻痺してしまっていた。


 でも、ここに来て、新しく友達もできて、こうしてライムをすることができるようになってから……また、あの何もない、一生先の見えないトンネルの中に入るんじゃないかという感覚が、甦ってくることがあった。それを思うと、恐怖で呼吸すらうまくできなくなる。


 それが、いまはどうだろう。内田君がいて、大川さんがいて、千田さんがいる。ここには、あの粘り気と痛みを伴った悪意を持って接してくる人は、ひとりもいない。


 あー……なんか、よく聞く話だな。今の関係が居心地良いから、それを壊したくない、っていうの。それって、こういう感じなんだろうか。


「オルカ」

「なんや」

「大川さんとどうなりかいかって問題、あるけど。とりあえず、いまは勉強しようと思う」

「さよか」


 机の上に寝転がっていたシャーペンを手に取った。


- - -


 一週間は過ぎると早いもので、もう期末テスト前日になっていた。


「秋山君は冬休みどうするの?」


 図書室で勉強していた途中、内田君がそう言った。


「一応、実家に帰るよ」

「ずっとこっちにいるわけじゃないのか」

「まぁね」


 そう言ってはみたものの、帰ったところで何をするのか、という思いがあった。


 地元には友達なんてひとりもいない。小学校、中学校が同じだった同級生はいるし、そういう人とは顔見知りではある。でも、一緒に遊んだり、連絡を取り合ったりする仲かというと、そうではない。


 高校にいたっては言うまでもない。いじめられていたこともあって、僕にはひとりの友達もいない。あいつと仲良くしているところを見られたら、いじめの矛先が自分にも来るのではないか……そう考えるのが普通だろう。そんな相手と関わりたくないのが人情だ。


 正直、実家に帰って、外を出歩くのも怖い。僕をいじめていたあいつらと、ばったり出会ってしまわないとも限らない。実は、これが一番の懸念事項だ。そうなると、残った選択肢は、ずっと家の中に引きこもって過ごす。これに尽きてしまうわけだ。


「まぁ、帰ったところで何をするわけでもないけどね」

「そうなのか?」

「うん。ほら……僕、いじめられてたって話、したでしょ」

「あぁ……うん。そっか」


 声を潜めてそう言った僕の態度で、内田君は理由を察してくれた。ありがたい。


「それじゃあさ、いっそ帰省せずに、こっちに残るのはどう?」

「え?」

「いや、俺も秋山君以外によく話す相手いないし、冬休み暇なんだよ」

「マジで?」

「マジマジ。それに、大川さんや千田さんを初詣に誘ったりもできるかもじゃん?」

「え、あぁ……そう、かもね」

「もしよかったら考えてみてよ」

「うん、帰ったら親に聞いてみる」


 親に聞いてみる、とは言ったけど、僕の気持ちはもう決まっていた。今年の冬休みは、例年とは違ったものになるだろうな、と思った。


 帰宅後、僕はまず、じいちゃんとばあちゃんに聞いた。二つ返事でオッケーをもらえた。そのあと、僕はすぐに父さんに電話した。


「父さん、僕、今年の冬休みはこっちで過ごすよ」

『あぁ、そうか……そっちは楽しいか?』

「うん、友達もできたし」

『そうか。わかった、母さんには父さんから言っとくよ。友達と楽しく過ごしなさい。でも、おじいちゃんとおばあちゃんには、あまり迷惑をかけるんじゃないぞ』

「わかった。ありがとう、父さん」


 こうして、高校2年生の僕の冬休みは、母さんの地元の田舎、いまや友達ができて、地元よりもずっと過ごしやすいここで過ごすことに決まった。期末テスト前に、大きな楽しみができた。


- - -


 さて、期末テストだが、これは5日間かけて行われる。それも、1限から5限までびっしりだ。それが丸5日も続く。


「正直、きついぜ」

「うん、きついね」

「きつそうやなぁ」


 テストを受けることのないオルカだけがのんびりしている。僕らは1日目が終わった時点でヘロヘロだ。


「おつかれ、どんな感じ?」


 5限全てのテストが終わると、大川さんと千田さんも合流し、僕たち4人はそれぞれの出来を報告し合った。


「俺はいつも通り、そこそこだなぁ」

「僕も……まぁ、悪くないかな、くらい」

「うちダメだ~、数学Ⅱとか訳わかんない暗号多くて頭ぐるぐるした~」


 千田さんは問題用紙を手にガクーッとうなだれた。他のみんなも自分の解答を書き込んで、どれぐらい点数が取れるだろうかと指折り数えていた。


「あ、私、数学Ⅱの問3ミスったかも」

「問3ってどれだっけ」

「あぁ、これかぁ。安藤先生、たまにえげつない問題作るからなぁ」

「うちは手も足も出なかったよー」

「でも彩花、前半の数式とかはほぼパーフェクトじゃん。ギリ赤点にならないくらいじゃない?」

「うん、ここはほぼイケてる気がする。ホント、結希様様だよ~」


 千田さんはそう言って、隣に座る大川さんにぎゅーっと抱きついた。大川さんは笑いながら、千田さんの腕をさするように撫でている。


 あぁ、なんか、いいな。放課後にテストの出来を言い合える相手がいる。そんなこと、少し前まで考えられなかった僕は、この状況がすごく嬉しい。文化祭のときと似たような感覚。うん、きっといま感じているこれを、幸せと呼ぶんだろうな。そして、適当な時間になれば解散して、帰っていったり、図書室で勉強したりする。毎日そうやって、期末テストの5日間は過ぎていった。


- - -


「んんんぬぁー、終わった終わった。もうちょいで冬休みだ!」


 最終日、最後のテスト科目だった生物が終わると、内田君は大きく伸びをして、顎が外れそうなほどの大あくびをした。内田君だけではない。クラスのあちこちで、同じようなポーズをしたり、大あくびをしたりしている人はいた。


「はい、みんなお疲れー。来週はドキドキのテスト返しするからなー。赤点は補修入るからそのつもりでなー」


 生物の試験監督をしていた朝野先生が、のんびりとした口調で言った。20代後半くらいの、若い女の先生だ。みんなの答案用紙を集めると、「んじゃ」と言って教室から出ていった。


「ふたりともお疲れやで。今週はえらい長く感じたやろ」


 教室では普段僕たちにほとんど話しかけないオルカが、珍しく僕たちにそう言った。僕は伸びをしながら「うん」と答え、内田君は「疲れたー」とため息まじりに答えた。これなら、あまり違和感は持たれないだろう。誤魔化し方が上手くなった気がする。


 ホームルームを終えると、みんな一斉に教室から出ていく。部活は今日から再開ということもあって、部活動組は普段以上のスピードで各々の部室へ向かって行った。みんな、テスト勉強に追われてフラストレーションが溜まっていたんだろう。


 一方、そんな部活動組とは一切関係のない僕たち帰宅部は、教室に残って適当に駄弁る者、さっさと帰る者、友達と連れだってコンビニへ行こうと言い合いながら教室を出ていく者、色々だった。


 僕は机に突っ伏し、内田君はぽけーっと天井を仰ぎ、そのままの姿勢でしばらく僕たちは動かなかった。


「うわ、大変だよ結希。内田君と秋山君が死んでる!」

「わー、ほんとだねー」

「おおう、千田さんか。勝手に俺らを殺すなよ」


 内田君と一緒に横を見ると、千田さんと大川さんがくすくす笑いながら僕たちを見ていた。


「テスト、全体的にどんな感じだった?」


 ふたりが僕たちの近くに座ると、大川さんがそう言った。


「んー、俺はいつも通り自信あるぜ」

「私は今回ちょっとミスったかなー」

「僕も普通ぐらいな気がする」

「あたし、いつも通りギリギリな気しかしない……」

「彩花はそう言っていつも赤点は回避してるから大丈夫だって」

「逆に本当にやばいときの千田さんってどんな感じ?」

「彩花はホントにやばいとき、この世の終わりみたいな目してる」

「こら結希、それを言うんじゃない!」


 ともあれ、期末テストという大きな難所が終わった。冬休みはもう目の前だ。


「あ、そういや秋山君、帰省どうすんの?」

「今年はこっちで過ごすよ」


 その言葉に真っ先に反応したのは、内田君ではなく千田さんだった。


「え、秋山君こっちに残るの?」

「うん」

「じゃあ初詣とかも一緒に行けるね! 内田君も寂しくないね!」

「うるせー、ほっとけ」


 からかう千田さんと軽くあしらう内田君。このふたり、なんだかんだで息の合ったやり取りしてるよなぁ、と、全く関係ないことをぼんやり思った。


「じゃあ、4人で忘年会みたいなこともできるんじゃない?」


 そう提案したのは大川さんだった。これには内田君も千田さんも意外そうな顔をしている。僕もきっと同じ顔をしていただろう。


「って言っても、大したことじゃないけど。隣の市まで汽車で言って、ファミレスとかカラオケとかでちょっと楽しく過ごす、くらいのことだけど」

「大川さん、それめっちゃいい。俺賛成」

「楽しそうだし、あたしも!」

「僕も」


 そんな感じで、僕たちは冬休みに忘年会をする約束をして、その日は下校した。


- - -


 帰る途中、図書館へ行こうとすると、大川さんも同じ道を、自転車を押しながら歩いていた。


「大川さんも図書館行くの?」

「うん。やっとテスト勉強終わったし、シリーズものの本、なんか借りようと思って」


 本を読める、ということが、大川さんはとても嬉しいようで、すごくニコニコしていた。それを見ると、なんだか僕も、自然と笑顔になっていた。


「大川さん、今は何読んでるの?」

「シャーロック・ホームズ。テスト前に『赤毛連合』っていうのを読み終わったとこで止まってるの」

「ホームズかぁ。読んだことないや」

「秋山君は何読んでるの?」

「んー、この前たまたまミヒャエル・エンデっていう作家の本読んでて、それ途中まで読んで返却しちゃったから、もう一回借りようかなって」

「ミヒャエル・エンデって初めて聞いた」

「うん、ドイツの作家らしいんだけどね。けっこう本自体のインパクトが強くて」

「どんな本?」

「真っ赤なんだよ。で、材質はよくわかんないんだけど、なんかの糸っぽい素材で出来てるみたいなんだ」

「なにそれめっちゃ気になる。今日図書館にあったら見せて」

「もちろん」


 この町にしては珍しく、今日は風が穏やかだった。曇り空だけど、寒すぎる気温でもない。そのおかげで、僕と大川さんはこうやって色々と話しながら一緒に歩いていられたし、図書館に寄ろうと思う余裕もできた。寒いとそんな気持ちすら起きないからね。今日の天気、ナイス。僕は心の中で、空に親指を立てた。なんだか後ろの方でニマニマ笑っている悪魔の気配がするけど気にしない。


 図書館にはほとんど人がいなかった。もう暗いし、みんな帰っているんだろう。勉強もできる机が設置されているコーナーにふたり、書架の間を歩き回る人が3人。新聞を読んでいるおっじいちゃんがひとり。館内にはそれだけしかいない。


 僕たちは『外国人作家』というプレートのかかった書架の方へ行き、それぞれ目当ての本を探した。大川さんは『ホームズ』シリーズがズラリと並んでいる場所へ。僕は、これだけの本があっても目立つ、真っ赤な背表紙を探して。


 胸の中心からやや左……ちょうど心臓の真上あたりに鋭い痛みが走ったのは、

そのときだった。


「――ッ――!!?」


 呼吸が止まる。体が一気に強張る。右手が反射的に胸を押さえる。歯を食いしばる。それらの動作が完了すると同時に、痛みは嘘のように無くなっていた。


 僕は混乱した。一体いまのは何だ? 軽いめまいを覚えながら顔を上げると、なんか口元が痛い。手の甲で触れてみると、血が付いている。どうやら唇の皮が裂けたらしい。心臓の上あたりを注すってみる。何事もない。なんの違和感もない。突然の痛みにびっくりしたのか、心臓の慌てている様子が伝わるだけだ。


 ちらりと大川さんを見る。反対側を向いていたおかげで、僕の様子には気付いていないようだ。少しホッとした。


「大丈夫か、椋介」


 僕の様子にただならぬものを感じたのだろう。オルカが心配そうにこちらを覗き込んでいる。僕は軽く頷いて応えた。ふと本棚を見ると、目当ての真っ赤な背表紙がすぐ目の前にあった。僕はなんとか平静を装って、その本を取った。大川さんも目当ての本を見つけたらしい。


「大川さん、これだよ、真っ赤な本」

「おお、本当に赤一色なんだね……秋山君、どうかした?」

「え?」

「なんか、顔色悪いよ? 唇も血が出てる」


 こちらに近付いてきた大川さんの黒い瞳が、心配そうに揺れる。あぁ、やっぱり完璧に隠しきれないか。でも僕はシラを切ることにした。


「別に平気だよ。外が寒かったからかな。もともと色白だし。唇はちょっと割れちゃったみたい」

「そう? 大丈夫ならいいんだけど」


 そしてふたりで本を借りて、僕たちは図書館の前で別れた。大川さんの姿が見えないところまで歩くと、僕は家に向かって走り始めた。


「おい、おい、椋介、どないしたんや」

「うん、ちょっと」


 すーっと地面を滑るように移動して並走するオルカに、僕はそれだけ応えた。


 さっきの痛み。ほんの一瞬だけど、普通じゃなかった。ただならぬものを感じた僕は、一刻も早く自分の胸の様子を見てみたかった。そう、理屈とかじゃなくて、とにかく早く、見てみなければ、という気持ちに突き動かされていた。


 リュックが背中で上下に揺れる。中で筆箱がシャラシャラ鳴っている。外気に触れている顔は冷たいのに、汗が止まらない。


 家が見えてきた。このまま家に入ったら、じいちゃんとばあちゃんが心配するだろう。家から少し離れたところで減速して、ゆっくり歩く。普段あんまり走らないから、足が少し突っ張ったように痛む。胸のごく浅い所が焼けるように痛い。普段、こんなに激しく呼吸しないから。僕は呼吸を整えながらゆっくりと歩いた。


「ただいま」


 いつもと同じ風を装って家に入る。奥からおばあちゃんの「おかえり」という声が聞こえた。夕ご飯のいい匂いがする。二階にある自分の部屋に入り、僕は詰襟を脱ぎ捨ててシャツのボタンを外した。シャツの襟元を開いて見ると、胸の上に違和感を覚えた。


 なんだこれ、痣か? 部屋に置いてある姿見の前に行き、シャツを捲りあげると、心臓の真上あたりの部分に、確かに見慣れない痣のようなものがあった。そして、すぐにそれがただの痣じゃないことが分かった。


 痣は、花の形をしていた。なんだかスイレンに似ている気がする。そして、その花の上には、「180」と数字が浮かんでいた。


「なんだよ、これ」

「『命の花』や」


 ハッと後ろを振り返ると、オルカが難しい顔をしていた。正直、オルカのことを完全に忘れていた。


「悪魔と取引した人間の、『残り時間』や。あと半年っていうときに、その痣は浮かぶねん。痛みと共にな」


 すっかり、忘れていた。


 僕はオルカという悪魔と取引した身で。


 この体は余命一年の期限付き。


「じゃあ、あと……」

「せやな」


 オルカはごく簡潔に、僕の命の時間を宣告した。


「あと180日以内に、『本当の願い』を見つけんと、お前は死ぬで、椋介」






 ――僕が死ぬまで、あと180日。

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