中間テストに向けて

 授業についていけるようになるまで、一ヶ月くらいかかった。この一ヶ月は、とにかく授業についていけるよう、遅れた分を取り戻す作業に追われた。授業の前後に教師に空いている時間を訊き、放課後などに、遅れた分を補うように勉強を教えてもらう。教師によっては、直接教えるのは基本的なことだけで、あとはプリントなどを作って「宿題」という形を取る人もいた。


 だけど、教師のところへ行こう、と決意はしたものの、最初はやっぱり躊躇いがあった。事前に膨らませた勇気は、教師本人を前にしおしおと萎んでしまう。


 最初に声をかけたのは、クラス担任であり、僕が最も苦手意識を持っている科目である数学を担当する安藤先生だった。


「あの、安藤先生」


 数学の授業が終わり、職員室へと引き返していく安藤先生を呼び止めた。安藤先生は振り返ると、いつもと同じように優しそうな目をしていた。


「秋山君、ここには慣れましたか?」

「はい、あの、それで、お願いがあるんですけど」

「はい、なんでしょう」

「実は授業にあんまりついていけてなくて……それで、空いてる時間に、あの、数学を、教えてほしい、んです、けど……」


 勢いがあるのは最初だけ。だんだんと萎んでいく勇気と比例して、言葉の最後の方は声も小さく、切れ切れになってしまった。言い切ってから、こんなはずじゃなかったのに、と思わず唇を噛んだ。


 安藤先生は小さく頷くと、放課後に職員室に来るように言って、職員室に戻っていった。


「よう言うたな、椋介。上出来や」

「……でも、最後の方とかちゃんと言えなかった」

「まず伝えることが大事なんやで。それは、場数を踏めばなんとかなる。それに」


 オルカはそこで言葉を切ると、職員室の方を向いて、満足そうに頷く。


「それにあの先生、けっこうノリノリみたいやで」

「そうなの?」


 そんな会話を、あろうことか学校の廊下でしていた。あまりにも不用心だったと思う。角を曲がったときに大川さんとばったり会ったとき、彼女はちょっと困惑したような表情をしていた。


「あの、秋山君、いま誰かと喋ってた、よね?」


 血の気が引く、という感覚を身を以て知った。どうにか独り言を思わず大声で言ってしまったということで押し通した。最後には大川さんも、なんとか納得してくれていたと思う。


「あ、次美術だし、教室移動だけど……」

「忘れてた!」


 ……とまぁ、最初はこんな感じで、なんとも心臓に悪い思いをした。案の定、なんとかこの場を切り抜けようと言い訳する僕を見て、オルカは腹を抱えて笑っていた。


 更に、各授業の教師のところへ行くようになって数日、思わぬ助っ人もできた。


「秋山君、最近先生のトコよく行っとるけど、授業の質問?」

「あー、えっと……」


 ある日の休憩時間、内田君にそう訊かれた。理由を言うのが少し恥ずかしかったが、今更隠しても仕方のないことだ。僕は正直に言った。


「実は、授業についていけてなくて。それで、ちょっとずつ勉強を教えてもらってるんだよ」

「勉強、苦手なん?」

「んー、ちょっと」


 このとき、既に9月中旬。10月頭には中間テストが控えている。今のまま中間テストを迎えるのはとても不安だし、進行度合いから見ても、間に合うか微妙な気がした。僕は焦り始めていた。中間テストが終われば文化祭ということもあり、学校全体が少し浮かれた雰囲気になってきていたけれど、それどころではなかった。


「じゃあ、一緒に勉強するか?」

「え?」


 思わぬ提案に、間抜けな声が出た。


「自慢しちゃうけど、俺、テストはいつも学年10位以内だよ。あ、この学校、順位は発表されんけど、先生に訊いたら教えてくれるよ」

「えぇ……いいの? 内田君の時間取っちゃうけど……」


 内田君の提案は、まさに地獄で仏、渡りに船だった。ありがたいことは間違いないが、しかし、自分のために内田君の時間を取り、手を煩わせてしまうのは気が引けた。しかし、内田君はいつものニコニコとした笑顔で、胸をどんと叩いた。


「全然、大丈夫! 人に教えると自分も勉強になるし、それくらいで自分の勉強が手つかずになるなんてこと、俺はないよ!」


 何とも頼もしい言葉だった。僕は精一杯の気持ちで「ありがとう」と言った。こうして、新しい学校に転入した最初の一ヶ月。僕はしゃかりきになって勉強をした。


- - -


 中間テストまであと一週間ほど。放課後だけでは心許ないと思い、僕たちは昼休みも自首勉強した。いや、僕たち、というのは正しくないね。僕は内田君に勉強を見てもらったり、教師から出された宿題を手伝ってもらったりしていた。教室だと、なんとなくやりにくいので、昼休みになると僕たちは図書室へ移動した。


 この学校は人数も少なく小規模だけど、昔の名残なのか、図書室はけっこう広く、教室三つ分くらいはありそうだった。そこで僕は、特に苦手な理数系を中心に、内田君に勉強を見てもらった。


「秋山君は全然ダメってわけじゃなくて、基本的なことは分かってるんだね」


 図書室から教室に戻る途中、内田君は感心したように言った。


「正直に言うと、何が分からないのか分からない、っていうことまで覚悟してた。これなら中間くらい余裕だよ、絶対」

「内田君の教え方がいいんだよ。すごく分かりやすい」

「あ、やっぱり? 人に教えるの得意なんだよなぁ」

「自分で言っちゃうんんだね」

「でも事実だし?」


 内田君はおどけたように笑った。


「なんか食えんやっちゃなぁ」


 とは、僕たちの後ろをのんびりとした調子でついてくるオルカの言。その言葉、そっくりそのままオルカに返してやりたいと思った。


 内田君はニコニコした笑顔のまま、ふいと後ろを向いた。何事かと僕も振り返るけど、何もない。いや、正確にはあくびするオルカが見えるんだけど、それは僕にしか見えないのでなしだ。


「どうしたの?」

「ん、いや、なんでも」


 内田君は再びいつものような笑顔でそう言った。


 放課後も図書室に行き、僕たちは勉強をした。図書室で勉強する生徒は僕たち以外にも何人かいて、皆、思い思いの場所で教科書とにらめっこしたり、ノートに計算式を書いたり、英単語も何度も書いたりしていた。


 僕は教師から出された「宿題」をし、内田君は自分の勉強の片手間に、僕の「宿題」を手伝ってくれた。内田君に言わせると数学も暗記科目であるらしい。


「公式や解き方を覚えるんだよ。基本問題ならそのへんの問題集でいくらでもできるし、ネットならいくらでも出てくるよ。そういうのが分かれば、あとは簡単、あら不思議、ちょっと頭をひねれば、テストで出る程度の問題は楽勝だよ」


 この言葉はかなり衝撃だった。


 しばらくすると、大川さんとふたりの女子生徒が図書室に入ってきた。女子生徒はふたりとも知らない相手だった。たぶん、他のクラスなんだろうと思う。


 僕と内田君に気付いた大川さんは、軽く手を振りながら僕らに声をかけた。


「おつかれ。ふたりも勉強してるの?」

「そそ、俺が誘った」


 内田君は親指で自分を指しながら言った。大川さんは驚いたように目を開く。元々大きくて印象的な目がくるくる動く。


「珍しいね」

「まぁ、秋山君は隣の席だし?」

「ふぅん?」


 大川さんは意外そうな表情で、首を小さく傾げた。


「結希、さっそくだけど教えてよ~」


 先に席についていたお連れさんが、大川さんに声をかけた。大川さんははいはい、と返事をして、僕らに小さく手を振りながら女の子たちと一緒の席に着いた。その様子を見るに、大川さんも彼女たちに勉強を教えているらしい。


「大川さんも勉強できる人?」

「うん。クラスが一緒になったの2年からだからあまり知らないけど、けっこういいらしいよ」


 なるほど。なんとなく大川さんは頭が良い印象があったけど、それはあながち間違いではなかったらしい。下校時刻ギリギリまで僕と内田君は図書室で勉強をしていた。大川さんのグループもいた。他にも何人か、或いは何組かがいた。そのうち、誰ともなしにシャーペンやノートを片付け始め、次第にみんな鞄を持って図書室を出た。


 9月も終わりに近付き、日が落ちるとだいぶ涼しく感じるようになってきた。蒸し暑い日がなくなったのは嬉しい。僕は夏があまり好きではないからだ。パタパタと聞き慣れない音を立てて、頭上を何かが飛び回っている。こっちに引っ越してきてからよく見かけるが、あれはなんだろう。


「あれって、鳥?」

「いや、こうもり」

「え、こうもりって日本にいるの? 血は吸われない?」

「そんなに珍しい動物じゃないし、日本には血を吸う奴はいないよ」


 内田君は面白そうに笑っている。こういうところで、僕はまだ都会っ子だと感じる。東京や大阪のような大都市に住んでいたわけじゃないけど、それでも背比べをするように背の高い建物が立ち並び、車道の車線も多く、夜になっても眩しかったあの街は、ここに比べると断然都会だった。


 帰り道が反対の僕たちは、正門を出れば帰り道は別々だ。またね、と言って、僕たちは別れた。


 最近、こつこつやってきたことや、内田君に教えてもらったおかげで、普段の授業や家での勉強も、「全く分からない」という状態は少なくなっていた。少しずつだけど、確かな実感として手応えを感じていた。


「勉強の調子良さそうやん。よかったな」

「うん」


 オルカの言葉に、僕はしっかりと返事をしていた。


- - -


「そういえば今更だけど、ここって赤点ある?」

「あるよ。35点以下。でも今の秋山君なら心配ないでしょ」


 中間テスト3日前。いつものように僕と内田君は、放課後に図書室で勉強をしていた。少し前までは、校内で練習する吹奏楽部の楽器の音が遠く聞こえていたけれど、さすがにテスト直前ということもあってそれはない。いつも聞こえる音がないというのは、少しだけ物足りないような感じがした。


 自分で言うのもなんだけど、赤点の心配はないかも知れない。ただ、あまりいい点を取れる気もしない、という気持ちもあった。この一ヶ月で授業にはついていけるようになったし、勉強も分からないところは減ってきた。でも、テストに向けての勉強ってわけじゃないし、ここの先生たちがどういう問題を作るのかも全く想像できないのもあって、自分がどれくらいやれるか、そのあたりはさっぱり、皆目見当もつかなかった。


「ま、何やってもあと3日。それが終わればすぐ文化祭だし、頑張ろう」


 内田君は自分の問題を答え合わせしながら、のんびりとしたようにそう言った。


- - -


 さて、迎えた中間テスト当日。この高校は一日にテストが三科目で、昼過ぎには下校になる。僕のクラスは次の通りだ。


一日目……英語、現代文、地理

二日目……古典、数学Ⅱ、日本史

三日目……理科、保健、世界史

四日目……数学A、情報


 はっきり言って、すべての科目をカバーできたわけではないし、優先度の高いものを中心にとにかくやってきた、という感じだったので、自信はあまりない。英語の問題用紙と解答用紙が配られ、教室内はなんとも言えない緊張感が漂っている。


「では、始め。最初にリスニングです」


 まぁでも、やれるだけやろう。僕は小さく決心すると、ラジカセから流れる英語に意識を集中させた。


- - -


「疲れた……」

「まぁ、テストは長期戦だからね」

「それにしても秋山君疲れすぎじゃない?」


 4日間の中間テストを終えると、僕は屍のようになっていた。いや、それはおおげさだ。いや、やっぱりおおげさじゃない。本当に気力を全て持って行かれた感じ。テストってこんなに疲れるものだったろうか。


 情報のテストが終わり、僕らはパソコン教室から戻っている途中だった。僕と、内田君。それから、なんとはなしに大川さんの三人で教室へと向かっていた。内田君だけならまだしも、大川さんまでちょっと面白がるような顔をしていて、僕は少しだけ不服だった。


「ま、おつかれ秋山君。出来はどう?」

「それ、いま訊くの大川さん……まぁ、可もなく不可もなく、って感じ」

「私もそんな感じだよ」


 大川さんはこの一ヶ月、たまに会えばいつもそうしていたように、ふわりとした笑顔を浮かべた。僕はなんとなく気恥ずかしくなって、前を向く素振りで顔を背けた。


「でも、よく頑張ったと思うよ、ほんとに。赤点は確実にないでしょ」


 内田君もまた、いつものようにニコニコしながらそう言った。


 何はともあれ、転校後、最初の難関だった勉強やテストの壁は、なんとかクリアできたようだった。

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