聞かぬは一生の恥

「学校の授業についていけなくなったから理解できるようにしてほしい?」

「はい」


 学校からの帰り道、僕はオルカに新しい願いを伝えた。今日は授業についていけなくなっていたことを実感した。前の学校で勉強しなかった期間が長かったし、夏休みに全く勉強していなかったのも大いにある。現代文や古典、英語などはどうにかなると思うけれど、理数系はかなり危うい感じだった。転校先のクラスは文系クラスだけど、だからって理数系がからっきし、というのはさすがにまずい。


 オルカにお願いすれば、なんとかなるのではないかと考えるのは、けっこう自然なことだと思う。実際、これまでオルカにお願いしてきたことは叶っている。いや、今朝お願いしたばかりの「友達が欲しい」というのは、いまも継続中というべきかもしれないが。


「あ、でも、それだと一日ひとつの条件を越えちゃいますね」

「明日のひとつを前倒しにしたらええよ」


 今朝のことを思い出しての発言だったけど、オルカはあっさりと対応策を提示してくれた。悪魔との取引は意外と柔軟にやってもらえるらしい。


「で、肝心の勉強やけど、先生に訊いたらええねん。勉強のことなら、学校の先生が一番や」


 ……ん、あれ? なんだか、思っていたのと違う答えが返ってきた。


「先生に訊くんですか?」

「せやで」


 確認してみたけど、答えは同じだった。やっぱり、僕が思っていたのと、なんか違う。それを言うべきか、言わないべきか、少し迷った。なんでかは分からないけれど、オルカにこの「なんか違う」ことの理由を尋ねることには抵抗があった。だけど、今更訊かない理由もない、と思い直して、オルカに意見をぶつけてみることにした。


「オルカの力で、こう、バーッと理解できるようになったりしないんですか?」

「阿呆、それやと代償がないやないか」


 僕の質問は、しかしオルカのその一言でばっさりと切られてしまった。どうやら、オルカに直接教えてもらったり、不思議な力ですぐに理解できたりするわけではないらしい。


「でもオルカは魔法使えるじゃないですか」

「それとこれとは話が別や。前にも言うたやろ。俺がお前の願いを叶えるには、行動するっちゅうのがセットになるんや。いきなり悪魔のパワーでバーッとなんかできるかい」


 再び言い募るも結果は同じ。悪魔流に言うなれば、今回は『教師への質問』というのが代償になるのだろう。


 言っていることは分かる。確かに、授業を教えているのは教師だ。そして、高校教師ともなれば、ひとつの科目を専門で教えている。その教師に、分からないことを訊くというのは、確かに理に適っていると言えるかもしれない。


 だけど、なんだろう、なんだかモヤモヤする。すっきりしないこの感じはなんだ。僕が自分の中に湧き上がった、言いようのないモヤモヤした感じ、恐らくこれを違和感と呼ぶのだろうが、その正体に首をひねっていると、オルカが口を開いた。


「椋介、お前まさか、先生に訊くことが恥ずかしいとか思っとるんちゃう?」

「……」

「なんや、図星か」


 その声には、なんというか、吐き捨てるような、嫌なものに対して言うような、そんな響きがあった。三ヶ月近くオルカと一緒にいるが、彼のそんな声音は初めて聞いた。普通に返事をしようとしたけど、


「えぇ……まぁ……」


 僕の口から出てきたのは、自分でもはっきり分かるくらい機嫌の悪そうな、心底厭そうな声だった。声が出た瞬間、自分が驚いたくらいだ。だけど、面白くない、と感じているのは確かだ。なぜか、イライラする。オルカの言葉に反応したのか、彼の吐き捨てるような物言いに反応したのか、そこまでは分からないけど。


「ほんま、アホやなぁジブン」


 すでに何度も言われた言葉だ。なのに、なんでいまは、こんなに腹が立つんだろう。


「自分じゃ分からんことを人に訊くのが、なんで恥ずかしいねん。逆や逆、そこで聴きもせんと、自分はできると思い込んで突っ走る奴の方が何倍もダサいわ」


 そこまで一息に言われて、どうにも気持ちがムカムカしてきた。頬の筋肉が少しひきつるような気がした。思わず唇を噛んだ。


 オルカと出会って3ヶ月。ここまで彼の言葉に腹が立つのは初めてだった。僕は歩いていた足を止めて、一度深呼吸をした。それでイライラが治まるわけではないし、思考がすっきりするわけでもないけど、なんとなく。


 僕はまた歩き出した。しかし、歩調は立ち止まるよりずっと速いし、歩幅も広い。それくらいは自覚があった。家に向かう道を逸れて、別に道を進んだ。当然のことながら、オルカも一緒についてくる。


「おい椋介、どこ行くねん」

「図書館です」


 特に考えたわけでもないけど、なんとなくそう答えた。かなり早口で、たぶん語気も荒い。僕にしては珍しいことだと思う。その様子を見て、さすがのオルカも怪訝に思ったらしかった。


「何をそんなイライラしとんねんな」

「……オルカって、僕から離れることはできないんですか?」

「そらできるよ」

「じゃあ、しばらく離れててくれませんか。ちょっとひとりになりたいです」

「……さよか」


 オルカは呟くようにそう言うと、瞬きをする間に見えなくなった。それを見るや、僕はさっと向きを変えて図書館へと向かった。


 そうやって図書館に向かって歩き出したけれど、歩いているうちに、だんだんと頭が冷えてきて、イライラした気持ちもやけに白けたものになっていた。そして、冷静になるにつれて、さっきの自分の振る舞いがとてもみっともなく、幼く、恥ずかしくなってきた。


 確かに、オルカの言うことはもっともだ。自分が分からないことは人に訊く。わかってないのに何もしないのが一番ダサい。ことわざにもある。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。


 だけど、強く言ってしまった手前、そして図書館に行くと宣言した手前、どうにも帰りにくくて、結局そのまま、僕は図書館にやってきた。


 入口近くのカウンターにいる顔なじみの司書さんと会釈を交わし、僕は書架の方へ向かった。夏休み中ずっと通っていたこともあり、図書館の中も歩き慣れたものだった。


 特に何かを借りるつもりでも、何かを読むつもりでもなかった僕は、ブラブラと書架の間を歩き回ることにした。木の匂いと一緒に、紙とインクの匂い――本の匂いがした。僕は図書館が好きだ。この匂いと、静かなこの空間が何より落ち着く。ここの図書館は、天井近くから明かりを取り込む造りになっているらしく、狭苦しくない解放感があった。高い建物がない田舎では、外の光を遮るものもないので、光も抵抗なく入ってくるから、薄暗くならず、居心地のよい明るさだった。


 『外国人作家』のプレートがかかった棚を通りかかったとき、見覚えのある人物を見つけた。本の背表紙を眺めている。大川さんだった。ふと目が合った。


「おつかれ秋山君」

「あ……どうも」


 ふわりと笑う大川さんに対し、僕は少し遠慮がちに挨拶をした。


「何か借りに来たの?」

「いや、なんとなく来ただけ」

「そう」

「大川さんは?」

「私もなんとなく」


 お互い、特に理由もなく図書館に来たらしかった。そういえば、大川さんと初めて会ったのは、この図書館だ。会った、と言っても、本当に一瞬で、オルカの予言がなければたぶんここにも来なかっただろうけれど。


 ふと棚の手近なところに、僕の好きな外国人作家のシリーズがあった。前から借りられていて、続きが読めなかった作品だ。ちょうどいいと思って、僕はその本を手に取った。ハードカバーの本で、その巻は厚さもそれなりにあって、ずっしりとした重みがあった。


「それ好きなの?」

「うん。知ってる?」

「私も好きだから。中学のとき読んでた。なんか、惹きこまれる」

「うん、読み始めると、一気に読んじゃうんだよね、これ」


 この本の表紙には、登場人物が描かれない。その代わりに、とても繊細で美麗な、絵画のようなイラストが表紙を飾っている。そのイラストも象徴的で、狼だったり、蜘蛛の巣だったり、時計だったり、内容と直接の関わりはないものが描かれている。その上から、図書館の本特有の、透明な保護フィルムが丁寧に貼られている。今日はこれを借りて帰ろうと、その場で僕は決めた。


「秋山君、本が好きなの?」

「読書は好きだよ。大川さんも?」

「うん、いくらでも読めるかも」


 大川さんは棚に並ぶ本の背表紙を撫でた。


「ファンタジーも好きだけど、サスペンスとか、ミステリとかも好き」

「僕もファンタジー結構好きかも。初めて読んだのもファンタジーだし」

「いつ?」

「小学校のとき。図書室でたまたま読んだ本にハマった」

「私はお父さんの持ってた本だったなぁ。真っ赤で、絹張りの本」

「そんな本あるの?」

「あるよ」


 大川さんはとても楽しそうに、自分の好きな本の話をした。けっこうな文学少女らしく、さっき自分で言ったジャンルに限らず、気に入ればなんでも読む人らしい。そんな風に話していると、僕も自然と、自分が読んできた本や、特に好きだった作家の話をしていた。そんな感じで、僕たちはしばらくの間、好きな本の話をしていた。


 ふと時計を見ると、6時になるところだった。それを確認すると、僕らはどちらからともなく話題をまとめてしまって、「じゃあね」と言って図書館を出た。


- - -


 帰宅しても、まだオルカは姿を現さなかった。いや、もしかしたら、姿を消して見えなくなっているだけかもしれない。そんなこともできるのか、と言ったら、きっとオルカは「そら悪魔やから」と一言で片付けてしまうだろう。


 さて、勉強をしようか、借りた本を読もうか。一瞬迷って、すぐに本を読むことを決めた。こういうときは勉強に取り掛かるべきなんだろうけど、面白い本があれば、僕の興味はそちらにすべて持っていかれてしまう。ダメなところだと思いつつも、この誘惑には抗えない。


 今日、借りてきたこのシリーズの主人公は、病気で余命僅かな親友を救うため、伝説上の存在とされた吸血鬼バンパイアと取引をする。自分を吸血鬼の仲間にする代わりに、親友の命を助けてもらうことから物語は始まる。主人公と吸血鬼は、師匠と弟子のような、兄弟のような、親子のような、奇妙な信頼関係を築いていく。


 僕は親友を救うためではなく自分のため、取引の相手も吸血鬼ではなく悪魔だけど、この主人公とよく似た状況に立っている。ただ、オルカと師匠と弟子のような、兄弟のような、親子のような関係になることなんて想像がつかないけれど。ただ、立場が似ているだけに、この主人公のことを他人事を思えないし、たいへんな親近感を抱いていた。


 物語の中で、主人公と吸血鬼の意見が激しく対立し、口論になっていた。きっかけは、吸血鬼の世界のルールをよく知らない主人公が、調子に乗って色々な失態をやらかす。自分をこの世界に引き入れた吸血鬼に叱責され、それに反発したことだった。


『なぜ知りもせんことを知った風に言ったのだ、大ばか者!』

『うるせぇ! 知らないとバカにされると思ったんだよ!』

『たわけが! 確かに、お前を笑う者もいるだろう。バカにする者もいるだろう。だがそんなものは放っておけば良いのだ! そういう者は、自分が吸血鬼になったばかりの、右も左も分からなかった時のことを忘れた連中だ! そんな浅慮な者に笑われたところで、何が恥ずかしいか!』

『……それでも、自分の振る舞いを笑われるのは嫌だ』

『知らないならば訊けばよいのだ。そのとき笑われるかも知れん。だが、その程度を恥と思い、何も知らずにいることの方がよっぽどの恥だ』


「……同じこと言ってるよ」


 分からなければ訊け。知ったかぶりが一番ダサい。オルカとこの吸血鬼は、同じことを言っていた。僕は本から顔を上げ、天井を仰いだ。


「オルカ」

「なんや」


 いつの間にか、畳の上に寝転がったオルカがいた。やっぱり、見えないだけでずっといたのではないだろうか。


「さっきはすみませんでした。確かに僕、ちょっとダサかったですね」

「せやな。ダサかったわ」


 ここは「さっきは俺も言い過ぎた」とでも言うところじゃないだろうか。いや、でも、この方がオルカらしいな、とも思った。


「けど、それを素直に言えるジブンは、さっきよりカッコええで」

「どうも」

「まぁ、ジブン、前の学校から転校するとき、言うとったもんなぁ。教師を頼りにしちゃいけないとか」

「言いましたね」


 あのときの僕には、教師は生徒の話なんて一切聞かない存在だと思っていた。いや、前の学校に限って言えば、きっとそれは当たっているように思う。


「そういう不信感もあったんちゃう。ま、ここはまた違う場所や。気楽に行ったらええんやで」


 僕の気持ちを気遣ってなのか、ただ純粋にそう思っているだけなのか分からないけど、ただ、なんとなく前者であるような気がした。僕は素直に「そうですね」とだけ返事をした。それで、この話はお終いになった。


「オルカ、ちょっと思ったんですけど」

「なんや」

「これからはタメ口で話します」

「好きにし。あと、明日コーラ買うてくれや」

「はいはい」


 僕は本を閉じて、リュックから教科書を引っ張り出した。教師に何か聞くにしても、何もせずにいるのは嫌だと思ったから。

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