勇気の一歩

「本当に大丈夫かい?」

「大丈夫だよばあちゃん、そんなに心配しなくても」

「そうは言ってもねぇ……」


 制服を着て食卓に着くと、ばあちゃんは何度も僕に同じ質問をして、僕はその度に何度も「大丈夫」と返していた。じいちゃんはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。


 こっちに引っ越してくるにあたって、二人とも僕の事情はしっかりと把握している。だからこそ心配してくれているのはよく分かっているし、ありがたいとも思っている。だけど、行こうと決めたのだから、学校へは行くつもりだった。


「さっきも怖い夢を見たと言っていたじゃない。まだゆっくりした方がいいんじゃない?」


 ばあちゃんの様子は母さんに似ていた。学校には行くべきと何度も言う母さんと、休んだ方がいいと何度も言うばあちゃん。内容は真反対だけど、妙なところで親子の似ている点を見つけた。


「母さん、もうええが」


 それまで黙って新聞を読んでいたじいちゃんが、新聞を畳みながらそう言った。


「椋介は行くと決めた。それでええじゃろう」


 じいちゃんのその言葉が決め手になった。同じようなやり取りを、父さんと母さんの間でも何度も見たことがある。なんだか不思議な気持ちだった。オルカも同じことを思ったのか、


「椋介んトコでもおんなじことあったなぁ」


 と言いながらおかしそうに笑っていた。そんなわけで、僕は教科書やノート、そしてばあちゃんが作ってくれた弁当で重くなったリュックを背負って家を出た。気分は晴れ晴れとしたものではなかったけど、それでも、明け方に比べれば随分良くなっていた。


 通学路ははっきりと覚えている。僕は方向音痴ではないし、田舎のすっきりした道では、迷いようがなかった。


「さっきよりは、ええ顔になったな」

「はい、だいぶマシです」

「さっきだけやなくて、夏休み中から、だいぶ顔つきもマシになっとったで、ジブン」

「それなら、よかったです」


 以前、学生の自殺者について調べたことがある。それによると、夏休み明けの9月1日の自殺率は異常に高いらしい。それだけたくさんの、僕と歳の近い人たちが、学校に行きたくない事情を抱えているということなんだろう。きっと、僕と同じ境遇の人もいたに違いない。僕がその中に加わらずに済んだのは、この陽気な悪魔のおかげなんだろう。ふざけたところが、少し腹立つこともあるけれど。


 ふと、新しい願いを思いついた。


「オルカ」

「なんや」

「友達が欲しいです」


 僕の発言に面食らったらしく、オルカはきょとんとした表情を浮かべている。うん、確かに今のは急だったと思う。でも仕方ない。突然思いついたのだから。


 気の合う相手、というので大川さんと出会えたことは良かった。ただ、それとは別に、普通に友達が欲しいと思ったのだ。新しい環境、新しい学校、そこで多少なりとも話しをする友達が一人もいないというのは、あまりにも寂しいと思ったし、今度は普通に接することのできる人が欲しかった。


 と、ここまで説明してないけど、オルカは「そうかい」と言って、返事をくれた。


「そんなら、まずは挨拶や。コミュニケーションの基本やで」

「はぁ、よく聞きますよね」


 思っていた以上に、オルカの返事も普通だった。


「それだけ意味があるっちゅうこっちゃ。正確には、そう感じる人が多いんやろ。まずは近くの席のもんにすることから始めたらええねん」


 オルカの言葉は、いつもどこか示唆的だ。でも、なんだか説得力があるような気もする。よく聞くということは、それだけ多くの人に支持された考え、か。確かに、至言だろう。まずは近くにいる人への挨拶から始めよう。


 ……と考えると、少し緊張する。お腹の下がきゅう、と縮むような、腹痛に似た感覚があった。勇気がすっかり萎んでしまっていることを実感した。その事実だけでへこみそうだ。その不安を、僕は素直に吐き出した。


「なんか、緊張します」

「それも代償や」


 なんでもないようにオルカはそう言って、「ま、気張りや」と僕の肩に手を置いた。


「他人事と思って」

「そら他人やから」


 確かにそれはもっともだった。


 学校が近付くにつれて、制服を着た人がたくさん目につくようになる。歩いている人、自転車に乗っている人、ひとりの人、友達と一緒の人。この近くの高校はひとつだけなので、みんなも僕も、行き先は同じだ。


 ふと、この中で僕と同じような人はいるんだろうか、と思った。


 僕はいま、オルカという悪魔に憑かれている。そして、本当の願いとやらを見つけなければ、あと9ヶ月半の命だ。自分の残りの命については、正直なところ、あんまり自覚がないけど。


 それと、僕は今朝、悪夢を見た。いや、正確には、あれは記憶だ。前の学校でいじめられていたときの、忌まわしい記憶。それは、眠っている僕の身体と心を跳ね飛ばすほどの恐ろしい力を持っている。


 それらは考えても意味のないことだ。こういう、考えても意味のないことを、僕はよく考えている気がする。特に、ここ最近。いま、隣を歩いている、僕だけに見える悪魔に出会ってから。


「なんや、じっと見て」

「いえ、なんでも」


 オルカの顔をじっと見つめてしまっていた。僕は目線を前に戻した。だけど、どうしても、考えてしまうことがある。


 もしもオルカに出会わなかったら、僕はいま、ここにいただろうか。


 教室に入ると、すでに三分の二以上の席が埋まっていた。隣の席の内田君も、すでに席に着いてスマートフォンをいじっていた。あれ、この学校、スマートフォンの持ち込みは大丈夫なんだろうか。僕も持っているけど、今はリュックの中だ。


 内田君を横目に見ながら席に着いた。さぁ、挨拶だ。そう思うと、今朝感じたお腹の下が縮む感覚が、また襲ってきた。あぁ、やっぱり緊張する。ダメだな、こんなことでいちいち緊張するなんて。思わず目を閉じて、ため息をついてしまった。


「おい椋介」


 前からオルカの声がした。目を開けると、机と同じ高さまでしゃがんだオルカがいた。僕の机に両腕を置いて、歯を見せて笑っている。


「大丈夫や、安心し。お前には、どんな願いも叶える悪魔が憑いとるんやで?」


 どうやら応援してくれているらしい。まったくもって悪魔らしくなかった。それに、どんな願いも、と言っても、例外だってあると昨日言っていたばかりだ。だけど、それで少しだけ勇気が湧いた。僕は内田君を見て、なんとか声を絞り出した。


「お、おはよ、内田君」


 しまった、ちょっと詰まった。変に思われたかも。思われたらどうしよう。どんな顔をされるだろうか。というより、今の挨拶聞こえただろうか。


 だけど、僕の心配は見事に、良い意味で裏切られた。内田君は僕の顔を見て、少し笑って、


「おはよう、秋山君」


と返してくれた。


「なんかため息ついてたっぽいけど、大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 しかも、会話まで続けてくれた。ありがたかった。それで、僕も安心できた。


 あぁ、やっぱり大丈夫だった、と。緊張で強張っていた体が、少しずつ緩んでいくのを感じた。そして、緊張が緩んだおかげで、会話をしようという気持ちを持つこともできた。


「あの、内田君」

「ん、どした?」


 いま一番気になることを聞くことにした。僕は内田君の手元を指差した。


「この学校て、スマホって……」

「使うの禁止。見つかったら即没収。あと反省文」


 内田君はそう言うと、手元のスマホを振って見せた。表情もどこかとぼけている。こういうところは、少しオルカに似ていた。


「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、秋山君」


 内田君はニヤッと不敵に笑った。


「ルール違反は、見つからなければルール違反にはならないんだよ……っと、ヤベ」


 内田君が慌ててスマホをポケットにしまうのと、安藤先生が教室に入ってくるのは同時だった。僕と話しつつも、しっかりと注意を払っていたらしい。


「バレたことは?」

「今んとこナシ。それと、安藤先生は優しいけど校則にはうるさいんだよ」


 内田君はこそっと教えてくれると、お口ミッフィーで頼むな、と口元にバツを作った。それは少し古いんじゃなかろうかと、僕は苦笑してしまった。


 オルカの方を見ると、満足げな表情でグッと親指を立てていた。


- - -


 さて、今朝は調子よくスタートしたけれど、授業の方で問題が発生した。授業で分からない所がいくつもあった。正直、ノートを取るばかりで、先生が何を言っているのかよく分からないことがほとんどだった。これは困った。何を言っているか分からないから、結果的に授業は退屈なだけになってしまって、うっかりすると寝てしまいそうだった。


 原因は……一応、分かっている。いじめられていた時期、何もしたくなくて、何も手につかなくなって、勉強も一切しなくなった時期がそれなりに長く続いていた。授業は聞いているけれど、内容がさっぱり頭に入ってこないというのもあった。おかげで、前の学校の成績はガクッと落ちていた。人に言えば言い訳だと言われてしまいそうなので、誰にも言ったことはないけど。


 僕は授業についていけていなかった。これはさすがにまずい。ただ、どこから勉強し直せばいいだろうか。授業を受けながら、僕はそんな焦りを感じていた。


 ただ、焦りや、悪いことばかりが思い浮かぶわけでもなかった。自分の机の上を見て、僕はホッとした気持ちを、今日だけでも何度も感じていた。


 教科書もノートもなくなっていない。筆箱の中に変なモノも入っていない。リュックに誰も悪さもしてこない。それが普通なんだろうけど、今までそんな普通とかけ離れていたから、いまがとても嬉しかった。


 後にオルカにこのことを話して、感謝を伝えたところ、「椋介が願った結果や。俺はちょっと手伝っただけや」と言われた。


 そういった実感のひとつひとつが、今はもう大丈夫なんだという気持ちにさせてくれた。そして、オルカへの次の願いも決まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます