夢を見た

 笑い声が降ってくる。とても大きくて、とても楽しそうで、心底愉快そうで、この上なく怖かった。


 ロッカーを見る。教科書がない。


 靴箱を見る。靴がない。


 母さんが作ってくれた弁当は、いつの間にかごみ箱に捨てられていた。


 スマホを見る。メッセージの数がやけに多い。全部、罵詈雑言だった。


 僕を見ている気配がする。聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声量の話し声が聞こえる。ギリギリなはずなのに、一番聞きたくない言葉は嫌でも耳に入る。


 頭が痛い。お腹が痛い。肩が重い。暴力的な眠気は、夜にはやってきてくれないのに、来てほしくないときにやってくる。


 あぁ、胸が苦しい。息がしにくい。呼吸が浅くなっている。気付けば肩に力が入っている。


 目の前にはドアノブがあった。いつの間に巻いたのか、そこには輪になったネクタイがあった。あぁ、そうか、高い所に結ぶ必要はないんだと気付いた。


 ゆっくりとその輪に、僕は頭を通して――。


- - -


 脳天から熱湯をかけられたようだった。熱とも痛みとも痺れともつかない感覚が駆け抜けた。バネのように、心も身体も弾き飛ばした。冗談みたいな音が耳の奥で鳴った。布団を蹴り飛ばして跳ね起きた。


 熱い。熱いのに寒い。身体の外側はこんなに熱がまとわりついているのに、胃に直接大量のドライアイスでもぶちこまれたように、体の芯は冷えていた。


 息が苦しい。声にならない声が喉から出てくる。吸っても吸っても息が足りない。心臓が自分の居場所を失ったように、腕や頭や背中で暴れ回っている。


 手がこわばる。掴んでいる場所をギリギリと握りしめた。握っている自分も痛いくらいなのに、全然緩む気がしない。


 ここまで来て、ようやく僕は自分の手が見えるくらいには明るいことに気付いた。自分が握っているものが布シーツであるという実感が、思い出したように手の平に伝わってきた。


「おはよう椋介。大丈夫け?」


 横からオルカの声がした。


「大丈夫……大丈夫……」


 その言葉に応えるつもりで発した言葉は、呼吸に混じって掠れていた。気付くと僕は、撫でるように自分の喉元を触っていた。肌は、汗でじっとりと湿っていた。


 オルカが隣にきて、僕の背をさすってくれた。軽薄な印象を受ける普段の彼からは想像できなほど、その手つきは優しく感じた。次第に、感覚の焦点が合うように感じられた。2ヶ月前をさまよっていた意識が、すーっと、「いま、ここ」に落ち着き始める。心臓は、もう居場所を思い出していた。


 掴んでいたシーツを離すと、手の関節が少し痛かった。強く握りすぎたらしい。僕は顔を上げ、隣にいたオルカの目を見た。


「まだ朝の5時や。もういっぺん寝るか?」


 オルカの目は、朝方の薄青い部屋の中でもはっきりと分かるくらい、明るい鳶色をしていた。そういえば、3ヶ月近く一緒にいるのに、オルカの目をほとんど見ていなかったことに気付いた。


 枕元の目覚まし時計を見ると、確かに5時頃を指していた。しかし、僕はもう一度寝る気が起きなかった。下の階では、台所を人が歩く音がしている。ばあちゃんもじいちゃんも、朝が早い。ふたりとも、朝の準備をしているのだろう。


 僕は布団から出ると、学習机の椅子に座った。跳ね起きた瞬間の、冗談のようなパニックは落ち着いていたけれど、嫌な汗が体にまとわりついて、少し気持ち悪い。オルカは、心配そうな、訝しむような、微妙な顔をしているように思った。思った、というのは、寝起きと、カーテンを閉め明け方の薄暗い部屋とで、顔をよく見ていないからだ。明るい鳶色の瞳だけが、わずかな明かりの中でもはっきりと分かった。


「夢を見ました…………、前の学校の」


 それだけ言うと、不意に胸がきゅう、と苦しくなって、視界は滲んでよく見えなくなった。それ以上は何も言う気が起きなかった。情けないと思いつつも、抑えつけることもできないまま、涙は次々と溢れていた。


 以前の学校のことを夢に見るのは、これが初めてではない。だけど、最近はだんだん見なくなっていた。引っ越して、オルカと夏休みを過ごして、思い出にはかさぶたができていた。だけど、あの記憶はそう簡単に僕を逃がしてくれはしなかった。新しい場所とはいえ、やっぱり体は、学校という場所を怖れているようだった。


 階段を上がってくる音がする。襖の外からばあちゃんの声がした。遠慮がちに襖が開けられ、ばあちゃんが部屋に入ってきた。


「椋ちゃん、大丈夫? どうしたの?」


 ばあちゃんの心配そうな声がした。僕はまた「夢を見た」とだけ答えた。


「怖い夢だったのね?」


 ばあちゃんの言葉に頷いて返事をした。そう、あれは怖い夢だ。同時に、この上なく惨めな気持ちになる夢でもあった。あの笑顔と、あの声が飛び交う場所で、僕は人間ではなかった。あそこは学校なんかじゃなかった。新しい場所に来て、新しい学校に行った。あそこは前の学校じゃないのに、それでも、心は思い出したくないあそこのことを思い出す。


 ばあちゃんは僕の肩にそっと手を置いた。


「まだ時間あるから、学校に行きたくなかったらおばあちゃんに言ってね、連絡するから」


 僕は詰まったような声で、「うん」と答えた。


- - -


 目は覚めているけど、身体はだるいような、ほんの少し眠いけれど、二度寝する気は起きないような、微妙な感覚のまま、僕はぼんやりと部屋で過ごした。オルカは何も話しかけてこなかった。僕は充電器に繋いだままのスマートフォンを手の中で弄びながら、意味もなくチャットアプリを開いたり閉じたりしていた。


 イヤホンをつけて、動画アプリを立ち上げた。知っているしメロディも分かるけど、別に好きでも嫌いでもないアーティストのミュージックビデオを選び、ぼんやりとその曲を聞いた。聞いたところで何になるわけでもないけれど、なんとなく。僕は音だけを聞いているので、ミュージックビデオは全く見ていないけど。


 別の曲が思い浮かんだら、検索バーにキーワードを打ち込んで次へ。また飽きたり別の曲が思い浮かんだりしたら次へ。そんな感じで、中途半端に何曲か流した。定型文のようJ-POPの歌詞は、一度通り過ぎればもう思い出せなかった。何より、聞き取りにくかった


 関連動画のサムネイルを見るともなしにスクロールする。一番最後、誰にも見つからない場所に置き忘れられたように、クラシック音楽らしき曲のサムネイルを見つけた。タイトルは『モーツァルト 二台のピアノの……』とまで表示されていた。ピアノ曲らしい。僕はなんとなく興味を惹かれてその動画を選択した。


 耳障りな広告をイヤホンを外してやり過ごすと、いまの僕の気分とは程遠い、軽快で明るいメロディが流れ始めた。全文表示されたタイトルを改めて確認した。『モーツァルト 二台のピアノのためのソナタ 第一楽章』とあった。


 モーツァルトは名前くらいは知っているが、クラシック音楽のことは全く分からない。しかし、軽妙で気まぐれにすら感じるこのピアノの曲は、全く押しつけがましくなく、すっと馴染むようで聴きやすかった。僕は聴きはじめてしばらくして、なんとなくこの曲が好きになっていた。


 気持ちはそれほど明るくなったわけではないけど、さっきよりマシになってきた。マイナス10が0に近付いた程度のものだけど、それでもマシなものはマシだ。時計を見る。まだ時間に少し余裕があった。


「オルカ」

「お?」

「学校に行きます」

「さよか」


 何のための宣言なのかさっぱり分からないけれど、オルカは何も言わなかった。僕はのろのろとした動きで部屋を出て洗面所へ向かった。起きてからすでに1時間以上経過しているのに、顔を洗ってなければ歯も磨いていなかった。

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