転校初日

 夏休みはほぼ毎日、図書館で過ごした。開館直後に行き、閉館ぎりぎりまで本を読みふける。元々読書が好きだったこともあり、この夏休みで20冊近く本を読んだ。あれ以来、オルカに何か願い事をすることもなく、僕だけに見える悪魔がいることを除けば、すっかり普通の生活を送ることになった。


 そして迎えた二学期初日。僕はいま、まだ着慣れない半袖のカッターシャツを着て、ばあちゃんが運転する車に乗っている。


 はっきり言って緊張する。肺のすぐ下を、細い紐できりきりと絞められているような、嫌な緊張感だった。以前通っていた学校ではないのに、やっぱり体はまだ少し怯えている。


「それでは先生、よろしくお願いします」

「はい。それじゃあ秋山君、行こうか」


 ばあちゃんが担任の先生に僕を引き渡す。刑務所に入る囚人はこんな気持ちなんだろうか。


「自分、のん気そうな顔しておもろいこと考えとんなぁ」


 そんな僕の心情を読み取ったオルカは、遠慮なしに大爆笑していた。不愉快だし抗議したいが、周囲の目があるためそうもいかない。できるだけ全力の小声でオルカに文句を言ってみる。


「僕は本当に気が気じゃないんですから! 腹抱えて笑うことないでしょ!」

「自分、発想がおもろいねん」


 そこまで言うと、オルカは再びゲラゲラと笑いだした。ムカツク。


「秋山君? 大丈夫ですか?」

「あ、いえ、大丈夫です。すみません」


 担任の先生は訝しげな顔をしていたが、すぐに優しい顔になった。30代後半の男の先生で、安藤先生といった。


「前の学校では色々大変でしたね。時間がかかるかもしれませんが、焦らず、ゆっくり慣れていきましょう」


 ありがとうございます、と僕は冷や汗を流しながら応えた。オルカは僕以外には見えないんだから、もっと慎重に振舞わないと。むしろ、これまで気にしなさすぎたのかもしれない。改めて気を引き締めた。


「そんなに気ィ張ってもええことないで」


 この際、横から茶々を入れてくるこの胡散臭いイケメンは無視しよう。プライバシーの問題は考えるだけ無駄だろう。そんな調子で、僕らは微妙に覇気のない朝の廊下を歩いた。


 教室に向かう足が、どんどん重くなっていくのを感じる。ここは以前の学校とは違うのに、身体が本能的に教室に入ることを怖れている。背中を、冷たい汗がつー、と流れていく。教室の前まで来たとき、僕の緊張は最高潮に達していた。眩暈がしそうだ。


「椋介」


 隣から、この二ヵ月ですっかり聞き慣れたオルカの声が聞こえた。オルカがウィンクをした。


「大丈夫。お前なら大丈夫や」


 たったそれだけだった。何も大丈夫な気はしないけど、でも、自分の中で居場所を失っていた重心が、本来の居場所を思い出したように、すーっと落ち着いていくのを感じた。


「秋山君、着きました。さぁ、入りましょう」


 安藤先生に連れられて教室へ入る。すると、そのクラスにいる生徒全員の視線が、僕に集中する感覚があった。僕は極力クラスメイトの方を見ないようにしながら、教卓の隣まで進んだ。


「今日から、このクラスに転入してきた、秋山椋介君です。ご家庭の都合で、K県からこちらにやってきました」


 安藤先生は黒板に僕の名前を書くと、目だけで、何か一言、というふうに伝えた。僕はクラスメイトの方を向き、声が上擦りそうになるのを堪えながら、よろしくお願いします、とだけ言って軽く頭を下げた。


「悪魔のオルカです、よろしゅ~」


 僕の隣で、オルカはふざけたようにそう言った。勘弁してほしかった。


 僕の席は、教卓から見て一番右奥、窓際の席だった。木の板と鉄の骨組みを組み合わせて出来た固い椅子に座ると、心臓がいつもよりもずっと高い位置にあるように感じた。落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうだ。


 教室の前では、安藤先生が始業式の時間や体育館への移動について説明している。僕はその間に、クラスの様子を眺めてみた。クラスメイトは全部で30人くらい。女子と男子の割合は七対三くらいで、男子の方が多い。僕の隣と前の席も男子だった。ついでに言うと、前に座ってる彼はスヤスヤと眠っている。


「よ、転校生」


 隣から声をかけられた。くしゃくしゃの茶髪の男子生徒が、ニコニコしながら手を軽く振っている。


「秋山椋介っていうたっけ?」

「うん」

「俺は内田健太うちだけんた。よろしく」

「うん……よろしく」


 内田健太と名乗った彼は僕を見ながら、少しだけ目線を上にやった。その目線の動きに微かな違和感を覚えたけれど、次の瞬間には、またニコニコした表情で僕と目を合わせていた。


「もうちょいしたら体育館に移動だし、用意しといた方がええよ」

「用意って……始業式に用意がいるの?」

「知らんの?」


 内田君はキョトンとした表情をした。


「うちの高校、転校生は全校生徒の前で自己紹介させられるんよ」

「え、うそ?」

「うん、嘘。ちょっとした冗談」


 がっくりと肩から力が抜けた。僕の様子を見て、内田君は面白そうにケラケラと笑っている。今の僕にとって、人前に出る事は「ちょっとした冗談」では済まないのだけど、彼の全く悪意のない笑顔を見ると、なんだか怒る気力もわかない。


「肩に力入っとるように見えたから。ちょっとはリラックスできた?」

「うーん……」


 なんと表現すべきか。ちょっと考えたけれど、最もシンプルに浮かんだ感情を伝えることにした。


「ちょっとムカついた」

「おっと、そりゃごめんよ」


 悪びれる様子は一切ないけれど、やっぱり僕は怒る気になれなかった。


「遊ばれてんなぁ、ジブン」


 面白がっているオルカの声には、なぜか本当に腹が立った。


- - -


 新学期一日目は始業式だけということもあり、生徒はみんな正午前には解放された。帰りはばあちゃんが迎えに来れないので、歩いて帰ることになっている。なんとなくまだ居辛い教室から、僕はそそくさと出た。


「なんや、隣の席の奴と一緒に帰らへんのか?」

「あー……」


 周囲に人がいないことを確かめて、僕はオルカの質問に答えた。


「まだ、そんなに長々と話す気持ちになれないっていうか……」

「ま、それもそやな。気の良さそうな奴やし、ゆっくり仲良くなってったらええんちゃう」


 正午過ぎのアスファルトの道は残暑が厳しい。一応始業式だからと黒い詰襟を持ってきてはいたけれど、着ることなくずっとリュックに押し込んだままだ。


「あの、すみません」


 不意に後ろから声が聞こえてきた。振り返ると、自転車を押している女の子がいた。制服から、転校先の高校の女子生徒だと分かった。いや、この近くに他の高校はないから、そこ以外の生徒がいるはずはないんだけど。肩にかからない程度のショートヘアの女子だった。


「はい、なんでしょう?」

「あの、間違いだったら申し訳ないんですけど……いや、たぶん間違いではないと思うんだけど……」


 彼女は少し言いにくそうにしていたけれど、思い切ったように続けた。


「もしかたら、夏休みに図書館で会いませんでした? 一回だけだし、一瞬だったけど」


 なんだって。僕は彼女の顔をまじまじと見る。すぐ後ろの方で、オルカが感心したような、納得したような声で「ほう」と言っている。オルカのその反応を見て、どうやら本当に会ったことがあるようだと思った。ただし、彼女も言ったように、一回だけ、一瞬のことだったようだが。


 彼女は線の細い顔立ちをしている。しなやかさと強かさのようなものを持っているように感じる。色白で、鼻と口がちょうど良いバランスで収まっている。しかし、大きなふたつの黒い瞳が、とても印象的で、目を引いた。一言で言えば容姿は整っている方だと思うが、どこにでもいると言えば、どこにでもいるような普通の女子だ。少なくとも、テレビや雑誌で見るような「キラキラ」した感じではない。何と言うのか……こういうのを、「素朴」と言うのだろうか。


 そして、彼女の黒い瞳に、僕は確かに既視感のような感覚を受ける。吸い込まれそうな、綺麗な瞳だ。


 ――あぁ、すみません。

 ――いえ、こちらこそすみません。


「あっ」


 花火のような一瞬の閃きで、既視感の答えは降ってきた。


「図書館で、ちょっとぶつかりそうになった人?」


 僕の言葉に、彼女はうんうんと頷く。


「私は大川結希おおかわゆき。同じ学年で、同じクラスだよ」

「あ、うん、よろしく。秋山椋介です」

「うん、さっき聞いた」


 大川さんはふふっと笑った。そのまま2人で並んで歩いた。田舎の道は車もほとんど通ってなくて、車道を歩いても何も問題なかった。


「びっくりしたよ。一瞬会っただけの人が転校してくると思わなかったから」

「しかもクラスまで同じだもんね。僕もびっくりしてる」


 転入先の学校は全校生徒はだいたい450人くらいらしい。僕の感覚では、少し少ない気がした。しかし、それでも同じ学年、同じクラスの人と夏休みに出会うというのは、偶然にしてもすごい確率だと思う。


「秋山君は夏休み中にこっち引っ越したの?」

「うん」

「ここまで来るの大変だったでしょ。この町、田舎過ぎて汽車の本数少ないし」

「そういえば、一時間に一本って時刻表だったよね。びっくりしたよ」

「終電も早いしねぇ」


 分かれ道になるらしい国道近くの道が、僕らの別れ道になるようだった。さっき会ったばかりだけど、なんとなくお互い話しやすかった僕らは、それなりに見知った仲のように「じゃあね」と言って別れた。


- - -


「ほら、ほら、俺の予言当たったやろ!?」


 大川さんと別れると、それまで静かだったオルカは、自分の予言が間違っていなかったことを何度も僕にアピールしてきた。ちなみに、これで4回目だ。


「もう、わかった、わかったから。確かに大川さんには会えましたけど、分かりにくくないですか?」

「細かいことは気にしたら負けや! 結果良ければ全て良しや!」

「結果が分かるまで夏休み丸々かかってるんですけどね」


 正直に言うと、図書館での一件があってから、オルカに対する信頼は大きく損なわれていた。この夏休みも片時も離れず一緒にいたにもかかわらず、僕はオルカにひとつも「願い」を言っていなかったのだ。


「まぁ、これはマジな話なんやけど」


 オルカは急に真面目くさった表情と声になる。


「人と会うっちゅう予知はな、読みにくいし絶対ちゃうねん」

「どういう意味ですか?」

「ん~、俺らみたいなのは感覚的にそのへん分かるんやけど、人間にどう説明したらええんかな」


 オルカは腕組みをし、しばらくうんうん唸っている。伝えたい感覚に似合う言葉を探しているけれど、なかなか見つからない、といった感じだった。


「思いもせえへんかった奴と仲良くなったり、親しかった友達と疎遠になったりすることってあるやろ?」

「え? あぁ、まぁ、そうですね」

「人の『縁』っちゅうのは絶えず変化してんねん。だから、どこか一ヶ所だけの出来事を断片的に予知できても、それ以上は俺らにも分からへんねん」


 突然始まった人間同士の縁の話だが、オルカが言わんとしていることはサッパリわからなかった。


「えーっと、それは一期一会みたいなものですか?」

「椋介なりの、精一杯の知識って感じの答えやな」


 オルカはいたずらっぽく、それでいてやや――見下したような、そんな不思議な笑みを浮かべた。


「ま、ひとつだけ確実に言えることは、『全く知らない、会ったこともない人間と会わせてくれ』っちゅう願いは、ちょっと叶う確率が下がるってことやな。更に、『気が合う』とかの条件を付けたら更にちょっと下がる」

「なんですかそれ。最初に言ってたルールや説明に無かったじゃないですか」

「何事にも例外はあるってことや」

「そういうのって、契約前にきちんと説明するもんなんじゃないですか?」

「人間社会と一緒にしたらあかんて。お前は残った時間のことを気にしたらええんや」


 その言葉に、僕は思わずハッとした。そうだ、すっかり忘れていた。オルカと契約したその瞬間から、僕の命には一年の制限時間が課せられている。オルカと契約したのが6月の中ごろ。今日は9月1日。既に2ヶ月半も時間は過ぎているというのに、オルカが最初に提示した「本当の願い」とやらは、全く見当もつかない。


 本当の願い。まるでアニメや漫画なんかで聞くような単語だ。僕はその意味すら、全く分かっていない。


「ジブン、いま『もう2ヶ月も過ぎてしまった』って考えとるやろ」

「えぇ……まぁ……」


 心を読まれたような気がした。


「心を読んだんとちゃうで。分かりやすいねん。そんなに深刻な顔して」

「そんなに深刻な顔してました?」

「してたしてた。けど、アホやなぁ、ジブン。そんなに深刻になるから、首くくろうなんて考えてしまうねん。こう考えたらええねん」


 オルカは振り返って、白い歯をむき出して笑った。


「『まだ10ヶ月くらいある』ってな。何事にも例外はある言うたけど、契約をいきなり無しにしたりはせえへん。一年って言うたら、ビタ一日まけず、一年や。せやから安心して、椋介は自分のことを考えとったらええねん。新しい学校で、知り合いがふたりできたことを今日は喜ぼうや」


 僕はどんな顔をしたらいいのか分からず、曖昧に笑うことしかできなかった。だけど、悪魔のその言葉に、少しだけ救われた気がした。






 ――僕が死ぬまで、あと9ヶ月半。

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