最初の願い

 ある日突然、僕の部屋に悪魔が現れた。見た目はテレビでもなかなか見ないような美青年。外見年齢は、たぶん25歳くらい。関西弁を話し、口調がどこかふざけている。コーラが好きらしい。呼び名はなんでもいいらしいが、オルカと呼ぶことになった。


 オルカは僕の願いを何でも叶えてくれるらしい。いくらか制限はあるようだけど。僕との契約も1年という時間制限がある。ひとまず自殺は保留にして、僕はその提案に乗った。オルカは「契約成立」と言っていた。念のため、契約書の有無を確かめてみた。


「悪魔社会にそんなんあらへん」


 人間社会なら破談だろう。


「色々と聞きたいことはあるやろうけど……その前に休んだ方がええな、自分」

「え?」


 間抜けな声を上げる僕に対し、オルカはどこからともなく四角形の鏡を取り出す。そこにはなんとも疲れ切った顔の少年がいた。目は充血していて、その下には濃いクマができている。肌が荒れていて、頬もこけている。詰まる所、僕はかなりひどい顔をしているらしかった。


「顔だけとちゃうで。自殺一歩手前までいったせいで、魂もレッドゾーンや。そういうときは、兎にも角にも一旦寝る」

「……眠れないんですよ」


 最近ベッドに入っても殆ど眠れない。体はだるいるし、頭もぼんやりするけど、意識ははっきりしたまま寝返りを打って夜を明かす。たまに眠気らしいものはあるけど、眠るというより意識を失っているという感じで、しばらくすればまた目が覚める。当然、疲れは取れない。その繰り返しだ。


 オルカはふむふむと頷くと、にやっと笑って手を打った。


「さっそく願い事ができたな。『ぐっすり眠りたい』って」

「……え? そんなことでいいんですか?」


 あまりにありふれた願い事に、僕はぽかんとした。悪魔にお願いするなら、人を呪うとか、自分が偉くなるとか、漠然とそんなものを考えていた。


「言うたやろ。俺は『どんな願いでも』叶える。どっかのランプに引きこもってる魔人と違って、1日1回やけど、回数制限は無いからいくらでも使ってくれ。ま、その代わりに毎回代償があるんやけどな」


 回数制限がない代わりに、願う度に代償を支払う。なるほど、支払いは死んで命を取られるカード払いではなく、現金払いらしい。


「じゃあ、さっそく……ぐっすり眠りたいです」

「よし、じゃあまず風呂に入りい。し~っかり体を温めて、さっぱりしてこい」


 オルカはそう言って僕を部屋から追い出す。僕は部屋を出るまで、怪しいキャッチセールスを見るような視線をくれてやった。そしていま、僕は湯船に浸かって天井を眺めながら、あの悪魔のことを考えている。


 僕が首を吊ろうとした瞬間、陽気な笑顔で部屋に現れた。壁に生首が生えたような状態で。びっくりしすぎて悲鳴も上げられなかった。腰を抜かす僕を見て大爆笑したあと、僕にコーラを買いに行かせ、僕らは取引をした。


 それにしても……どんな願いでも、か。これがお伽噺なら、僕はどんどん私利私欲のために悪魔に願って、最後には破滅という結末を迎えるのだろう。オルカはしきりに「代償」という言葉を使っていたし、何より1年以内に僕は「自分の本当の願い」ってやつを見つけないと死ぬ、とまで断言されてしまった。


 だけど、裏を返せば「1年は何もしない」ということだろう。オルカの言葉を全面的に信頼するなら、だけど。


 風呂から上がり、再び自分の部屋へと戻る。確かにさっきよりさっぱりしたし、少しだけ視界が明るくなったように思う。部屋に入ると、その場にはあまりに不釣り合いなイケメンの自称悪魔がベッドに座っていた。


「おかえり。さっきよりは、まぁマシな顔になったな」


 やっぱり彼にもそう見えるらしい。ベッドから立ち上がり、某お笑いトリオがするみたいに「どうぞどうぞ」と就寝を勧めてきた。それをするなら、熱湯繋がりで入浴前にするべきではないかと、全く意味のない感想が思い浮かんだ。


 何はともあれ、あとは電気を切って寝るだけ。その前に、ドアノブに巻いていたネクタイを取り外した。かなりきつく結んだつもりだったけど、案外あっさりと解けた。


「よし、じゃあ椋介。俺の目を見い」


 ベッドに入った僕に、オルカはそう言ってきた。素直にオルカの目を見つつ、最終確認をする。


「念のために訊きますけど、目が覚めたら地獄ってオチはありませんよね?」

「それはないわ。手続きすっ飛ばして魂持ってったら、それこそ俺の首が飛ぶわ。物理的に」


 なんだか、やっぱり微妙に信用ならない。現実でオルカみたいな人がいれば、とんでもないペテン師だろうな。まかり間違ってそんな人と友達にならないように気を付けよう。そんなことを考えているうちに、どんどん視界が暗くなっていった。自分が眠りに落ちそうになっている、と考える間もなく、僕は何ヶ月ぶりかの深い眠りの底へ落ちていった。


- - -


 夢も見ないほどに深く心地よい暗闇から目を覚ますと、時刻は朝の7時だった。本当に久しぶりに、良く寝たと思える目覚めだった。もしかしたら、昨夜の自殺直前から、全て夢だったのではないかとさえ考え始めたとき。


「おはようさん、よう寝れた?」


 僕がそう考えるタイミングを見計らったかのように、オルカの声が傍から聞こえてきた。首だけ動かして見ると、オルカは学習机に座っている。そして、なぜか手には羽ペンを持ち、インク壺が脇に置いていて、机の上には薄いクリーム色っぽい紙――羊皮紙だろうか――が広げられていた。何か書き物でもしていたらしい。


「おはようございます。何というか……持ち物が古風ですね」

「時代遅れなだけやで」


 起き上がる僕にそう言いつつ、やれやれと言いながらオルカがインク壺に羽ペンを挿して、羊皮紙を丸める。パチン、と指を鳴らすと、瞬きをする間にそれらは机の上から消え失せていた。思わず口がぽかんと開いてしまう。


「魔法だ」

「そら悪魔やから。ささ、起きたからには着替えて、朝ご飯やな。お母さんが台所で朝ご飯作ってはるで」


 「着替える」という言葉を聞いた瞬間、僕の頭には、学校に行っていつものように嬲り者にされるイメージが浮かび上がる。目覚めの気持ち良さは一瞬で消え失せた。


「学校……行きたくないな」


 気付けばそう呟いていた。


「それは、俺に対する願いってことでええんかな?」

「え……あ、そうか」


 寝起きの頭に、昨夜の会話の内容が鮮やかに浮かび上がってきた。


「でも……」

「なんや? どないしたん?」


 その願いは言ってはいけないようなものの気がした。まるで、逃げるみたいで情けないとすら思った。


 僕は再び横になり、布団にくるまった。オルカはしばらく僕の様子を見ていたようだが、優しく諭すように言った。


「言えばええんや。学校に行きたくないて。そう言うてくれれば、俺は願いを叶えられる」

「…………学校に、行きたく、ないです」


 少し迷った。それでも言ったのは、目の前の悪魔が、いまはこの状況をどうにかしてくれる存在に思えたからだ。


「じゃあ、もうちょっと横んなって寝とき」


 オルカはそのまま音もなく姿を消した。


 目を閉じる。自然と部屋の外の音に意識は集中した。外からたまに聞こえる鳥の声。近くの道路を車が横切った。隣の部屋の妹がドアを開けて、廊下をパタパタと歩いていく。


 それがしばらく続いて、気付けば僕の部屋にはオルカが戻ってきていた。


「椋介、もうちょいしたらお前のお母さんが部屋に来る」

「……マジ?」

「マジや。そしたらな、お母さんに素直に言うんや。学校行きたないて」


 結局僕の口から言わなきゃいけないらしい。


「これが今回の代償や。学校に行かなくていい代わりに、自分でお母さんに伝えるんや」

「なんで……」

「そんじゃ、気張りや」


 有無を言わせない口調でそう言い残すと、背後のオルカの気配が消えた感じがした。ここから先は、僕ひとりで頑張れ、ということらしい。そう考えた瞬間、僕は身体が強張っていくのを感じた。嫌な汗が服の中に浮かぶ。かゆいような、熱いような、なんともいえない不快感が押し寄せてきた。


 しばらくすると、母さんがドアをノックした。


「椋介、起きてるの? 早くしないと遅刻するわよ?」


 ドア越しに、すぐにでも言った方がいいことは分かっていた。だけど、声が出ない。言葉が喉元で大渋滞を起こしている。


「椋介? 寝てるの? 入るわよ」


 母さんはドアを開けて部屋に入ってきた。僕は何かから逃げるように、壁を方を向いたまま、一層強く身体を強張らせた。


「椋介、起きてるなら早く準備しなさい」

「母さん」


 ごくりと唾を飲み込む。言うべきことは決まっている。僕は唇をなめて、絞り出すように言った。


「学校に、行きたくない」

「どこか具合でも悪いの?」

「ううん……でも、行きたくないんだ」

「何言ってるの、ダメよそんなワガママ言っちゃ」


 あぁ、やっぱり。僕の心の浮かんだのは、そういった落胆の気持ちだった。


 母さんは、昔からそうだ。学校を休むのは悪いことだ。サボるのは悪いことだ。何があっても絶対に学校へは行け。学校に行かない人はろくな人間にならない。そう言い続けていた母さんが、僕の言葉を聞いてくれるはずがないことは、分かりきっていた。だけど、僕は食い下がった。オルカは、ここで僕が意思を伝えれば、学校に行かなくて済むって言ったから。


「嫌だ、絶対に行きたくない」

「高校生にもなって、そんなワガママ言わないの」


 ワガママ。繰り返されたその言葉に、僕は無性に腹が立った。いつの間にか、緊張は怒りに取って代わられていた。僕はぎゅっと目をつむり、声を張り上げた。


「何も知らないくせに!」


 しばらく、音が消えたような感覚があった。いや、錯覚だろうか。突然の無音はしばらく続き、何とも言えない居心地の悪さをもたらした。しばらくすると、母さんは静かに部屋を出ていった。


 浅い呼吸をしながら、僕はゆっくりと部屋の中を振り返った。誰もいない。瞬きをすると、オルカが部屋の中に立っていた。


「やったな椋介。お母さん、学校に休みの電話してはるで」

「……ホントに?」


 安堵感よりも、どこか信じられない気持ちの方が大きかった。インフルエンザでもなんでもないのに、母さんが学校に欠席の連絡をするというのは、天地がひっくり返っても起きるはずがないと思っていたから。


「朝ごはんも準備しとるみたいやし、下に行ったら?」


 オルカは気楽そうに言うけど、僕はそうもいかない。あんな大声を、母さんに向けて言ったのは初めてだったから、なんだか気まずい。しかし、落ち着いてくると同時に、お腹が空いていることに気付いた。朝、目が覚めて空腹を感じるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。


 部屋を出て、ゆっくりと階段を下りる。下り切ったところで、妹の楓がダイニングの方から歩いてくるのが見えた。


「お兄ちゃん、今日休み?」

「うん、ちょっとね」

「ふぅん」


 楓は真っ直ぐになった黒い髪をいじりながらそう言った。最近、アイロンとかいうものを覚えたらしく、毎朝欠かさず使っている。その真っ直ぐな髪型を見慣れない僕からは、たいへんな違和感なのだけど、今どきの女の子の嗜みらしい。


「そう。じゃ、いってきまーす」


 楓はそれだけ言うと、さっと玄関に向かって行った。うちの妹はとてもあっさりしている。いまはそれがとてもありがたかった。


 ダイニングに入ると、母さんも仕事に向かう準備をしていた。僕を見ると、何か言いたそうに口を開くが、何を言えばいいのか思い至らなかったのか、何も言わずに押し黙ってしまった。


「……朝ごはん、タッパーに白ごはんが入ってるから、温めて食べて。味噌汁と、冷蔵庫にある昨日の残りもあるから。お弁当も作ったけど、お昼にそれを食べなさい」

「……うん」

「それじゃ、いってくるね」


 母さんと僕の会話はそれで終わる。母さんは怒っているというよりも、戸惑っているように見えた。その戸惑った表情のまま、母さんは仕事に向かって行った。


- - -


 朝食を食べ終えると、僕は部屋に戻った。オルカはベッドの上に座って本棚から取り出したのであろう、僕の部屋にある漫画を読んでいた。僕の顔を見ると、少しにやっと笑う。


「どや? 願いを叶えた感想は」

「ほっとしてます」


 僕は素直にそう言った。学校に行かなくていい。たったそれだけのことで、こんなに視界が明るく感じるとは思わなかった。母さんとの微妙な空気はちょっと居心地が悪かったけれど、それでも学校に行かなくてもいいという、その気持ちは大きかった。


 僕は気になっていたことをオルカに訊いてみた。


「そういえば、代償が『母さんに伝えること』って……」

「そうそう、少しそのへんのこと説明しなあかんな」


 オルカは漫画を閉じると、僕とまっすぐに向き合う形に座る位置を変える。


「俺はどんな願いでも叶えられるんやけど、基本的には椋介がそれに応じて『行動する』ちゅう代償がセットになんねん。今回の場合は『お母さんにそれを伝える』。もっと言えば、最初のこの行動をしてもらわんと、俺は願いを叶えるために動けへんねん」

「願いを叶えるために?」

「ま、それは追々分かってくるわ。そん時になって、思い出したら俺に訊いたらええし。なんせまだ1回目や……いや、昨日の夜、叶えたから2回目か。ま、何事も経験や」


 話はそれでお終いらしく、オルカは「これ面白いなぁ」とか言いながら再び漫画を読み始めた。


 なんとなく釈然としない。だけど、追々分かるならそれでいいかと思った僕は、読みかけの文庫本を手に取った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます