僕と悪魔と。

藤野 悠人

プロローグ

僕の名前は秋山椋介。少し都会な街にある、公立高校の2年生。


 今は6月。今日は日曜日。ちょうどさっき、この国で長年愛されている国民的アニメのエンディングテーマが、居間の方から聞こえてきた。いまはそんな時間帯。


 僕の通っている高校の制服はブレザーだ。そんなわけで、僕らはネクタイを着用する。ちょうどいま、そのネクタイをしっかりと固結びにして、ドアノブにひっかけていたところだ。


 明日も学校がある。学校には行きたくない。でも、行かなきゃいけない。それは嫌だ。とても嫌だ。あそこは僕にとって、学び舎とか、友達と話す場所とか、間違っても青春の場なんかじゃない。


 あそこは拷問場だ。拷問場にいる間、僕は人間じゃない。


 一言で言えば、僕はいじめられている。いつから始まったのかは、よく覚えていない。何がきっかけだったのかも、よく分からない。


 ただ、最初はクラス中から無視されることから始まったのは確かだ。突然始まったのだ。あれはよく覚えている。そこから、だんだんと僕の日常は壊れ始めた。


「……よし」


 結び目がしっかりしていることを確認し、誰にともなく呟く。さて、どうやってこのネクタイに頭を通そうかと考えたときだった。


「じゃ、じゃ、じゃーん! みんな呼んだ? 俺やで!」


 やけにハイテンションなくせによく通る男の声が、背後から聞こえてきた。何事かと振り返る。


「あ、もしかしてお取込み中? いやぁ間に合ってよかったよかった、なっはっはっは!」


 部屋の壁から、男の首が生えている。


 誤解のないようにもう一度言っておく。


 壁から、首が、生えている。


 そして、喋っている。


- - -


 そこから何があったのかよく思い出せない。いや、記憶はある。しっかりとある。でも、脈絡がなさする。自分の記憶だとは思えない。


 壁から生えた生首を見た瞬間、僕は悲鳴を上げた。いや、それは正確じゃない。悲鳴を上げようとした。でも、思考と現実があまりにも超展開過ぎて、悲鳴どころか息すらまともに吐けなかった。過呼吸を起こした。


 いつの間にか、若い男が目の前にいた。僕のリュックからコンビニの袋を取り出して、差し出してきた。もう色々無茶苦茶だったけど、ありがたく受け取って、過呼吸が収まるまで大人しくした。


 しばらくして僕が落ち着くと、若い男は唐突に言った。


「喉乾いたわ」


 どういうわけか関西弁だった。


「なぁなぁ、コーラ買うて来てくれへん? 自分チの近所、自販機あるやろ?」


 男から僕の財布を受け取り、家から歩いて十数メートルの自動販売機の前に来た。言われた通り自動販売機でコーラを買った。驚いたことに、絶対に揃うことがないと思っていたゾロ目のルーレットが当たった。数字は555だ。


「……僕もコーラにしよ」


 キンキンに冷えた増量サイズの缶コーラ(赤と青のボールマークが商標のやつ)を2本持ち、再び部屋へと戻る。


「お、おかえり。なんや2本買うたんか?」

「いや、ルーレットが当たって」

「おー、運のええこっちゃ、おめでとさん。1本ちょうだい」

「あ、はい」

「おおきに」


 男はプルタブを開けると、喉を鳴らして一気にあおる。


「はぁ、ええなぁ、美味いわぁ」

「……あの」

「ん、なんや?」

「……どちら様ですか?」

「悪魔」

「は?」

「悪魔や」

「……ふざけてるんですか?」

「違ちゃう違ちゃう、マジや。マジもんの悪魔やで」


 男をまじまじと見る。ようやく僕はその男の容姿をしっかりと確認した。


 まず、何より目を引いたのは、男の顔だ。ものすごい美形である。イケメンの更に上って感じ。テレビの中でしか……いや、俳優やモデルでも、これほど造形の整った顔はそうそう見ない。


 華やかな顔に反して、服装はシンプルなものだった。黒いスキニージーンズと黒い長袖のTシャツ。何より関西弁だ。顔立ちと服装と口調の全てがアンバランスすぎて、それが却って何とも言えない存在感を放っている。


 しかし、僕がいちばん気になったのは。


「全然悪魔っぽくないですね。羽とか尻尾とかないし」

「現代でそんな目立つ格好しても意味ないからな」

「なんですかその意外と合理的な理由。めちゃくちゃ胡散臭いんですけど」

「いやいや、ジブン、よう考えてみ? 普通の人間が壁から首だけ出すかいな」

「出しませんね」

「ほれ見てみい。目の前の現実を……ま、ジブンからしたらすでに相当なファンタジーやろうけど、直視するんや」

「はぁ」


 なんだか諭されてしまった。僕がもっと現実的に考えられる状態なら、この男を即座に不審者認定して110番するところだろう。しかし生憎と、このときの僕には「まとも」に考えるだけの余裕と思考力がさっぱりなくなっていた。


「えっと、念のために訊くんですけど、壁抜け以外で悪魔っぽいことってできますか」

「これとか」


 男が人差し指を立てると、ポッという音を立てて火が灯った。マッチの火のような頼りない、小さな炎がユラユラ揺れている。


「……なんで火の色が黒いんですか?」

「そら悪魔やから」

「いやあの、答えになってないんですけど」

「こんなこともできんで」


 話を聞いてねぇ。


 男は手を広げて、五本の指先すべてに火を灯して見せた。今度は黒い火ではなく、赤、緑、黄色、青、オレンジ、色とりどりの綺麗な火が、それぞれの指先でユラユラと揺れている。


「手品みたいですね」

「一応魔法なんやけどなぁ」


 男が手を軽く払うように振ると、火はあっという間に消えた。


「それで、悪魔が出てきたってことは、命を助けてやるから魂を、なんて取引でも持ちかけるつもりですか?」

「いやそれこれから俺が説明するとこやん! そんでもって半分正解、半分ブッブーッ!」


 男は両腕でバツを作って、梅干しをしこたま口につっこまれたような顔をして見せた。反応に困る。


「なんで悪魔さんそんなにテンション高いんですか」

「平常運転や」


 悪魔を名乗る男はキャスター付きの椅子に座り、人差し指を立てた。


「まず、半分正解ってのは、取引をしようって部分」


 続けて、中指を立てる。ちょうどピースサインをする形になる。


「で、半分間違いってのは、魂を貰うって部分」

「え、悪魔なのに?」


 意外だ。悪魔と言えば命や魂と引き換えに願いを叶えてくれる存在だとばかり思っていた。


「悪魔の取引と言えば魂でしょうに」

「まぁ、150年くらい前やと、そうやったんやけどなぁ」


 男はコーラをあおる。


「ほら最近、ジブンら人間増えすぎやろ? しかも簡単には死なへんし。魂まで取るような大口取引ボンボンやっても、人手……もとい、悪魔手が足りひんのよ」

「悪魔なら人間を殺すのも簡単でしょうに」

「まぁ、そこは色々あるんよ。かと思えば自分ら人間死に過ぎやん? 特にこの国は」

「え?」

「自殺する人間が圧倒的に増えたやん。おかげで寿命リストにない人間がどんどんこっちに来るもんやから、悪魔だけで処理できるかっちゅう話。今じゃ魂は全部死神んトコの管轄やから、うちは一切取り扱っておりません、ハイ」


 さっきの容姿の話といい、いまの話といい、なんだか妙に事務的な話を聴いている気がする。というか、僕がなんとなくイメージしている悪魔像とだいぶかけ離れている。これじゃまるで……そう、命の部分を別の何かに変換したら、そのまま人間社会の仕事の話のように聞こえるじぁないか。


「ひとつ聞きたいんですけど」

「ん?」

「悪魔ってのは、もしかしてそういう職業なんですか?」

「せやで」


 即答されてしまった。


「じゃあ取引って……」


 僕がそう返すと、悪魔は待っていましたと言わんばかりに、ニヤリと笑って見せた。


「ジブンの願い」


 人差し指で僕を指差す。指はほっそりとして、綺麗な形をしていた。


「なんでも叶えたる。ただし、見返りになるようなもんを支払ってもらうで」


 淀みなく放たれたその言葉に、僕は困惑してしまう。


 願いが叶う? なんでも? なんだそれは。マルチ商法の勧誘よりも怪しいぞ。


「ま、条件付きやけどな。叶える度たんびに代償はあるし、人殺しはできひんし、人の心を操るのも不可。願いは1日につきひとつで、俺がお前に憑くのも時間制限付きや」

「時間制限?」

「俺と取引した場合、俺がお前に憑いている期間は1年。1年以内に、お前はなんで俺がお前の前に現れたのか、そして自分のほんまの願いはなんなのか、知らんとあかんねん」

「……もし、それが見つからなかったら?」

「死ぬ」


 死ぬ。


 今度こそはっきり言われた。口調は相変わらず軽いが、悪魔の目は全く笑っていない。


「……その、支払うものって、お金とか?」

「悪魔にあんな紙切れやコインは不要。人間の感覚は理解できひんわ。あんな食えもせんもん貯め込んで、何が楽しいのかサッパリや」

「もし、取引を断ったら?」

「何にも。俺は姿を消して一生現れん。お前は自殺にリトライするもよし、イジメに耐え忍ぶ青春を謳歌するもよし、好きなようにしたらええ」


 選ぶのは自分自身やで。悪魔は締めくくり、コーラを一気に飲み干した。


 僕は少し考えた。悪魔と取引をする。いわゆる「悪魔に魂を売る」ってやつだろう。普通に考えたら、絶対にすべきでない行為だ。だいたい、代償を毎回払っていたら、いつかは本当に魂を持っていかれかねない。


 それに、時間制限もそうだ。もしも1年で悪魔の言う条件を達成できなかったら?


 しかし、死のうとした勢いなのか、この非現実的な状況のせいなのか、僕の頭は考えることを放棄して、「もうどうにでもなればいい」という投げ遣りな感情が支配的だった。


「悪魔さん」


 そして、投げ遣りなままに、僕は決断した。


「なんて呼べばいいですか?」

「え?」

「名前はなんていうんですか?」

「いや、別になんでもええけど……まぁ、そやな……オルカ、とでも呼び」


 この日、僕は悪魔と取引をした。

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