正機

迷路のような廊下を走り抜け、亜礼は少年の元へ向かった。

少年は相変わらずそこにいた。仕事でもして来たのか、どことなく疲れた風に座っている。

「ねえ」

息を切らしながら呼び掛けると、少年は胡乱な目で亜礼を見た。

「なに、無事に殺せたの?」

違うーーと言うのももどかしく、少年にしがみつくように倒れ込む。ぎょっとしたように少年は身を強張らせた。

「お前ーーなんなの。離せよ」

「ねえ、予備警察ってなに。俺に何を隠してんの」

お前何言ってんの、と少年は狼狽した風だった。亜礼は堪らずに喋り出した。今日あったこと、全部を。

「俺ーー俺、どうすれば良かったんだろう。ねえ、皆、傷つけちゃった」

俺、下町の子どもたちを助けたいって思ってた、と亜礼は呟く。

「お前は信じないかも知れないけど、それは本当だから。なのに、俺が殺した」

それで目が覚めた、と亜礼は少年を見据えた。

今まで見たこともないほどに強い意志を宿す目を見て、少年は怯む。それを隠そうとして、堪らずに目を逸らした。

「俺、お前に伝えないといけないことがある」

たぶん、あんまり聞きたいことではないだろうけど、と前置きして亜礼は言った。



「お前の父親を殺したのは、下町の人じゃない」



ーーうるさい。



反射的に両手で耳を塞いで、自由な足でしがみついている亜礼を蹴り飛ばす。



亜礼は今度はちゃんと受け身を取った。素早く立ち上がって、少年の腕を掴む。

「離せよ!離せッ」

お前の言うことなんて聞きたくない、と少年は暴れた。それでも亜礼は腕を離さない。よく聞け、と亜礼は怒鳴るような大声で言った。

「お前が逃げたいんなら俺は言わない。父親が誰に殺されたのか知りたくないなら、別にそれでも良い」

もう、いっぱいいっぱいならそれで良い、と慰めるように言う。何様だよ、と震える声で少年は呟いた。亜礼は一瞬黙る。それから自嘲するように笑みを浮かべた。

「まあでも、俺は聞いて欲しいかな。自己中だから、あんたが苦しむことになっても別に、それでも良い」

恨む相手を間違うなんて、それこそ悲惨だろう、と亜礼は囁くように言った。


亜礼が真に恨んでいたのは、何も守れない弱い自分であり、奪われたから、なんて幼稚な理由で他人を傷つけた自分であり、子どもを殺してしまった自分であり、自分が悪いことをした自覚の無かった自分だった。

「お前、ずいぶん大きな口叩いてただろ。俺がただの屑だってーー否定はしないけど、知る機会をわざと捨てるのって屑じゃないの?」

違う?と畳み掛けるように訊かれて、諦めたように少年は、耳を塞いでいた両手を下ろした。

「お前は、何がしたいんだ」

急に押しかけてきて、俺にこんなこと言って、何が目的だ、と少年は力ない声で問う。

「辞職かな」

亜礼は戯けたように笑う。亜礼の左腕に腕章が無いことを、少年は今気づいた。

「辞めてどうする。今更下町に戻るのか」

「うーん、下町の人たちには会いたくないかな。顔向け出来ない」

それに、大人しく辞職させてくれるとは思ってない、と亜礼は言った。

「逃亡か。俺にそれを手伝って欲しいのか」

少年がそう訊くと、亜礼はいや、と首を振った。

「詳しい話は、お前が聞くか聞かないか決めてから。で、どうするの?」

聞く覚悟は、と問われて、少年はため息をついた。

「ーー出来てない。でも、聞く」

亜礼は満足そうに、話を信じるか信じないかはご自由に、と笑った。



「まず、お前の父親殺しの犯人は、下町の人じゃあり得ないんだ。根拠だってある」

少年は一瞬、固く目を瞑った。これまで、予備警察でやってきた任務が思い浮かぶ。亜礼の話の内容によっては、それは復讐ではなくただの虐殺になるのだろう。

ーー覚悟は、出来てない。

堪らなく怖い。自分が本当に、ただの人殺しになりそうなのだ。怖くて怖くて、でも聞かないときっと、父さんは怒るんだろうな、と少年は思った。

加藤は、これからも犠牲が生まれる、と言った。下町の人々の為に活動していた人も、見境なく殺される。それは嫌だろう、と言われた。

嫌だった。初めて人を殺した時は、それでもやはり吐いて、苦しんだ。何人も殺した悪人だったと加藤は言うが、それでも人殺しは気分が悪くなる。でも、父さんもきっと喜んでいる、と加藤に言われた時、それも治った。


ーー馬鹿だろう。父さんが、人殺しを喜ぶわけないのに。


今、ツケが回ってきたんだな、と少年は悟る。逃げ回っていて、とうとう亜礼に捕まえられた。最初は、人を傷つけるのに何も悪いと思っていない、下町の典型的な下衆だと思っていた。でも亜礼は結局、抜け出したのだ。少年が未だ抜け出せない呪縛から。


ーー荒療治だ。


復讐から抜け出す為の。


少年はゆっくり目を開いて、亜礼の次の言葉を待った。

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