善人

離せよ、と散々に喚いた。それでも加藤は離さなかった。無言で亜礼を引きずっていく。火薬屋の家の焼け跡は、どんどん遠のいていった。

加藤は駄目だ、と悟って、今度は傍を歩いていた井上に矛先を向けた。

「ねえ!あんたも気づいたんだろ!あれ、誰なんだよ!」

誰が死んだんだよ、と叫ぶ亜礼を井上は一瞬見た。強張って、氷のような薄い膜が目を覆っているように見えた。拒絶されたのだ。亜礼は息を呑んで、押し黙った。


誰にも、亜礼の疑問に答える気は無いのだ。どこまでが計算の内だったのだろう?最初から、亜礼を焚きつけて火薬屋じゃない誰かを殺させようとしていたのだろうか。それとも、見せしめになるのなら誰でも良かったのだろうか。火薬屋が殺せれば御の字、火薬屋じゃなかったとしても、テロに関わればああなると、火薬屋に悟らせれば良かったのだろうか。だったとしてもーー子どもを殺すなんて。


だが、殺したのは亜礼だった。加藤の口車に乗せられ、流されるままに殺したのは亜礼だ。加藤たちを責める資格は、亜礼には無かった。


大人しく引きずられるまま、上に行くエレベーターに乗り込む。このまま寮に帰れ、と言葉少なに命令された。反抗する気も起きずに黙っていると、加藤が口を開いた。

「まさか、このくらいでショックを受けてるのか?」

弾かれたように顔を上げた亜礼を、まるで軽蔑しているかのような目で、加藤は見てきた。

「下町の人間に情けは要らない。お前も、予備警察になったんなら弁えろ」

分かったな、と加藤は言った。ちょうどその時、寮のある階に到着した。

「同じーー人なのに?」

亜礼が震える声で訊ねると、加藤は心外そうに言った。

「上と下町は違うだろ」

それから、と加藤は急に笑った。

「お前だって、同じ"人間"を殺したり、火をつけたりしたんじゃないのか?今更忘れたとか言うなよ」

今日は帰ってゆっくり寝ろ、と優しい口調で言って、加藤は亜礼をエレベーターから押し出した。閉まっていくドアを、亜礼は呆然として見つめていた。



上と、下町は違う?


理不尽に亜礼に殺されたあの子は、少年の父親や井上の奥さんと、何が違うのだろう。



そう思った途端、急に悟った。


どうして少年が、あんなことを言ったのか。やっと気づいて、気づいた途端に体中の力が抜けて頽れそうになった。



亜礼が憎んだあのテロリストたちは、亜礼の母を奪った。しかも、朔弥を傷つけたのかもしれない。あのテロで、亜礼は多くを失った。奪ったテロリストたちに復讐をしようとした。ーーそれで?

彼らを傷つけることは、亜礼の中では正しいことだった。殺されても少しも同情はしないし、下町の為に行動を起こしたということを褒める気なんて毛頭無い。殺されて当たり前、復讐されて当たり前、亜礼の中では彼らは同じ人間では無かった。亜礼の中では一貫して、亜礼こそが被害者だった。自分が罪人だなんて、思ったことなど無かった。


そう、自分の犯した罪を自覚しない、善人として生きていたのだ。自分は悪くない。先に奪った相手が悪い。やり返すのは当たり前で、傷つけた相手に対する責任なんてこれっぽっちも感じていない。ずいぶん身勝手な奴だ。自己中で、他人の思いも理解しようとしない、最低な奴だ。


震える手を掲げ、亜礼は腕章を外した。


亜礼が多くを失ったあのテロに関わっていたから、だから火薬屋を殺そうとした。結果的に、見ず知らずの、そして恐らくテロには無関係だった子どもを殺してしまった。下町で、理不尽に死んでいく子どもたちを救いたいと、そう思っていたのに。ようやく亜礼は、自分のしていることが理解できた。


奪われたからといって、人を傷つけて良いだなんて道理があるわけがなかった。傷つけたら、その分罪を背負わなくてはいけない。自分のしたことに責任を負わなくてはいけない。簡単なことなのに、取り返しのつかないことをしてやっと分かった。



外した腕章は、ポケットに捩込んだ。まだ間に合うのだろうかーーいやもうきっと、遅いのだろう。でも今から、亜礼は罪の精算をしなくてはならなかった。駄々っ子のように、自分のことしか考えずにいた亜礼が踏み躙ってしまったものを、直したかった。


駆け出しながら、不意に彼のことを思い出した。

鉄骨運びでよく亜礼と一緒に働いていた、と言ったあのお人好し。

何を思って死んだのだろう。能天気に、救ってみせる、と言った彼は。

今でも、許せたわけでは無い。だけど、復讐されて当たり前だとはもう、思わなかった。


ーーごめんなさい。


亜礼はようやく、そう思うことができた。

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