殺人

もやもやした気分のまま、加藤に言われた実行の日がやってきた。

少年はあれから姿を見ない。下町の人に殺されたという父を持つ少年ーーあの話には違和感があったが、亜礼はそれを深くは考えていなかった。

ただ、気の毒だなぁ、と思う。亜礼の父親とは違って、少年の父親は良い人だったのだろう。そんな人が亡くなったら、そりゃ悲しいだろう。亜礼だって、朔弥が死んでしまったらきっと悲しい。殺されたなら怒る。

ーーそして?

亜礼はぼんやり思った。そして俺はまた、朔弥を奪った奴に火をつけるのだろうか。

のろのろと首を振った。余計なことは考えない。考えなくて良い。俺はただ、命じられたことをやれば良い。そうすれば、復讐できる。

誰のために、という疑問が浮かんだ。復讐は、誰のためだろう。あの5人はもういない。爆弾を売ったという火薬屋までやる必要がどこにある。

くそ、と亜礼は毒づいた。あの少年が余計なことを言うから、亜礼までおかしくなる。緊張しているだけだ、と思うことにした。昨晩加藤から渡されたライターは、ポケットの中でずしりと重かった。火力はかなり高いから、注意してね、と加藤はいつものように笑っていたことを思い出す。


「アレイ、時間だ」

加藤は足早にやってきてそう言った。黄色の腕章を丁寧に左腕につけ、亜礼は頷いた。

「久しぶりの下町か。郷愁を感じる?」

「まさか」

亜礼は素っ気なく答えた。加藤は肩をすくめて笑う。

「ちなみに、火をつける時は近くに人がいないか見て。予備警察の警官はたぶんかなり怯えるから」

「ホントに火を見たことないの?」

「まあ」

ちょっとおかしくなって笑った。下町の人が怖がる予備警察が、火を怖がっているのが変な感じに思える。火事なんて、下町では日常茶飯事だ。

「早く行こう。待たせている」

再び加藤が歩き出す。小走りについて行きながら、これから俺は人を殺そうとしているのか、と妙に冷めた気分で思った。



久しぶりの下町は、ずいぶんごちゃごちゃとしていた。

思わず顔を顰めた。臭い。空気の中に、なんだかよく分からない腐臭のようなものが混じっている。下町にいた時は全く気にならなかったのに。

「こっちだ」

加藤が先導して歩く。5人いて、ほとんどが知らない顔だったが、1人は班長の井上だった。

ぐねぐねと、細くて歩きにくい道を歩いて30分ほどで加藤は足を止めた。

「あのビルだ」

加藤が示した先には古びたビルがあった。人が住んでいるようにはとても見えないーーと思って、亜礼は苦笑した。下町の人が住む下層階なんて、どこもあんな感じだった。


まず、1人が近づいて中にいるかどうかを確かめた。窓は曇りガラスなのか、それとも汚れのせいか、中が全く見えない。窓にぴたりと耳を当て、いる、という風に頷く。割と適当なんだな、と亜礼は呆れた。

次いで行われたのは、灯油を撒くことだった。びしゃびしゃと部屋の周りに灯油を撒いている様子を、加藤とともに見物する。加藤は動かないのか、と横目で見ると、へらっと笑ってきた。

「緊張してる?」

「まさか」

「ま、だよね」

たかが犯罪者1人を殺すだけだ、と加藤は言った。どこか引っかかって、でも亜礼は黙って頷いた。

粛々と、というのはおかしいのかもしれなかったが、取り立てて何も起こらずに事は進んでいった。

加藤に言われた通り、予備警察が十分離れたところで亜礼はライターを取り出した。


この部屋の中に、人がいる。


ーー亜礼は、躊躇わずライターを部屋に向けて近づけた。

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