腕章はずしりと重い。加藤に連れられている間、亜礼は手の震えを止めようと必死だった。


ひどい裏切りをした気分だった。下町にはもう、帰れない。子どもなりに、慣れ親しんだ場所から離れる覚悟を決めた。朔弥とも、もう会えない。切ない思いに胸が詰まったが、後悔はしなかった。誰かが、朔弥を、亜礼のような子どもを、救わなければならなかった。


加藤はいたって平静な様子で、上の階に通じるエレベーターへ向かった。亜礼は不安に思った。下町の自分が上に行けるのだろうか、と。あるいは期待していたのかもしれないーー予備警察になるのは、やはり無理だと言われたかったのかもしれなかった。

でも、いともあっさり乗り込めた。黄色の腕章を示せば、特に何も起こらずに乗れてしまった。引き返せないと、悟った。


「私は予備警察の中でもそれなりの地位がある」

加藤は唐突にそう言った。

「だから君を予備警察にできたわけだが、中にはーーというか、大体が良くは思わないだろう。でも、何かされそうになったら私の名前を出せば良い」

予備警察はなかなかにやばい奴ばかりだからね、と加藤は茶目っ気たっぷりに笑う。亜礼はそれどころじゃない。腕章を持つ腕がどうにも震えて、さっきから止まらないのだ。

加藤はそれに気づいたのか、亜礼が握る腕章を手に取った。

「つけてあげよう。左腕、出して」

亜礼が左腕を出すと、加藤は慣れた手つきで腕章をつけてくれた。服の布地越しに、腕章が熱を持っているかのように肌を焦がしている気がする。

「もう君は覚悟を決めたんだ。開き直って構えれば良い」

加藤はそう言って亜礼から視線を外す。亜礼の震えはようやく収まった。でも、胸には何かーー重いものが沈んでいるような、そんな気がした。これはきっと、一生沈んだままなのだろう。



エレベーターは、80、という表示で止まった。亜礼はその数字を現実味なく見る。いつも亜礼たちを怯えさせた予備警察は、80階もの高みにいたのだ。

「班の奴らに会わせてあげよう。礼儀なんか欠片もないけど、君くらいの年の子もいる」

いるんだ、と密かに驚いた。でもそれよりも、エレベーターを出てからの景色に目を奪われた。


綺麗、だった。窓ガラスは欠けたところは一つもなく、床も壁も天井も、染み一つなく清潔に保たれている。下町では電気代を惜しんであまり使われない電灯も、煌々と輝いていた。外には整然と建ち並ぶビル群が見える。あまりの高さに一瞬目が眩んだ。下町のごみごみとしたあの風景は、どうやっても見て取れなかった。

「驚いたかい」

加藤が微笑を浮かべて言う。驚いた、と言うのも癪で黙っていた。

「ここでもまだ低い方だ。上を覗いてご覧」

言われて、亜礼は窓に近づいて上を覗き込んだ。天を突くほどに長く、灰色のビルが伸びている。ビルとビルの間には橋のようなものが渡され、人々が盛んに往き来していた。その隙間を縫うように、箱型の、乗り物らしきものが飛んでいる。

驚きを通り越して呆れた。ここまで差があろうとは。いつもただ見上げていた空に、こんな光景が広がっていたなんて。下町の誰も、きっと想像もできないだろう。

加藤は黙って待っていた。亜礼はじっと窓の外を見た後、加藤の方を振り返る。

「これが、下町の人たちが頑張って作ってるものだったの?」

「まぁーー下町の犠牲あってこそだな」

でも、そこらに歩いている奴らはそんなこと忘れて生きている、と加藤は言う。

「それでも後悔しないのか」

亜礼は迷わず頷いた。

「それとこれとは、別の話だから」

テロリストを正当化する理由にはならない、と亜礼は断言する。加藤は少し、呆気に取られたように見えた。そしてすぐ、愉快そうに笑う。

「しっかりしてるな、気に入った」

加藤はそう言って歩き出す。後をついて歩きながら、亜礼自身、外の光景に対しなんの激情も抱かなかったことに驚いていた。亜礼が必死に働いた分を、勝手に吸い取られているというのに、それを目の当たりにしても心は動かない。


亜礼の欠陥は、修正できないところまで来ていたのかもしれなかった。

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