腕章

亜礼にーー下町の人間にとってそれは、恐怖と絶望の象徴だった。


毒々しいほど、闇にも浮かび上がるその黄色の腕章は、今だけは亜礼にとってただの布だった。死んでも良い、と思っていれば大して怖くはない。男の方も、別に怖がらせるつもりもなかったのか、すぐ手を下ろした。

加藤かとうという。君は」

ずいぶん妙な人だと思った。予備警察の人間が、逮捕の前に自己紹介をするなんて初耳だ。

「…亜礼」

「アレイか。そうーー君、あれだろ、盗難事件の犯人だよな」

知ってる、と笑顔で言われて亜礼は呆然とした。

ーー知ってる?

あれは、予備警察に知られていたのか。

混乱する心中を察したのかなんなのか、加藤と名乗った男はそのまま話し続ける。

「いやね、証拠はなかったけどちょっと考えれば分かるさ。盗難があった後は君たちずいぶん余裕があったみたいだし」

君たちーーということは、朔弥のことまでばれてるのか。

諦めと、虚無感のようなものが胸に押し寄せてくる。所詮は子どもの浅知恵だと、そう突きつけられた気がした。


「感心してるんだよ。上手くやってたみたいだし」

へらへらと読めない顔で加藤は笑う。自分が撃った男たちの死体をわざわざ踏みつけにしながらこちらへ近づいてきた。

ずい、と近づいてきて亜礼は思わず顔を背ける。この男の顔は見ていたくなかった。ぬらぬらと底光りしている目で、亜礼を舐め回すように見ているのが感じられる。

「君は、テロリストが憎いかな?」

怖かった。なにより、この男が怖い。予備警察だとか、そんなの関係なく、危険な人物だと本能で察する。

それでも半ば意地で亜礼は頷いた。膝が震えそうなのを、気力を総動員して抑え込む。

「…憎い。憎いよ」

奪うだけの無能だから、と亜礼は震える声で言った。

この状況のなにもかもが疎ましい。最後まで亜礼の思い通りには進まなかった。加藤は相変わらず読めない顔で亜礼を見つめ続けるし、どうしても声が震えてしまうのが忌々しい。亜礼はどこまでも弱い存在で、ちっぽけなただの子どもなのだと、嫌でも分かってしまう。


かっこ悪いな、と思った。どうしようもないほどかっこ悪い。そうやって死んでいくしかない、下町の典型的な人間だ。

でも加藤は、いくら待っても亜礼を連行しようとしたり、撃ち殺そうとはしなかった。好奇心を剥き出しにしてただただ眺め続けている。

「ーー詮索するつもりはないけど、アレイはずいぶん変わってるんだね」

この生活を変えたいとは思わないの、と加藤は問う。

「思いはするけどーーめちゃくちゃにされるのは嫌だ」

テロリストが馬鹿ばっかりなせいで困る、と呟いた。

「俺のお母さんを奪ったーー許さない」

そっか、と加藤は納得したように頷く。加藤は少し考えるような素振りを見せた後、急に笑みを浮かべた。

「良いことを思いついた」

胡散臭い笑みに亜礼が胡乱な目を向けると、加藤はとんでもないことを口にした。


「君も、予備警察になれば良い」


は、と亜礼は瞠目した。加藤はなおも笑いながら一人で頷いている。

「テロリストを憎むーーまさしく、予備警察に必要な要素だよ」

そんな馬鹿な、と笑えば良いのか迷った。下町の人間が予備警察なんて馬鹿げてる。それに、亜礼はまだ子どもだ。何を言ってるんだ、という目で見れば、加藤はさも当たり前のように喋り続ける。

「別に良いと思うけど。どうせ、死ぬつもりだったんでしょ。ーーこんなことで死ぬなんて勿体ないよ。せっかく命があるんだから」

五人もの人間を撃ち殺した男が口にするには、どうにも妙な感じがした。亜礼はあまりのことに何をどう言えば良いのか分からない。

「予備警察になるなら今回のことは不問に処す。良い条件じゃない?」

「でも俺はーー下町の人間で」

「君はそんなに下町が大事?何か与えてくれたわけ?ーー違うだろう。大丈夫、私が面倒を見よう。テロリストを消したいだろう?」

亜礼は怯んだ。なんで、と口を動かすあの男の顔がちらついた。あいつはもう、この世にいない。なら、亜礼の復讐はもう完結しているーーはずだ。

「テロリストたちは、この先も下町の人々を危険に晒すだろう。そうーー朔弥という子どもが、爆発に巻き込まれて重傷を負ったとか」

全身の毛が逆立った。はっとして加藤の顔を見遣ると、加藤は真剣な面持ちで囁くように言った。

「そんな子どもを救いたくはないかい?テロは、下町の人間にも上の階の人間にも同様に被害を及ぼすんだ」

亜礼の心が、少し動く。鼓動が信じられないほど大きな音で鳴っていた。朔弥が、とそれだけで頭が一杯になる。嘘かもしれない、とは思ったーーでもいつか、それが本当になってしまったら。

無意識のうちに、拳を強く握りしめた。許せない、と胸を焦がすような強い思いが押し寄せてくる。


「それーー欲しい」


亜礼が黄色の腕章を示すと、加藤はゆっくり笑った。


「歓迎するよ」

そう言って渡された腕章は、しっとりと重かった。血で湿っていると、亜礼は遅れて気がついた。


「生きがいを与えてあげる。ーーテロリストを、殲滅しろ」

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