ガソリンは、工事現場の近くの倉庫に置いてある。

至る所が工事現場の下町ではそういった倉庫はすぐ見つかったが、頑丈な鍵が掛けられている。テロ防止の為だろう。

でも、亜礼はまだ子どもだった。小さくて華奢な体は大人には通れない隙間を容易にすり抜ける。しかも、亜礼は関節を外すことができた。いざとなった時のために習得した技術だったが、こんなところで役立つとは思わなかった。


風通し用なのか、高い位置に小さく開いていた小窓から亜礼は倉庫の中に入り込んだ。なんのとっかかりもないパイプをよじ登って小窓にたどり着き、流石に少し息は荒い。

ポリタンクを一つだけ持ってみた。重い。ほとんど持ち上げられず、引きずるようにして持ち出した。


地下へ行くには、マンホールを降りれば良い。わざと蓋が外れているマンホールが何箇所かあった。予備警察から逃げられるようにと親切な誰かがわざわざ開けてくれたのだ。亜礼もその場所を把握している。一番近くのマンホールから、ポリタンクを引きずりつつ地下へ降りた。



湿気と、ふんわりとした水の腐臭が漂ってくる。

水は淀んでいる。下水道だから当たり前だ。上の階の人々は使わなくなって久しい。歩けないほど汚くはないのは救いだった。

ずりずり、ポリタンクを引きずる音だけが反響する。テロリストたちが下水道にいる保証はなかった。いたとして、会える確率なんてほぼないに等しかった。

でも、会える確信があった。俺なら、絶対に会える。どこかにカミサマが本当にいたとして、これで会わせないなんてずいぶんな仕打ちだと思った。

一生に一度の慈悲をたれてくれるなら、どうか、今にして下さい。


いつになく真剣に祈ったからか、それともただの偶然か、30分ほど歩き回ったところで前方からぼそぼそとした話し声が聞こえてきた。

ーーいた。

ビンゴ、と思わず叫びそうになる。ポリタンクを引きずる手に力がこもった。


テロリストたちは輪になって座り込んでいた。憔悴しきった顔で力ない声で話している。どうやら、その中の一人が怪我をしていて動けないようだった。特に憐れみは感じない。ただ、あのお人好しは怪我をした仲間を見捨てて逃げるなんてできないだろうなと、ふと思った。

好都合、というわけだ。なんの躊躇も感じない。そんな自分はひょっとしたら人として間違えているのかもしれないけれど、どうでも良かった。

いやーー唯一、朔弥の顔が浮かんだけれど、頭を振って追い払った。朔弥のことも、もう忘れてしまえば良かった。簡単なことだ。燃やしてしまえば、全て忘れる。



亜礼はポリタンクを掲げた。重さにふらつきながら、じりじりテロリストたちに近づいてゆく。テロリストたちが灯している懐中電灯の光が逆に周囲の闇を深めて、亜礼には気づかない。気づく気力もなさそうだった。男たちの顔には、深い疲労と虚脱感と、失敗したという無力感に満ちていた。


そんなことするからだ、馬鹿。そう叫んでやりたかった。その代わり、思い切りポリタンクの中身をぶちまけた。


ぶわっとガソリン特有の臭いが広がる。座っていた男たちはざわめいて立ち上がった。感心なことに、怪我した男を囲うように守っている。亜礼は素早く暗闇の中へ引っ込んで、自分にガソリンが掛かっていないことを確かめてからライターを取り出した。

男たちの大半には、大なり小なりガソリンが掛かっている。掛かっていなくたって構わない。こんなことを起こしたからだと、後悔させられるような体験さえさせられれば。亜礼はそれを終えたら死ねる。ライターをぎゅっと握りしめて、そして火をつけた。


淡い光がゆらゆら揺れる。火というのは、人を惹きつけると亜礼は思う。畏怖され、同時に惹きつけられるからこそ、古来より信仰の対象になり得るのだ、と誰かが小難しいことを言っていた。


亜礼にとっても、火は象徴だった。暴力と恐怖と、痛みの象徴。ライターを持つ手が微かに震えていた。テロリストたちはひそひそと話し合っている。場所を移そう、という言葉が聞こえて、亜礼は咄嗟に服の布をびりびりと裂いてライターの火をつけた。


布はわりとすぐに燃えた。指先まで焦がしてしまう。男たちにできるだけ近づいて、そして火のついた布を放った。


その瞬間は、スローモーションだった。ひらひらと布が翻ってーー途中で火が消えなかったのは幸か不幸かーーそしてガソリンで濡れそぼった地面に落ちた。


ぶわっと、炎が広がった。湿気のせいですぐ消えるかもと危惧していたが、杞憂だった。火は地面を舐めるように広がっていって、なにが起こったのか分からないという顔の男たちに容赦なく襲いかかった。


一拍遅れて、絶叫が響く。ガソリンのおかげで炎の勢いは一向に衰えない。亜礼は真っ青な顔に満足げな笑みを浮かべて、その場を立ち去ろうとした。


炎に包まれている、あのお人好しと目が合った時も、特になにも思わなかった。

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