喪失

亜礼の父親は、暴力を振るった。

よくある話だ。酔っ払ってても酔っ払ってなくても、気に食わないからと暴力を振る。亜礼も佳代も痣だらけだった。何日か父親がいなくなると、ホッとした。佳代もその日だけは亜礼と口を利いてくれた。


亜礼の世界は佳代が中心だった。佳代の為、佳代を守るため、守らなくては、と思っていた。父親の暴力から、佳代だけはなんとしても守りたかった。亜礼の生きがいは、いつのまにかそうなっていた。佳代の為を思って、こんな不平等で地獄みたいな世界を生きようと決めていた。


でもーーいつだったろう。そう昔のことではない。


父親は泥酔していた。ひどく機嫌が悪くて、亜礼は佳代と身を寄せ合って部屋の隅で隠れていた。

きっと今日も、暴力を振るうのだろう。半ば諦め、亜礼は佳代を守るべく、佳代の前に屈んだ。

佳代はぶるぶる震えていた。亜礼の手も震えていた。必死で止めようとした。佳代も怯えてしまうと思って、笑おうとした。

でもその前に、父親が捕まえにきた。亜礼の腕を掴んで、ずるずると引きずって行く。佳代の怯えた目が遠ざかってゆく。亜礼は抵抗せず、父の機嫌を損ねないようにと大人しくしていたが、それを見たときは思わず逃げ出そうとしてしまった。


ーー火。


父は、火のついたライターを片手に、亜礼に向かってポリタンクに入った液体を掛けようとしてきた。


むっとするような臭い液体の正体を悟って、亜礼は後ずさりする。


ポリタンクの中身は、ガソリンだった。


どうやって手に入れたのか分からない。どこからかくすねてきたのか。でも、その時はそんな疑問なんて考える余裕もなく、亜礼はただただ、どうやって逃げようか必死に考えていた。


亜礼は父と睨み合ったまま動けない。下手に動けば殺される。そんな雰囲気だった。


「お前がーー」

お前さえ、いなければ。


父は、ぞっとするほど平淡な声でそう、囁くように言った。


亜礼はそれを聞いてーーああ、と納得したような、憑き物が落ちたような思いがした。




ずっと、亜礼を憎んでいたんだ。父は、亜礼のことを息子だと思っていない。殴って、蹴って、それでも亜礼は"父親"だから我慢していたのに。




なんだ、と思った。失望、とでも言うのだろうか。所詮ーー親子なんてそんなものなのだ。ただ、偶然そうなってしまっただけの、他人なのだ。


だから、今まで張り詰めていた糸が切れたってーーそう、反抗したってなんの引け目も感じなくても良い、はずだ。


亜礼は逃げ出そうと踏み出しかけた足を止め、父親ーー男に、向き直った。

なんでもかんでも俺に依存するな、俺の稼ぎを食い潰すな、生意気だ、なんで生まれたんだーーと散々に喚きながら、男は亜礼の腕にガソリンをかけてきた。

悪臭が立ち上る。ひっと、誰かの声がした。

振り返ると、佳代が座り込んでいた。気になってやってきたのかーー今は恐怖で腰が抜けてしまっている。亜礼が一瞬佳代に気を取られ、その隙に男がライターを亜礼に近づけた。


熱い、と思った。そりゃそうだ、と理性が反論する。燃えてんだから、熱いに決まってんだろ。


男は気が狂ったようにひいひい笑っていて、佳代は気を失って倒れている。亜礼は燃える腕を見つめていた。


ーー消さないと。


ようやくそのことに思い至って、そして台所に駆け込んで蛇口を勢いよく捻る。

錆混じりの水で腕を包む火を消すと、火傷した皮膚がべろんとめくれて信じられないような痛さだった。呻きながら、亜礼は泣いた。痛い、痛いと繰り返し繰り返し、掠れ声で言う。


殺意、と言っていいのか、それは自然に湧いてきた。ふと空腹に気がついて、なにか食べたいな、と思う時と同じくらいに自然だった。


自然と、台所にあった包丁を掴んで、そして狂ったように笑う男の背中に突き刺した。


男は目を見開いて、亜礼と自分の背中に刺さった包丁を見比べた。そのまま白目を剥いて、膝から頽れる。


「なんでーー」


呻くように、僅かにそう言った男の顔を踏みつけ、亜礼は「自業自得だろ」と言い放った。

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