依存

一瞬、どうすれば良いのか分からなかった。


瞬きする間に大量の記憶が溢れてくる。一つ一つを認識する間もないほど、大量の。亜礼は混乱して、でも佳代を連れて火から逃げなければ、という気持ちは変わらなかった。


どんどんと、誰かが扉を叩いている。亜礼は焦って、佳代を廊下に引きずりながら叫んだ。


「開けていいから!」


一呼吸置いて、扉が蹴破られた。男が必死の形相で立っている。

「逃げろ坊主!もう隣のビルも延焼してる」

一階上の部屋の住人だった。時々廊下で会う。おかずを分けてくれたり、よく気を遣ってくれる親切な人だ、と亜礼は思い出した。

「煙に巻かれるぞ!」

男はそう叫んだ後、訝しげに眉をひそめた。

「坊主、なにを引きずってーー」

言いかけ、男は絶句した。亜礼はああ、と引きずっている佳代の方をちらりと見やる。


「お母さん。なかなか起きないからーー手伝ってくれない?」


引きずるの、と亜礼は微笑んで言った。男は暫く目を見開いて突っ立った後、靴のままずかすがと部屋に上がりこんできた。


なんだ、と思ったら急に引っ張られた。反動で佳代から手を離してしまい、ごん、と佳代の頭が床に打ちつけられる。


なにするんだ、と文句を言おうと口を開いたが、なにも言えずに閉じた。男はとてもーー怖いような、怒っているような、悲しんでいるような、そんな表情を浮かべていた。


「なに?なんなの?」

亜礼はうっすら怖くなって、そう訊いた。大人がこんな顔をするなんて、なんだか不安だった。嫌なことが、起こりそうだった。なにを言われるのかーーひょっとしたら、亜礼はもう気づいていたのかもしれない。耳を塞ぎたかったけれど、男が腕を掴んでいて無理だった。




「坊主、お母さんはーー」


もう、亡くなってる。




亜礼は魅入られたように、男の顔を見つめる。男は痛ましそうに一瞬目を瞑った後、意を決したように言った。


「逃げるぞ、一緒に」


亜礼は抱え上げられ、一拍置いて絶叫した。


「やめろ降ろせ!降ろせ!お母さんがッ」

お母さんが、と廊下に横たわる佳代に手を伸ばす。ぽっかりと空いた目が、亜礼を見つめ返している。

「お母さんは生きてる!ちゃんとご飯だって食べてたし、寝返りだって打ってたしーー」

だから生きてるんだってば、と男の背中を殴った。男は無言で亜礼を抱えて走っている。


どうして気づかなかったのだろう。遠のく亜礼と佳代の部屋には、蠅がたくさんたかっている。腐臭も酷かった。煙に巻かれようとしているのに、佳代はぴくりとも動かず亜礼を見つめ続けている。佳代が動いたのを最後に見た日はいつだったろうーーと、佳代が亡くなっていると認めようとしている自分に気がついて、亜礼は愕然とした。

同時に、さっき溢れてきた記憶が、今度はゆっくりと再生される。今まで抑え込んできた記憶が、亜礼の脳にしっかり根づこうとしている。




思い出した。


佳代はーー殺されたんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます