窃盗

仕事が終わるのは、深夜と言えるような時間帯だ。

壁に張り付くようにしてぶら下がっている外灯の、薄ぼんやりとした灯りを頼りに夜道を歩く。上を見上げれば、煌々とした光が目に飛び込んできた。上の階は夜でもずっと明るい。下町にまでは、その明るさは届いてこなかった。


「亜礼」

夜道の途中、声をかけられた。朔弥だ。にっと笑いながら、肩を叩いてくる。

「今日は俺が決める番だよな」

そうだな、と亜礼は面倒そうに答えた。朔弥は嬉しそうに頷いて、それからするすると壁を登っていった。

亜礼も後に続きながら、朔弥の身のこなしに感心する。猿みたいだ。猿を見たことはないが、そう言うらしい。鉄パイプを足掛かりにして、軽々と登っていく。

亜礼も登れなくはないが、最近身長が伸びてきて登りにくかった。身長なんかあったってあんまり良いことはない。時々、朔弥が羨ましそうに見てくるが。


「おっそーい」

5階のベランダからぶら下がりながら朔弥が文句を言ってきた。うるさい、と言いながら亜礼も5階までたどり着く。

「で、誰だよ」

ベランダの柵にしがみつきながら亜礼は訊いた。朔弥はまたにやっと笑って言う。

「俺の仕事の雇い主なんだけどね」

めっちゃむかつくんだよ、と朔弥は苛立ちを含んだ声で言った。

「信じられる?今日もちゃんと働いてたのにさ、難癖つけて賃金けちったんだ」

これで何回目か分かんない、と朔弥は眉間に皺を寄せる。

「そりゃあさ、今までは我慢してたけど。クビになるのは困るし。でもさ、賃金けちった上に、抗議した人を殴った」

これは駄目だよね、と朔弥は平坦な声で言う。うわ、これは本気でキレてるな、と思って亜礼はなにも言わずにおいた。触らぬ神に祟りなし、だ。

「下町の人間なんだから、黙って働いてれば良いんだってさ」

まじかよ、って感じじゃない?と朔弥は亜礼を見てくる。だな、と亜礼は頷いた。

「そいつ、いつも同じ道から帰ってるんだ」

尾行したからね、と朔弥は言う。

「お前にしては準備ばっちりだな」

「そりゃあね」

今までけちった分と、殴った分を取り立てたいから。朔弥は言って、一瞬だけ不安そうな目で訊いてきた。

「亜礼、やる気ある?」


亜礼は軽く笑って言った。

「勿論」



するすると、壁に張り付きながら進んで行く。

気を抜くと5階分の高さから一気に下に落ちてしまう。しかし朔弥は手に吸盤でも付いているのか、危なげなく壁をつたっていた。亜礼は手汗で滑らないように必死だ。


「いた」

唐突に朔弥は立ち止まり、近くのベランダに潜り込む。

「どこだよ」

遅れて亜礼もベランダに入りながら、目を凝らして夜道を見る。

「あれだよ。あの2人組の、左」

朔弥の指し示す方向を見る。確かに2人組がいた。

「なんだよあいつ。一丁前に用心棒なんかつけて」

朔弥が文句を言うが、それは想定内だった。上の階の人間が下町に来る時は、絶対に用心棒をつける。下町の人間に襲われることが多いからだ。

「いけるかな」

「あんな図体ばっかでかい奴、別に大丈夫だろ」

「亜礼もそう思う?」

実は俺もそう思ってたよ、とけろっと笑って朔弥は言った。

「狙うは懐。カバンには絶対入ってない」

ま、常識だよね、と朔弥は言いながら黒い布で顔を覆った。亜礼も顔を覆い、靴紐をしっかり結ぶ。

「間違っても絶対名前は呼ぶなよ」

「お前がな」

2人は言い合い、そしてベランダから躍り出た。



さっと、用心棒が振り返った時は少しやばいと思った。

え、気づくの早くない?結構強いのかな。

朔弥が一寸後悔しかけた時、ばんっと背中を叩かれて我に返った。

亜礼だ。めっちゃ睨んでくる。お前が言ったんだろ、という文句が聞こえてきそうだった。

そうですね、と心の中で返事をして、朔弥は用心棒に向かって鉄パイプを振り上げた。


5階から降りる途中で拾ったものだ。ぼこぼこだし腐りかけで脆いし、たぶんあまり威力はないが、夜の闇に助けられた。用心棒は咄嗟に手で頭を庇う。

あちゃー、雇い主より先に自分を護るか。

前言撤回、そんなに強くない。そう判断して、朔弥は遠慮なく鳩尾に蹴りを入れた。鉄パイプは流石にまずいかな、と考える余裕はあった。

うっと呻いて用心棒はよろめく。視界の端で、亜礼が雇い主の方に向かっていくのが見えた。

用心棒が呻いている間にさっさと退散する。

後は亜礼の仕事だった。




「お前なにびびってんだよ」

開口一番に文句を言った。朔弥は照れ笑いを浮かべている。

「いやまさか振り返るとは」

あんなん偶々に決まってんだろ、とぶつぶつ言う。朔弥が足を止めかけた時は肝が冷える思いがした。

「ほらよ」

亜礼が渡すと、朔弥はぱっと顔を輝かせた。

「すげー。流石、天才掏摸だな」

褒めてねぇな、と亜礼は顔を顰める。


用心棒の気を朔弥が引いて、その間に狙った人の財布を亜礼が掏り取る。2人が11歳からやっていることだった。仕事終わりに時々やって、狙う人間は交代で決める。朔弥は今日のような理由が多かったけれど、亜礼は適当に羽振りの良さそうな人間を選んでいた。


財布の中身を覗き込んで朔弥は悲鳴のような歓声を上げる。

「すごいよこれ。あいつ、こんなに溜め込んでたんだ」

亜礼は興味なさげに頷いた。財布の重みで大体分かる。どんだけ賃金けちったんだろな、と亜礼は思っていた。

「これなら十分足りる。手間賃引いてもお釣りが来るよ」

「朔弥が好きにすれば」

「えー?じゃあさ、唐揚げ一杯作ってみんなで分けよう」

これで今日のお昼はチャラね、と勝手なことを言う朔弥の額をはじく。

「それとこれとは話が別」

「けち」

2人が小声で言い争っていると、足音が聞こえてきた。

さっと、2人は口を噤んで物陰に隠れる。誰かは分かっていた。ーー予備警察だ。


黄色の腕章の集団が過ぎ去り、2人はほっと息をつく。

「…通報したな」

「いつもあんなことやっといて、よく通報できるね」

でも、下町の人間が上の階の人間に窃盗を働けば重罪だった。2人がこれまでやってきた件数を考えると、最悪死刑もあり得る。

捕まる気はなかったけれど、嫌な気分だった。そんなに下町の犯罪をなくしたいなら、もうちょっと待遇を変えれば良いのに、と思う。それが無理なのは、なんとなく悟ってはいた。

「あ、これいる?」

ふと思い出して、亜礼はポケットからごそごそとなにかを取り出した。覗き込んだ朔弥が顔を顰める。

「そんなもん盗ったの?」

そんなもん、と朔弥が言ったのは煙草だった。

「なんか入ってたし。高そうだから」

俺はいらない、と朔弥は首を振った。亜礼がそっか、と煙草をポケットに戻すのを見咎めて、朔弥は言った。

「亜礼も吸うなよ。体悪くするぞ」

お前は母親か、と言ったら朔弥は笑った。行くぞ、と言って亜礼に背を向ける。


亜礼は少し考えて、煙草を道に放り捨てた。

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