二人の世界(2)


「これから起こる事は、決して見ないで。聞かないで。

 ここで、目と耳をふさいでいて」


 同居するようになって、数週間後、舞は穂花を押入れに閉じ込めてそう言った。押入れの中は、蒸し暑くて不快だが、しょうがない。


 しばらくすると、ひとが中に入ってくる気配があった。


「舞。久しぶり。

 よく生きてたな」


 男の人の声だ。


「ありがとう。来てくれて。

 ……お父さん」


 普通の挨拶のようなやり取りのあと、聞き覚えのある嫌な音が聞こえてくる。

 そうだ、アユミの家で流しっぱなしになっていた、アダルトビデオの滑るような水音。

 押入れの襖の間から、二人の姿は覗き見る事が出来た。

 男が猥褻な言葉を言うたび、舞はキスをして、それを塞いでいる。出来る限り穂花にきかせないよう配慮してくれてるんだろう。

 でも、穂花はすでに硬直して、まったく動けなかった。


 ……吐き気がする。

 お腹が痛い。


 その地獄のような時間は延々と続いた。


「また来る」


 男が出て行く足音が聞こえた。

 直後、舞が、押入れの襖を勢いよく開けた。


「聞こえちゃったよね」


 穂花は体操座りで、ガクガクと震えている。


「……だから、見るなっていったのに。

 まあ、無理か」


 固まっている穂花をそのままに、舞は風呂場に行ってシャワーを浴びた。


 本当にただ気持ち悪い。

 特に、口の中。

 シャワーで何度もうがいして、ついでに歯磨きもする。

 身体中、全ての皮膚を剥ぎ取ってしまいたい。まとわりつく、嫌な感触を全て消し去りたい。

 血が滲むほどに、舞はスポンジで身体を強く磨いた。


 髪の毛を拭きながら出てきた舞に、ようやく押入れから出る事が出来た穂花が尋ねた。


「……なんで?……いつからそんなこと……」


 舞が行為の最中に、何度も『お父さん』と呼ぶのが聞こえていた。

 父親が、娘にあんな事を?

 しかも、舞の慣れた様子は一回や二回のことじゃない。


 舞は無表情に首を捻った。


「もう、わかんない。

 多分、物心ついたときには色々されてたし、6歳からはこうしてお金をもらってる」


「お金って。

 もしかして、私のせい……?」


「ううん。

 これから夏休みもあるし、計算するとどうしても、一回は来てもらわないと足りなかった。

 あとは仕送りでなんとかなる」


 舞はこともなげにそういい、乱雑に髪をふく。


 何も知らなかった。

 学校の中で一番苦しいのは自分だと、穂花は思っていた。

 どうして自分だけがあんな目に遭わされなきゃならなかったのか。ずっと、その境遇を憎んできた。


 でも、辛さを見せていないだけで、そんなに幼い頃から舞がこんな酷い目にあわされているなんて思わなかった。

 想像すらしなかった。

 むしろ、舞の明るさや、優秀さ、そしてその人気を妬んでいた自分を思うとひたすら懺悔したい気持ちに突き動かされた。


「……ごめんね」


「何が?」


「なんか、全然わかってなかった。

 舞ちゃんの方が、きっとずっと辛い目にあってきてたのに」


「そういうのやめて」


 語尾に噛み付くように、舞が強い調子で言葉を吐き捨てた。


「え?」


「どっちが辛いとか、苦しいとか、そんな事比較する事に意味なんかない。


 今、この瞬間、アフリカの子供が数人餓死したとしたら、同時にこの辺で交通事故でおじいちゃんが亡くなった場合は気の毒じゃないの?


 苦痛は、比較するようなものじゃないでしょ?


 そうやって常にもっとひどい人を引き合いに出す人は、結局、当事者と無関係でいたい人なのよ。そんな奴らの言葉に惑わされないで」


「……舞ちゃん」


 急に舞が穂花に、抱きついた。


「舞ちゃん?」


「少しの間、こうしていてくれる?」


 舞の身体は小刻みに震えていた。

 何度その身に受けたって、ああした事が平気になるわけがない。


 穂花は舞の背中に腕を回し、少しでも楽になってほしくて、優しくさすった。


 二人とも、終始無言だった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます