南国の花嫁 11-8 奇跡の花
抜けた天井の遥か先には、早くも天界に散りばめられた
視界がぐるりと回り、土埃の筋を引く星空と、暗い洞穴の闇が交互に見えた。目の端を掠め過ぎた赤く燃える光がふたつ、急速に遠ざかってゆく。ナルニエは落下の痛みを覚悟し、目蓋をぎゅっと閉じた。
けれど痛みとは別の感覚が彼女の小さな体を包み込んだ。しっとりとした潤いに満ちた
「おかあ……さん?」
思わずつぶやいた自分の声に打たれたように、ナルニエの薄れかけていた意識が戻った。目を開いてみると、すぐそばにピュイの顔があった。顎をぺったりと地面につけ、
感じるのは、洞穴の奥深くだというのに、まるで太陽の光をいっぱいに浴びたかのごとく
先ほど翅を打ち羽ばたかせたピュイが稼いだ距離は、かなりのものだったらしい。ふたりの落ちた先には、どこか懐かしさを感じる不思議な光景が広がっていたのである。
まるで、幻精界のような。
白い光の発生源はさらに洞窟の最奥、草と花々の絨毯の先にあった。ぱちぱちと瞬かせて見開いた目を向け、ナルニエは確信した。
そして周囲を埋め尽くしていたのは、ナルニエが求めていた美しく可憐な花そのもの――いや、それを超える多種多様な花弁としとやかな葉をもつ、大量の花々が咲き乱れていたのである。
「う、わあぁぁぁっ。ピュイちゃん、見て、見て!」
飛び起きたナルニエは、隣のピュイを揺り動かした。背と首の突起を掴まれてグラグラと盛大に揺さぶられ、ピュイが眼を白黒させながらも頷く。ようやく彼も我に返り、周囲をぐるりと見渡して目を輝かせた。
「ピピピェ、ピュイ!」
「すっごい、やったねピュイちゃん! これでおねえちゃんたちも喜んでくれるよ!」
その鼻先に、凄まじい勢いで振り下ろされた金属質の脚が一本、ザクリと突き立てられた。続いて振り上げられた脚は、慎重に獲物までの距離感を見定めようとするかのように揺れたあと、ぴたりと静止した。身を寄せ合いかばい合うふたりを一気に串刺しにするかのように。
ナルニエとピュイが息を呑んだそのとき――。
「させるかあぁぁぁぁッ!」
何の前触れもなく、長い刀身と威勢の良い怒号が天空から降ってきた。
凄まじい風圧が彼らと魔獣の間に割り込む。金属同士が激しくぶつかったかのような固い衝撃音が響き、魔導特有の緑の輝きが黒鋼のごとき相手の巨躯をギラリと染め上げる。
続いて繰り出された剣の一撃が、周囲に舞い上がっていた土埃を吹き払った。真横に薙いだ体勢から真っ直ぐに身を起こしたのは、黒髪に深海色の瞳をもつ青年、リューナだ。
「お、おにいちゃんっ? ――はわっ!」
ナルニエが目を丸くして驚きの混じった歓声を発し、次いで引っ張られたような悲鳴をあげた。ナルニエの襟首とピュイの背の突起を
その幻獣の背から地面に降り立ったのは、母譲りの優しげな眉をきりりと撥ね上げた少女トルテである。彼女は降り立つと同時に腕を空中へ滑らせて魔法陣を描き、『
「キュイィィィ!」
「よかった、みんな無事だね!」
ナルニエは顔を輝かせ、
ナルニエたちを襲っていた相手を退けたリューナは、すぐに背後を振り返った。
「無事か、ナル!」
明るく元気いっぱいの「うん!」という
「こんッの、バッカヤロ! おまえらだけでフラフラ危険な冒険なんざ百年早いぜ! ナル、ピュイ、いいか。野生の捕食動物やら魔獣やらは、待ってくんねぇんだぞ。たったひとつの判断ミスが自分や仲間を生命の危機に晒したり、その場所全部を崩壊させちまうきっかけになったりするんだ」
「でも、おにいちゃん……」
「話はまだ終わってねぇ! どこに何があるかわかんねぇところをほっつき歩いてるのも問題だが、勝手に出歩いてるのもどういうことだよ? 留守番してるって言ってただろ!」
ナルニエは、しょげ返ってしまった。いつもならリューナに文字通り食ってかかるピュイも、反省しているのか思うことでもあるのか、牙の並ぶ顎をぎゅっと閉じて
ふたりの様子を見兼ねたトルテが、激昂している幼なじみに声をかけた。
「リ、リューナ。ほら、こうして無事だったんですし。ナルちゃんもピュイも反省しているみたいですから」
「キュイ……」
おずおずとした鳴き声に見下ろすと、リューナの脚にキュイがすり寄り、大きな瞳で彼の顔を見上げていた。う、と言葉を詰まらせたリューナの口の端が、
リューナは長く息を吐き、剣を握っていないほうの手で後頭部を掻きながら口を開いた。
「なんだ、ナル。言いたいことがあるなら聞くぞ」
「うん、えと、あのね! ここまで来たのはふかぁいワケがあったんだよ。悪い気持ちなんてちっともなかったの。ナルたち、ただ――」
身を乗り出すようにして懸命に話しはじめたナルニエであったが、継ぐはずの言葉を呑み込んでしまう。目の前に立つ青年の背後に小さな指を差し向け、驚きと恐怖のあまり蒼白になりながら声をあげた。
「だめ、うしろっ!」
ナルニエの声が発せられたとき、すでにリューナは反応していた。背後に迫る凄まじい殺気と圧力へ向け、振り向きざまに剣を叩きつける。
リューナの剣と魔法障壁が、
バランスを崩された魔獣が、盛大にひっくり返る。硬い脚や胴の突起をでたらめに振り回し、岩壁や天井の岩盤を突き破り、粉砕し、次々に破壊してゆく。無事な箇所にも無数のヒビが入り、不穏な音が周囲を這い巡った。
「トルテ!」
「はい!」
飛んできた破片を剣で叩き落しながら発したリューナの声に、幼なじみの少女はすぐに反応した。『
「なんだ、この鎧だか鉱石の針だかわかんねぇ奴はッ?」
リューナの問いを受け、トルテが魔導の力を宿した瞳を凝らし、相手を見定めようと試みる。けれど彼女の豊富な知識のなかにも見つけられなかったらしく、首を横に振った。
「わかりません。魔法王国期に記された古代生物史に同じような外観をもつものが記されていたように思いますが、細部の特徴が異なっています。この地の固有種なのかも知れません」
「てことは、習性も生態もわかんねぇってことか。群れで行動する種なら厄介だぞ、仲間呼ぶとかされたらたまんねぇ。壁とか天井とかモロくなってるから、この辺り全部崩れちまうぞ!」
「周囲に、同じような大きさをした生物の気配はありません。それよりこの場所、とても強い魔法がたくさん展開されているようです。魔導による幾つかの守護魔法、そして魔導でも魔術でもない魔法の力……ここはまるで、あのときの――。あら?」
魔導を宿した瞳で周囲を見回していたトルテは言葉を切り、膝を折ってかがみこんだ。目線を下げ、まっすぐに澄んだオレンジ色の瞳で、不思議な白い生き物をじっと見つめる。
白い生き物は頭を持ち上げるようにして、つぶらな赤い目を彼女に向けた。
「あなたは、エオニアさんのお話に聞いた外観にそっくりですね。ここに住んでいるのですか?」
当然、答えはなかった。そのはずであった。けれど白い生き物は首をかしげるような仕草をし、そのままクルンと体を回転させた。どのような意味であったのかはリューナにはさっぱりだったが、トルテは納得したような表情で立ち上がり、落ち着いた口調で彼に告げた。
「リューナ、これ以上戦う必要はありません」
この言葉には、リューナのほうが仰天してしまった。
「ちょっ、待てよ! あのでかいやつはすぐにも襲ってきそうな態度じゃねぇか! トルテ、いったいどうした。詳しく説明してくれないとわかんねえぞ」
ひっくり返っていた状態からようやく回復した魔獣が、金属の光沢をもつ長い脚で地面をガツガツと
リューナは長剣を構え、
「戦う必要がないって、どういうことだ。相手はこちらに敵意しか向けてないようだし、……この場所に意味があるってのか?」
じわり、じわりと近づいてくる魔獣から目を離さぬまま、リューナは思考を巡らせ周囲の様子にも注意を向けた。
魔獣ばかりに気をとられていたが、確かにこの洞窟内は極めて奇妙で不思議な場所である。魔導士としては感覚の鈍い彼でもはっきりと判別できるほど、尋常ではない濃さの
「それに、ここだけ洞窟なのに植物が生えてるよな。天井が抜け落ちるまでは、閉鎖された地下だったはず。太陽も当たらない場所に緑の葉が育つのはおかしい……花だって、知っている種類がひとつもないぞ」
リューナの立っている位置は、緑が広がっている領域の外縁ぎりぎりだ。一歩下がれば、完全にその領域へ踏み込むことになる。トルテたちは、すでにその領域内に立っている。
「まさか、なにかの結界……?」
確かめようとして、リューナが一歩下がったときだ。怒り狂ったような
そのとき、悲鳴のような制止の声が洞窟内に響き渡った。
「やめてええぇッ、おねがい!」
声の主は、エオニアだ。魔獣の後方にぽっかりと開いた天井の崩落跡から、見事な滑空で飛び込んできた。
飛翔族らしく、華奢な体の後ろに折り畳まれていたとは信じられぬほどに大きな翼を必死に打ち羽ばたかせている。隣には、同じく白い翼を広げたディアンの姿もある。
向けられた言葉はリューナに対して発せられたものではなかったらしい。魔獣が驚愕したように巨躯を震わせた。突進していた勢いのまま一対の目を頭上へ向けようと焦ったあまり、無理な姿勢になってバランスを大きく崩してしまう。
ズドン、と重量のある胴を落とした衝撃が洞窟内を震撼させた。ひときわ音高くピシリと鳴ったどこかの壁の内部に、リューナの首筋がぞわりと警告の疼きを伝える。
次の瞬間、崩落の轟音が空間を圧した。エオニアの頭上にあった岩盤のほとんど全てが瞬時に砕け、ごっそりと抜け落ちた。
「キャアアァッ!」
「エオニア!」
彼女のそばに居たディアンが全身を盾にして彼女をかばう。けれど崩落の規模は凄まじく、とてもではないがふたりとも無事に済むとは思えなかった。
「ディアンッ!」
いくら類稀なる力をもつ魔導士といえど、準備もなしに守護魔法を行使することはできない。たとえそれが愛するものを守り抜く決死の覚悟だとしても。幾度となく友人たちの、そして彼自身の愛する者の生命の危機に向き合ってきたからわかることだった。
リューナは一瞬の
閉じた目蓋の裏に爆発した、強烈な魔導の輝き。それは果たして自身のものだったのか友人たちのものだったのか。同時に大きな質量が彼らの上に覆い被さるのを全身で感じた。このまま潰されるか――リューナは友人たちを救うため、自身の奥底から『生命』の魔導の力を汲み上げようと精神を集中させた。
だが体に受けた衝撃は結局、落下によるもののみであった。それですら肺から空気が押し出され、肋骨が軋み、割れた瓦礫の上に落ちたので無傷だとはいえなかったが、ふた呼吸を数えても絶望的な圧力に埋められることはなかった。
「……う。無事か、エオニア」
すぐ傍で、ディアンの声が発せられるのを聞いた。リューナは土埃を吸って噎せそうになりながらも顔を上げ、友人たちの無事を確認して、ようやく安堵の息を吐いた。
エオニアはディアンの腕のなかで、すぐに意識を取り戻した。大きな怪我は無かったようで、頷きながら気丈にも彼に微笑んでみせた。
「リューナ、君も……よく無事で。考えもせず突っ込んでくるところは、ぜんぜん変わっていないね」
「それはディアンも同じだろ。自然に体が動いちまうんだ。……それにしてもどうなったんだ? トルテは、ナルたちは無事か!?」
リューナは手の内に魔法の光球を作り出し、周囲に掲げてみた。立ち上がれぬほど低い位置に堅固な天井がある。よくよく見て、彼は驚いた。頭上にあるのは岩盤や瓦礫による形成物ではなく、金属質の生き物の腹であったのだ。
「おまえ……俺たちをかばったのか」
崩落によって埋められた魔獣の腹の下に、ドーム型の間隙が生じていたのだ。その間隙にリューナとディアン、エオニアは倒れていたのである。
三人は白い光と花の豊潤な香りに導かれるように這い進み、すぐに隙間から外へ出ることができた。そこには洞穴の奥から届く白い光に照らされた、不思議な花々と緑にあふれた驚くべき光景が広がっていたのである。トルテが駆け寄ってきて、リューナたちの無事な姿に心底安堵した顔で涙を浮かべる。
エオニアは、瓦礫と化した岩土や地表から落ちてきた樹木の破片に埋もれた魔獣に向け、涙まじりに語りかけた。
「わたしのこと、ちゃんと憶えていてくれたんだね……こんなに大きくなったのに、わたしのことちゃんと……」
「やはり、この子はエオニアさんのお友だちだったのですね」
「友だち……?」
「はい、リューナ。あたしがぬいぐるみにして贈った、エオニアさんの小さい頃の大切なお友だちですわ」
リューナは一呼吸分考え、「あぁ」と頷いた。瓦礫に埋まっている魔獣に眼をやり、次いでナルニエやピュイ、キュイたちとともに居る白い生き物に視線を移動させる。
「そうか、こっちの白い小さいほうはこの魔獣の幼体なんだな。てことは……親なのか」
そこまで口にして、リューナは言葉を切った。トルテに顔を向けると、彼女も真剣な眼差しで彼に眼を向けていた。
「リューナ、まだ間に合います。この子は生きています。瓦礫を退かせることができれば」
「わかってるさ、トルテ。――さあ、やろうぜッ!」
「はい!」
涙に濡れる顔を上げたエオニアに向けてリューナが頷いてみせると、彼女の肩を抱き支えていたディアンが心得顔に頷き返した。エオニアを連れ、トルテの指示ですでに離れていたスマイリーたちの傍まで下がる。
リューナとトルテは眼を見交わし、同時にふたりそれぞれの魔導の力を行使した。
魔法を乗せた剣の狙い澄ました渾身の一撃と、立体魔法陣として組み上げられた魔導の力場が交じり合う。魔獣の体躯の上に重く圧し掛かっていた厚い堆積層が、まるで春を迎えて溶けてゆく雪のように
魔獣が戸惑ったようにゆっくりと身を起こし、体躯を揺さぶるように起き上がる。
喜びに歓声をあげたエオニアが駆け寄り、魔獣もまた嬉しそうに宝石さながらに赤く輝く両目を
「ふふっ、みんな仲良しが一番ですね」
トルテは明るいオレンジ色の眼差しを皆に向け、一点の曇りもない無邪気な様子で微笑んだ。その横顔を見つめていたリューナは意を決し、一歩の距離を詰めて彼女の肩を引き寄せた。少女の細やかな体を受けとめ、ゆっくりと力を込めて抱きしめると、おずおずとした抱擁が返ってきた。
リューナは無言のまま、腕のなかから見上げてくる澄んだ泉のようなトルテの瞳を覗き込んだ。言葉はなくても伝わっているという確信が、今はある。
やわらかな唇に自身の口をそっと重ねると、背に回されていた少女の手が持ち上がり、彼の胸と襟元に伸ばされた。身長差を埋めようとするかのように、少女のつま先がかかとを持ち上げる。
「あ~、おにいちゃんとおねえちゃん、すっごい仲良くなってる!」
「ピュルティ、ピューリ、ピピピェ!」
「キュイ、キュイ!」
何にでも興味深々の幼子たちに発見されたふたりは、ようやく顔を戻した。あたたかい笑い声がはじける。彼らは魔導士、魔獣、幻獣、幻精界の住人という不思議な組み合わせながら、まるで家族のように思うさま互いの無事や幸せを喜びあい、笑いあったのである。
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