双つの都 10-51 過去と今をつなぐもの

 テロンの腕のなかで、ルシカは穏やかな呼吸を繰り返している。


 すべらかな頬にはあたたかな色が戻り、金色のまつげとやわらかな髪が光に透けるように輝いていた。先ほどまでの苦しそうな様子がうそのようだ。 


「体温は戻っているが……魔力マナのほうは足りているのだろうか」 


 魔導の瞳を持たぬテロンには、魔導士である彼女の状態すべてを理解できるわけではない。だが今までに行使してきた魔導の凄まじさは、魔法を遣えぬ彼であっても充分すぎるほどに理解できるものであった。


 まるで自分の痛みであるかのように彼女のことを心配するテロンに、ファリエトーラは光に透ける水宝玉アクアマリン色の目を優しく細めながら口を開いた。


「幻精界がこうして本来の姿を取り戻したのですから、アウラセンタリアからの魔力マナによって魔導士たちの回復も速まっているはず。心配は要りませぬ」


「本来の……光景。そうか、これがそうなのか」


 テロンは顔を上げ、改めて周囲の驚嘆すべき光景を眺め渡した。彼らの世界では存在し得ぬほどの規模を誇る虚空に浮いた美しい都と、色のついた風が際限なく吹き出してくる螺旋状の光の柱が天と地を繋いでいるさまを。


「天にりて光を投げかけ、導きと繁栄をもたらすのが我ら『光の都』。地に在りて夜を支配し、平穏なる闇にくるみ憩いをもたらすのが『影の都』。幻精界の中心でありかなめたるアウラセンタリアに繋ぎ留められていると同時に、この世界すべてに存在しているともいえまする」


 テロンが目を見張りながらも真の理解にまで至っていないことを正しく読み取ったのであろう、ファリエトーラは穏やかに話題を変えた。


「現生界と違う次元にあるこの世界とでは、あまりにも違いすぎますから、感じるままに信ずればそれで良いのです。とはいえ、我が故郷であるこの世界が、そなたたち別世界の者の目にも美しく映っていることを願いますが――。今、『光の都』からエトワがこちらへ向かっています。そなたたちの子はとても元気ですよ」


 超然たる美貌のファリエトーラが微笑むと、空高く広がる光の都から発せられる光も明るさを増しているような気がした。統治者は都と命運をともにしていると言っていたから、あながち目の錯覚ではないのかもしれない。


 テロンは腕に抱いたルシカの顔に視線を落とした。


「子どものことも、ルシカのことも……この世界も無事で本当に良かった。きっとあの子も安心しているだろう。母親のいない寂しさは、俺も兄貴もよく知っているから――」


 ルシカの顔に、もうひとりの愛する小さないのちが重なって見えた気がした。あどけない笑顔、新米の母と父。腕に抱いている妻ルシカの生命の印である温もりを、改めて感じる。


 無事で本当に良かった。胸にじんわりと広がってゆく安堵と未来への喜びに、テロンは顔を上げた。


「本当に感謝している、ありがとう」


 テロンの揺らぐことのない真っ直ぐな眼差しに、ファリエトーラが深く頷くようにして応える。傍らの幼女が嬉しそうに黄金の衣の端を掴み、ファリエトーラに寄り添った。


 幼女は膝をついてもなお自分より丈高いテロンを見上げ、屈託のない笑顔でにぱっと笑った。


「感謝してるのは、こてゅ――こちらのほうなんだよ。助けてくれたでしょ、ありがと!」


「たいしたことはしていないよ。こちらも君たちに助けられた、ありがとう」


 まなじりを下げて幼女に頷いたあと、テロンは空を見上げ、深く息を吸い込んだ。


 幻精界の空気は濃く、潤いに満ちている。甘く芳醇な香りは、どこかで花々が一斉に満開に咲き開いたのかも知れない。確かに幻精界は変化した。これでもう安心だろう。


 ふと移動させた視線の先には、巨大な幻獣と子どもほどの大きさの龍、そして魔導士の若い娘と剣を扱う青年が立っていた。姿も種族も違うというのに、ふたりと二体はとても仲が良さそうに互いに寄り添い、自然に言葉を交わしている。


 目を細め、テロンはつぶやくように言った。


「ともに闘ってくれた彼らは……何と言ったらいいのか、とても不思議な感じがする。どこかで逢ったことのあるような、けれどそれを口に出してはいけないような気がするんだ」


「運命とはめぐり合わせ。全てに意味があり、無駄なものはただのひとつもありませぬ。けれどそのひとつひとつを見定めなくても良いのです。あるがままを受け容れてゆくこと、そのために勇気や覚悟が必要なことも、時には必要でしょう。けれど、いつも恐れず立ち向かってゆくことができるのならば――」


 光の領域の統治者は肩越しに背後を振り返り、言葉を続けた。


「必ず、未来をひらくことができるはずです」


「それはどういう――」


 とても重要なことが語られている感覚に押され、テロンが口を開きかけたとき、腕の中からかすかな声があがった。


「……ん」


 ぐったりと伏せられていた金色のまつげが震え、ルシカが目を開いた。


「ルシカ、気がついたか」


「……どう、なったの。みんな無事……なの?」


 かすれるような声でルシカが問うた。大きな瞳をうるませ、嗚咽をこらえるように、急き込むように、目の前のテロンに問いかける。


「あたし……体のなかに……何か、魔導が……魔導が霧散してしまって制御コントロールが――」


 無理に身を起こそうともがくルシカを抱きしめ、テロンは彼女の顔をのぞき込んだ。


「ルシカ。心配するな、すべて落ち着いたんだ。君もあの子も無事だ。幻精界も本来の姿に戻ったし、みなここにいる。何も心配することはないんだ」


「テ……ロン」


 テロンと視線が交じり合い、ルシカの表情がふっと緩んだ。


「ほんと……に。あなたも無事なの……?」


 おずおずと伸ばされた手を、テロンは自分の大きな手で包み込んだ。抱きついてきた細やかな体をしっかりと抱きしめ、彼女のおそれや懸念を受け止める。ようやく心から安堵したようにあたたかな吐息をついたルシカは、テロンの腕に支えられてゆっくりと身体を起こした。


 周囲を眺め渡した彼女は、驚きの声をあげた。


「まぁ……! すごいわ、なんて素晴らしい。そうか、そうなのね……。これが本来のファントゥリア・エランティスなんだわ」


「今、何と?」


「とても古い古い言葉よ。グローヴァー魔法王国よりもっとずっと昔に使われていた古代の言葉……輝ける希望と未来、幻精界の大いなる都、時空を彷徨う光と影、すべての調和と円環を意味しているの」


「そう、それが失われていた双つの都の真の呼び名です。幻精界と称されるこの次元を支え、森羅万象を導くもの」


 口を開いたファリエトーラは、超然とした美しい面立ちを悲しみに浸していた。


「その名が失われたことは、今までに二度ありました。此度のアウラセンタリアの危機、そして、かつてわらわが未来を夢見て現生界へと渡ったときです。そこで出逢った人間族の者と結ばれ、さまざまなことが起こりました。手に入れたものも失ったものも、手にしたけれど最後には失ってしまったものもありました」


 静かに語り続けるその声は、はっきりと震えていた。


「本来は肉体という外殻を持たぬ幻精界の存在が変化してゆく原因について、はっきりとは解っておりませぬ。けれど憎しみや友愛など、とても強い感情が関わっていることはおそらく真実のひとつでありましょう」


「憎しみや……友愛?」


 テロンは傍らのルシカに視線を向けた。ひとの心の痛みを我が事のように感じることのできる彼女は、大きな瞳を涙で潤ませていた。


「わらわにとっては愛でしょう」


 ファリエトーラの瞳の透き通るように明るかった色は、雨降る前の藍空のようにかげっていた。永遠に等しい時のなか、痛みと後悔、失ったものへのいつくしみとそれゆえの喪失感に打ちのめされ続けているのだ。


「……多くの魔法、出逢い、そして愛による奇跡がありました。幸福で満ち足りた日々も。しかし、わらわは幻精界を離れるべきではなかったのです。愚かにもそのことに気づいたのは、ファントゥリア・エランティスが消失するという危機を迎えたときでした。『光の都』のみならず『闇の都』もが消滅しかけたのです」


「そんなことが」


 ルシカが驚いたように小さく息を呑む。古代魔法王国期の記録から自然現象、魔法などの凄まじい量の知識をもつ彼女でさえ知り得なかった歴史なのだろう。


「双つの都と民たちを救うため、『影の都』の統治者が自らの身体を犠牲にして時間を稼いでくれました。わらわは現生界での大切なもの全てを置き去りにして帰還し、結果として幻精界は危機を脱しました。……けれど夫と子、そして同胞たちを現生界へ置き去りにすることになってしまったのです」


 光の領域の統治者は瞳を伏せた。


「夫は……そんなわらわを追って幻精界に入り、双つの都の民たちに追われました。入ってきた次元の扉とは別の場所から放り出され……結果として生きていた本来の時代と場所を永遠に失ってしまったのです。格闘の技に長け、正義感にあふれ、拳も心もとても強かったあのひと。光の闘気を身に纏うことで、民ならず幻獣たちですら退けほふることもできた。けれど、あのひとはそうしなかった」


 ファリエトーラは顔をあげ、悲しみに顔を歪めてテロンを見つめた。超絶した美貌はそれでもひどく美しかったが、頬に涙の雫は流れなかった。ただ、光を内包した水宝玉アクアマリン色の瞳から、淡く儚げな光の粒が宙へとこぼれていったような気がする。


「光……の闘気?」


 彼女が語った言葉のひとつが、何故かテロンの意識に引っかかった。


 けれど聞き返したその時、少し離れた場所に光のかたまりが生じた。爆発するようではなく、ふうわりと穏やかに羽を広げて降り立つおおとりのように。『光の都』から、エトワたちが到着したのだ。


 イシェルドゥたち三人の女性を付き従えたエトワの腕には、上質であたたかそうな布にくるまれた赤児が抱かれていた。ルシカの顔がぱっと明るくなり、テロンの腕から駆け出していく。


「さて、どうやら戻るべき時が来たようですね。そなたたちは本来の時間の流れと居るべき場所にらねばなりませぬ。我らの力も戻っておりますので、今ならば問題なく同じ光の道を造り出すことができましょう」


 ファリエトーラが表情を改めて言った。先ほどまでの悲しみは水が流れ去ったように跡形もなく消え失せている。


 今の彼女は統治者に相応しい悠然ゆうぜんとした微笑を湛えていた。揺るぎのない柱のごとく堂々と立っている――ほっそりとした背を真っ直ぐに伸ばして。


 その様子にテロンは何故か、兄クルーガーのことを思い出した。国王として、いかなるときも己の内にある懸念や弱さを表に出すことなく毅然として佇んでいる姿を。自分たちが消えたことで、兄をはじめ、王宮のみなもどんなにか心配していることだろう。


 生まれて間もなかった娘を抱き渡されたルシカが嬉しそうに微笑んでいるのを見ながら、テロンは頷いた。


「そうだな。俺たちは戻らねばならない」


 その決然とした言葉を聞き、ファリエトーラが彼の瞳を真っ直ぐに見た。


「これからも、そなたにとって辛く苦しい事があるやもしれませぬ。けれど、どんなときにも愛する者を護り通そうとする覚悟のある、そなたならば」


 続く言葉は声としても思念としても語られなかったが、テロンは眼に力を籠めて頷いた。


 ファリエトーラは身体の向きを変え、エトワたちのほうへ歩んでいった。ナルニエが母の衣の裾から手を離し、仲間たちのもとへと駆け戻っていく。


 テロンとファリエトーラが近づいてくるのに気づいたエトワが、理解の光を眼に宿してルシカに向き直った。


「戻るのだな、暁の魔導士。名残惜しいが、そのほうが良いだろう。そなたには休息が必要だ」


「うん。ありがとうエトワ。それにみなさん。お世話になったわ。あたしと娘のいのちを救ってくれて、本当にありがとう!」


 生まれたばかりのふわふわした頬に自らのすべらかな頬を触れさせながら、ルシカが言った。テロンも妻の傍らに歩み寄り、幻精界の友人に向けて右手を差し出した。


「俺からも礼を言うよ。大切な家族を守ってくれて、ありがとう」


「それはお互いさまだ、君たちの言葉で言うのなら。世界の恩人なのだから。それに……我らは君たちから様々なことを教わった。魔導という技術、生命というもののもつ大いなる可能性、そして何より、互いを思い遣る気持ちがもたらす強さというものを」


 幻精界の青年はそう言って微笑み、差し出されていた手をしっかりと握り返した。まるで雪花石膏アラバスタのごとくすずやかな感触が、テロンの手のひらに残った。


 ルシカがテロンの腕に寄り添うようにもたれかかり、注意を促してきた。妻の視線に導かれて顔を向けると、リューナとトルテが近づいてくるところであった――ともに戦った魔導剣士の青年と、ルシカによく似た瞳をもつ魔導士の少女だ。


「もう帰るのですか」


 幼女に聞いたか、或いは雰囲気で察したのであろう、少女が寂しげな顔で問い掛けてきた。


「ああ。妻を休ませなくてはならないし、生まれたばかりの娘を俺たち本来の世界に連れ帰らなくてはならない。――共に闘えたことを嬉しく思うよ」


 テロンの視線を受けた青年が、少々緊張気味に肩を強張らせながらも、真っ直ぐな眼差しで見つめ返してきた。隣に立っている少女のほうが何か言いたげな様子で瞳を伏せていたが、息を吸い込み、顔をあげた。


「あ、あのっ。あたしたち本当は――」


 少女が言葉を発しかけたとき、まばゆい光が忽然と生じた。周囲を一瞬で真っ白に染め上げる。


 光の統治者が天高く腕を差し伸べ、開いたのだ――次元を渡る為の『光の道』を。


「なッ。ちょっ、早いぞ!! もうちょい待ってくれたって」


 白い光の向こうから、青年の威勢の良い声が聞こえた。その声に被さるようにして、ファリエトーラの凛然とした声が響く。


「運命の紐は絡まることがあってはなりませぬ。円環は閉じられてこそ意味のあるもの。……焦ることはありませぬ、時が満ちれば全ての問いに対する答えが得られましょう」


 なおも強まってゆく光のなか、テロンはルシカとその腕に抱かれた赤児をかばうように腕で包み込んだ。その腕のなかから、ルシカが静かな、だが心浮き立つように明るい声を発した。


「あなたなら大丈夫! あなたはひとりじゃないんだもの。自分自身で限界を定めなれば可能性は無限なのよ。だって――あなたも限界から解き放たれた魔導士なのだから」


 彼女の言葉は、いやにきっぱりとテロンの心にも響いた。同時に、光の向こうでも息を呑んだ気配があった。そして、「はい!」という涙まじりのいらえの声。


「ルシカ、それはいったいどういう――」


 彼女に問いかけたとき、凄まじい光量が弾けた。視界が真っ白に染め上げられる――テロンの意識は白き光の奔流に呑み込まれた。


 彼が全身全霊を懸けて護ろうと心に誓った、ふたつの大切ないのちの温もりを感じながら。


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