双つの都 10-49 過去と今をつなぐもの

 類稀なる魔導の技によって織り成された虹色の魔力マナは、幻精界の全土を覆いつくしていた。


 見る影もなく変容していた光景を、本来るべき姿へと戻し導いてゆく――。


 凍土と化していた水の領域では、氷の柱となった大樹のすべてが一斉に崩れ落ちた。蒸気と化して白い雪砂が消え失せたあとに、しっとりと濡れたやわらかな大地が現れる。


 水の流れが形成され、滝は巨大な水音を轟かせながら瀑布となり、大気は潤いに満ちた。大地に新たな樹々が次々と芽吹きはじめる。そこかしこで生まれた小さな緑は現生界ではありえぬほどの勢いで成長し、大樹となり、虹の架かる空へ向け枝葉を伸ばしていった。


 常闇とこやみひたされていた礫岩の大地にも生命力あふれる双葉が次々と現れ、吹き渡る春風のごとく急速に広がっていた。草花のたゆたう生き生きとした萌黄色の海がよみがえる。


 障壁となっていた隙間のない緑の領域にも清々しい風が吹き込み、巻き絡まっていたいばらや蔓がリボンのほどける光景さながらに森をひらいてゆく。


 餓えに耐え切れず倒れていた幻獣たちは立ち上がり、あるいは地下の巣穴から這い出してきて、満たされた穏やかな眼差しを向けていた――虹色の光が収束する幻精界の中心の地、アウラセンタリアへ。


 その方向には、どれほどに距離を隔てていてもなおそれと見極められるほどにまばゆい、白の輝きが燦然さんぜんきらめいていた。


 光というものは集められるほどに限りなく白へと近づいてゆく。さまざまな種類の魔力で成り立つ生命そのものが強大な力を具現化させるとき、白の光を放つ所以ゆえんである。


 類稀なき魔導によって織り成された虹の光源は、そのように輝いているのであった。





 トルテはゆっくりと目を開いた。


 焦点が定まらず、色のついた影が動いていると判別できるだけの、ひどくぼやけた視界……全身の力が全部どこかへ流れ出てしまったみたいに、膝も首も、手足すらも、思うようには動いてくれなかった。


 圧し掛かるような疲労感と痺れのあまり、ぐったりと目蓋を再び閉じかけたとき……「トルテ」と強く呼ばれたような気がした。


 懇願のように、大切なものを呼び戻そうとしているかのように、必死に何度も繰り返される呼び声――。


 トルテは沈みゆく意識に抗い、もう一度目を開いた。はっきりとしない視界のなか、声の主を求めて瞳に力を篭める。


 やわらかな白い輝きに周囲を満たされている気がする。あたたかく大きな手が、頬に添えられているのを感じる。力強い腕が、しっかりと肩を抱き支えてくれていた。その感触は心地よく、トルテに安心感をあたえている。


「りゅ……な?」


 徐々にはっきりとしてきた視界のなか、ようやく相手の顔が見えた。深海色の瞳をした目をいっぱいに見開き、揺れる眼差しで彼女を必死に覗き込んでいる幼なじみの青年の顔が。


「――トルテ! どこか痛いか? 大丈夫か?」


 急き込んだようにたずねてくるリューナに応えようと、トルテは口を開いた。


「よかっ……無事……で。それとも一緒に……冥界まで来ちゃ……たりします?」


「ばーか、なに、言ってんだよ! 寝ぼけてんじゃねぇぞ」


 威勢の良い言葉とは裏腹に、黒髪の青年は顔をくしゃりと歪めた。トルテの額に自らの額を押し当てる。まるで今の表情を見られたくないとでもいうかのようにうつむき、そのまま少女の体を力いっぱいに抱きしめた。


「あ……リューナ?」


「ホントに死んじまったかと思っちまっただろ! すっげえ魔導を使って、そのまま意識失くしちまうんだから……!」


 幼なじみの青年の肩は、震えていた。


 苦しくなるほどにぎゅっと抱きしめられ、意識が薄れるまでの記憶をたどり、トルテはようやく思い至った――あまりに大規模な魔導の技を行使したため、トルテ自身の体内にあった魔力マナを一気に放出してしまったのだ。リューナの心配の度合いからして、まさに生命の危機におちいるぎりぎりの状態だったのだろう。


「そっか、あたし……」


 つぶやくトルテの脳裏に、強大な魔導を行使したあとの母ルシカの姿が思い起こされた。いつもいつも生命維持の限界まで自身の魔力マナを酷使してきた母が、魔導を遣ったあとどのような状態にあったのかを体感したことで理解し、トルテはゆっくりと息を吐いた。


「ルシカかあさまは、いつもこんな感じだったのですね。……心配させてしまってごめんなさい、リューナ」


「まったくだぜ! 心配かけやがって」


 リューナは微かに鼻を鳴らし、ますますトルテを強く抱きしめた。


「……よくおまえの親父は耐えられるなぁって、思っちまっただろ……」


 耳の傍で、彼の小さな小さな声が聞こえた。


 トルテは目を閉じ、頷いた。母が倒れるときにいつも駆け寄り、抱きとめていた父の姿を思い出す。腕のなかで母が再び目を開いたときの父の安堵の表情は、見ているこちらが胸を衝かれるほどだ。まさか自分がリューナにそんな思いをさせてしまったとは。


「でもよかった。おまえが無事なら、それでいい」


 リューナはようやく落ち着いた声になって静かに言うと、腕の力を緩め、微笑みながらトルテの顔を間近に見つめた。


 大切なものをいとおしげに撫でるように、そっとトルテの頬に触れる。深海色の瞳には、トルテ自身の顔が映りこんでいる。


「リューナ……」


 リューナの顔がどんどん近づいてくるのに気づき、トルテは自分の頬が熱くなるのを感じた。訪れるであろうやわらかな衝撃を予感して、唇が自然に開く。


 ふたりのそれが重なる瞬間――。


「おねえちゃんっ! よかったぁー」


 ギクリと硬直したふたりに、ズドンと小さな衝撃が突き当たった。なにやらグルルと不平そうに鼻を鳴らす音とともに、軽いとはいえない重みがズシリと圧し掛かる。荒々しい鼻息とバサバサと動く翅は、主にリューナの背の上にあったが。


「ピュルティ!」


「ナルちゃん! ピュイ、スマイリーも!」


「あぁあっ、もうおもてぇったら! おまえらジャマしやがって! どけよっ」


 リューナが抗議の声をあげたが、腕の中のトルテの嬉しそうな笑顔を目にして、むっすりと押し黙る。『月狼王』のでっかい鼻面と古代龍のジャマな腹を片腕で押し退け、もう一度少女に向き直ったが……そのときすでにトルテは自分の脚で立ち上がり、幼女と笑顔で向き合っていた。


「無事だったのですね。本当に良かった、嬉しいです」


「うんっ。狼さんと一緒にいたし、でっかい蛇さんの攻撃からは青い目のひとが助けてくれたし、リューナおにいちゃんに言われてずっと離れたところにいたからねっ」


 ナルニエは透き通った水宝玉アクアマリン色の瞳をキラキラさせて、白銀の髪を弾ませ、無邪気に言葉を続けた。


「でも、あちこち崩れるし見えなくなるし、あせっちゃった。けどもうだいじょうぶだよ。ねぇ、あのひとたちって、おねえちゃんの知り合いなんでしょ? 家族?」


「え?」


「あんましおしゃべりする時間もなかったけど、ナル見てて思った。トルテおねえちゃんのきれいな目の色って、女のひとのほうにそっくりだし、髪は青い目のひとのほうによく似てるもん」


「そっ、そっかな」


 嬉しそうに赤くなったトルテの顔から、すぐに血の気が引いた。真っ青になってリューナの胸にしがみつく。


「リューナ! ……ルシカかあさまは? とうさまは無事なのですか!」


「それが……」


 リューナは言いよどんだ。


「わかんねぇ、世界がすっかり変わっちまったんだ。気配を感じるような気はするんだけど――ほら、落ち着いて自分で周りを見てみろよ、トルテ」


 まばゆく光り輝いている周囲に目を向け、明るさに慣らそうと目を狭め……トルテはようやく自分たちのいる場所を理解した。


 まず視界に入ったのは、周囲をぐるりと囲うように頭上までそそり立っている、巨大な建造物群の光景であった。


 凄まじいほどの規模だ。多結晶体のように複雑な輝きを放つ荘厳な建造物が幾百も、ドーナツ状にいま居る場所を取り囲んでいるのが見渡せる。それらが然るべき位置に配され、全体でひと綴りの宝飾品のように美しい眺めであった。


 まるで台風の目の中心に立ち、周囲の雲の壁を内側から眺めているような壮大さだ。都市のあちこちにある尖塔部分は、そのひとつひとつが霊峰フルワムンデの威容を思い起こさせるほどの規模であった。


 しかも驚くべきことに、都市そのものが光り輝いているのだ。建物ひとつひとつから滔々と流れづる光は、太陽を思わせるほどに強いものであったが、魔導の瞳を焼くほどではない。それどころか、体や心の苦痛を癒し、欠けたところを満たしてくれるような恵みの力を感じる。


 その優しく尊い光を放出している外壁全体に、びっしりと複雑かつ優美な文様が刻まれているのが遠目にも感じられた。全体がひとつの巨大な魔法陣のようでもあり、同時にそれぞれが違う意味をもつ膨大な数の魔法陣であるようにも思われた。


「すごいわ……なんという建物の数なの。それにまるで……まるで、『千年王宮』がたくさん集まってるみたいに、守護や癒し、環境維持……凄い数の魔法が見えます」


「さっきまで霧みたいなのが凄かったんだぜ。いつの間にか晴れてる……確かに、王宮の魔法技術にクリソツだな」


 改めて周囲を眺め渡し、リューナも目を見張っている。


「ルシカかあさまが言ってたわ。『千年王宮』は、幻精界の住人であった『夢見る彷徨人フラウアシュノール』のひとたちが造ったのだと。だから同じ技術が使われていても不思議ではないのかもしれませんけど……」


 都市の中央は巨大な空間になっている。トルテたちが居るのはそこに配された水晶クリスタルの回廊であるらしい。回廊もまた、中心にあるものをぐるりと取り囲んでいるのだ。


 すべての中心にあるのは、光り輝く色つきの渦が螺旋のように天空を貫いている、凄まじい大きさの『柱』だ。都市は、その周囲をぐるりと取り囲んでいるのだった。


 いや、『柱』と形容するのはあまりに見当違いな表現なのかもしれない。『それ』はひとつの領域であり、超常的な空間であるのだから。


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