双つの都 10-3 ソサリアの護り手たち
広い岩棚の奥は、拒絶の意思を感じさせるほどに見事なまでの絶壁だ。
手がかりや足場も見られず、山頂まで延々と続くのであろう壁面は不自然なまでに垂直で、しかもその頂上をまるで生き物のように不気味な渦を巻く乳色の濃い雲が覆い隠している。たとえどんな高峰をも制覇してきた登山の達人であっても、このフルワムンデに挑もうとする者がただの一人もいないというのが頷ける。
異界への接点があるという噂や、この世の最果てへと続く穴が開いている等々、伝承や言い伝えには全て、背筋が寒くなるような逸話が添えられているのだ。リューナは大きく息を吸って吐いたあと、肩をそびやかしてみせた。
「すっかり見通しがよくなった。戦闘していた間に晴れたんだな。見ろよトルテ、絶壁の上のほう。霧だか雲だか、自然のものとは思えない大気が覆っているみたいだぞ」
「そうですね、あそこには意志ある魔法が働いています。外側から頂上へ到達する可能性を、すっぱりと断ち切っているみたい」
「あの壁の表面、普通に登ることはできそうにないな。飛翔族か、真なる姿に変化した竜人族なら、翼で上昇して頂上までたどり着けるんだろうか」
「無理だと思いますよ、リューナ。そのひとがきちんと対処法を知っている魔導士なら可能かもしれませんが、ここからでも見えている
トルテが一番に尊敬している
「飛べて魔導士で強い奴か。なぁ、ダルバトリエのおっさんなら突っ込んでいきそうだと思わないか?」
リューナの軽口に、トルテの表情がふわりと緩んだ。
「そんな無謀なことをしたら、フェリアさんに怒られちゃいそうですけど。とりあえず、あたしたちは魔法なしには飛べない身なんですから、ハイラプラスさんから教えていただいた道のほうを進むことにしましょう。なんだかリューナ、いまにも突っ込んでいきそうで心配なんですもの」
「ピュイ、ピピピェ」
トルテの横でピュイが
「いちいち賛成するなっての! ――イッテぇ! なんだよっ、噛むなよ、ったく……」
そんな騒ぎを目の前で繰り広げられ、ポカンとしていたトルテが明るい笑い声をたてる。先ほどまでの重苦しい雰囲気が跡形もなく消えているのを見て取り、リューナは安堵した。ピュイも同じようにホッとしていたのかどうかは、断固として無視しておくことにする。
ふたりと一体は周囲の気配を探りつつ慎重に歩みを進め、山岳遺跡の入り口に立った。
頂上へと続く絶壁めいた斜面を穿つように掘られた、明らかにひとの手が建造した入り口である。そこはまるで自然の営みから切り離されたように、きっぱりと隔絶された場所であった。穴のように続く入り口は広く、二十
奥へ十歩ほど進むと、白亜の帯石に縁取られた重厚そうな藍色の扉があった。その帯石にびっしりと施されている彫刻が何を表そうとしているのか、リューナの知識では推し量ることができなかった。
「すっげぇ……。これが絵なのか象形文字なのか、意味しているところはさっぱりわかんねぇけど、彫刻そのものの技術がとてつもなく優れているのは、俺にもわかるぜ」
生物らしきもの、樹木や岩ではないかと思えるものもある。うねるように続く優美な曲線の数々は、大河の流れか海の波間か……それとも時そのものの経過を表しているのか。そこに綴られている絵図は別世界に存在するもののようであり、『時の魔晶石』の力で目にしたことのある始源世界の光景のようでもあった。つまり、自分たちのいま住んでいる世界とはまるで違う光景だということだ。
「ハイラプラスのおっさんの話では、魔法王国の時代よりずっとずっと古いものだっていう話だろ。彫られたものが浸食されることもなくこうして完全に残っているなんて、普通じゃ考えられねぇぞ」
トルテは無言のまま立っていた。
「そうですね。全体の構図、魔法陣のような配列……魔法王国最盛期の技術にも匹敵する強さの魔法が展開されているのを感じます」
「魔法って、魔法王国のものじゃなくてか」
「それよりもずぅっと古いものみたいですよ、リューナ」
「てことは――」
魔法王国の
リューナは畏敬の念に打たれながらも
いつの間にか再び自然の雲が背後の広場を埋め隠していたが、この扉の周囲だけには陽光が届き、不思議なほどの静寂に包まれている。いかなる自然の営みであろうとも、この場所を
「そっか。環境維持の魔法による力場が展開されているんですね。あたしたちの王宮ととても似ている技術みたいです」
「似ているってことは、ここも幻精界の住人たちが造ったってことなのか? 王宮も確かフラウア……なんとかっていう上位種族が造ったものだっただろ」
「そうかもしれません。でも、この場所に秘められた真実は、まだ誰にもわかっていないのです。古い古い書物にあった記述には扉の向こうに山岳遺跡と呼ばれるトンネルがあるとされていたらしいのですが、その書物すらハイラプラスさんが読んだあとに失われたとのことでしたから。おそらくミッドファルース大陸消失のときに、ミドガルズオルムの都市と運命をともにしたのでしょうね」
「なら、誰もここへは実際に入ったことがないってことなのか? 奥にはすっげぇ過去の仕掛けや謎、まだ知られてもいない伝説の宝なんかがそのまま眠ってんのかな」
リューナは目を輝かせた。未踏遺跡の存在――遺跡を狙う冒険者ならば、狂喜したことだろう。冒険者たちを惹きつけるのは宝物の存在だが、なにより心を打ち震わせるのは新たな謎と冒険そのものだからだ。
「可能性はあると思いますよ」
頷きながら、トルテが笑顔になる。ここに来た目的は切羽詰ったものであったが、冒険の旅そのものは昔から大好きなのだ。リューナもトルテも根っからの冒険者ではないが、それに負けぬほど強く純粋な好奇心の持ち主である。机で歴史書や地図を広げて調べものをするより、実際に出掛けていって探索してくるほうがしっくりくる。百聞は一見に如かず、いうやつだ。
「そうこなくっちゃ。それじゃさっそく入ってみよう」
右腕に収納された剣をいつでも取り出せるよう、リューナは精神を高めながら扉の傍まで歩み寄った。
ふと思いついて、振り返る。
「罠、なんかはないよな?」
「そういうことは近づく前に調べてください」
トルテは「めっ」と顔をしかめてみせながらも、大きなオレンジ色の瞳に無数の光芒を
「……魔法的な罠は見えません。物理的な罠が仕掛けられている可能性は低いと思います。だってここは、この遺跡の玄関である『扉』なのですから」
トルテは細やかな腕を宙に跳ね上げ、ふわりと双つの円を描くように宙を滑らせながら腕先で様々な印を結んでいった。
「我らは故郷へと還らん。我らが
小さな喉から朗々と力ある音が生まれ、虚空を震わせて周囲に響き渡る。それは『
藍色の扉は薄く青い清浄な水を透かしたような色に染まり、やがて急速に薄らいでいった。ふっと周囲の気圧が変化する。いつの間にか、目の前を阻んでいた藍色の扉は跡形もなく消え失せていた。
「扉板の属する次元が変わったんです。厳密には移動していませんが、移動したともいえるかもしれませんね」
「ピュルティ、ピューリ、リリュティ!」
「あぁ、道は開かれたんだ。こうなったら休んでなんかいられないな。さっそく進もうぜ!」
王族の住まう居室のひとつ、現国王クルーガーのプライベートな部屋は『千年王宮』の東側にあり、広い国土の大半を占めるふたつの緑の領域のひとつ、カクストア大森林を見渡せるちょうど良い位置にあった。
クルーガーと出逢ったときに運び込まれた客間の景色に感動していたマイナのために、クルーガー自身が用意した部屋だ。遠く眺め渡せるのは、異境に属しひとの領域にあらざるゾムターク山脈の連なりと濃い緑に覆われた国土、その手前に広がる王都の平和にあふれた活気のある街並みと、白亜の外壁まで広々とたゆたう穏やかな
「マイナ、かげんはどうだ。何か口にできたか?」
忙しい公務の合間を縫って、国王クルーガーは身重の妻の様子を確かめに足を運んでいた。
「はい、えっと……なんとか。さきほどクルーガーが持ってきてくださったレモンとトマトをサラダに仕立ててもらったんです。体を温めるための香草茶も、一緒に淹れてもらいましたので」
王妃であるマイナはゆったりとしたガウンを纏い、ソファーに座って時々窓の外を眺めながらせっせと針を動かしていた。
手もとを覗き込んだクルーガーは、穏やかな微笑を浮かべた。可愛らしいレース仕立ての小さな靴下らしき品を、マイナは縫っていたのである。
「細かな手作業をしていて、大丈夫なのか? 少しでも疲れたら――」
「はい、すぐに休みます」
マイナが微笑みながら頷き、傍に歩み寄ってきた夫を見上げた。クルーガーは長身を折って膝をつくように身をかがめ、マイナと視線を合わせて、幾分か蒼ざめている頬に手を伸ばした。やわらかな肌に沿わせるように長い指を滑らせ、その頬にキスをした。
「無理はするなよ、マイナ。……それにしてもめぐり合わせというものは不思議なものだ。命というものも。幸せになるにつれ護らねばならぬものは増えてゆくが、それらが重荷だと感じることはなさそうだ。むしろ喜ばしいことであると、しみじみ感じている」
「それはわたしも感じています。ねぇ、クルーガー。まだ時間が許されているのなら、ひとつお話してくださいませんか」
「ん?」
「わたしがまだ『従僕の錫杖』との分離装置に入っていたとき、話してくださいましたよね? ルシカさんの出産のとき、大変な騒ぎがあったって」
「確かにそうだったな。……もしかして心配しているのか?」
クルーガーは妻を抱き寄せ、彼女の手の中にあった裁縫の道具をサイドテーブルに置き、その体に負担をかけぬよう腕にゆっくりと力を入れながら抱きしめた。
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