古代龍と時の翼 9-52 幸せのかたち
始原の世界。それは、生まれたばかりの現生界だ。
洗練されてはいないがどこまでも伸びやかな、自由奔放たる緑の
そのなかを飛翔する巨大な影があった。龍だ。
最初に個として確立した始原の存在。龍は生命と可能性に満ちあふれた世界を、喜びのうちに翔けていた。その姿はひとつではない、つがいとなる仲睦まじい様子の一組である。二体の龍は、温もりあふれる大地で卵を抱いた。ふたりの愛、新しい生命――父と母はにっこりと微笑みあい、慈しむようにそっと卵を見守っていた。
「在りし日の龍たちの姿か」
テロンは、現実感を失った世界で意識だけの存在になったかのように浮かんだまま、龍たちの生涯を眺めていたのだ。傍にはルシカの存在を感じている。彼女が『時』の魔晶石の力を使って見せている光景なのだ。
「そう……けれどやがて悲劇が起こったの。生まれたばかりであるがゆえに荒ぶる大地が、あるとき卵と母龍を呑み込んでしまった。そのいのちを奪ったのは地中から噴き出した毒性の強いガス。残された龍にも手の施しようがなかった……」
やわらかな気配がテロンをそっと取り巻く。ルシカの気配は声をともなわぬ言葉で語り続けた。
「残された龍は
「長い年月の間に世界中を探りゆくうち、魔導の知識や知恵を得たというわけか」
「そう。そして自分が神のように崇められていることを知ったとき、神界に住まう神々の存在を知り得たの。ひとびとが神に
最後の言葉は、テロンではない別の意識に語りかけられたものであった。その言葉が空間に広がり、吸収されたとき、世界が変化した。いや、過去の幻影が消失したのだ。目の前に、魔導の技を行使しているルシカの姿がある。
テロンは見た。ルシカの差し伸ばした腕先から導くような光が生じ、天高く昇ってゆくのを。古代龍の巨躯が崩れるように力を失い、砂埃を立てて入り口の礫岩の上に覆いかぶさる……。
天空と地上を結びつけた光の筋は、舞い上がった砂煙を、
「次元を渡りゆくための道か……!」
その光の道のなかに、薄明るい影がひとつあった。大きな体躯をもつ美しいものが一体、ゆっくりと降りてくる。虹色の色合いに透ける鱗をもつ、しなやかな体躯の素晴らしい龍だ。その姿かたちは、テロンたちの背後にある骨格の血肉をもった姿を思わせた。
「古代龍が……」
誰かのつぶやきで、全員が倒れ伏したままの古代龍を見た。畏れを感じたような誰かのため息が聞こえる。テロンは息を詰め、目の前で起こっていることのすべてを見届けた。
ゆっくりと、まるで重力のくびきを感じさせぬほど
やがて道は細くなり、天空から降りそそぐ穏やかな陽光のなかに溶け消えた。あとには、爽やかな風が吹き渡ったかのように心地の良い空間が残っているのみ。
「ルシカ……古代龍たちが消える直前――」
テロンは気づいたのだ。龍たちが光そのものとなる直前、その眼差しが、テロンたちの立っている洞穴の奥に向けられていたことを。
「ええ。それに、小さな龍の影がなかった……つまりそれは」
そのルシカの言葉にピンときたものがあったのだろう。トルテがすぐに駆け出した。『卵』に向かって。
走り寄ったトルテは卵に手を触れて身を預けるようにしてもたれかかり、耳をすべらかな表面に押し付けた。そしてすぐに身を起こし、言った。
「ルシカかあさま! 生きています、この卵! だからふたりは連れて行かなかったんですね。それに、中から
その言葉を聞いたルシカが駆け寄り、娘の横に膝をついた。テロンもルシカと一緒にかがみこむ。テロンの耳にも確かに聞こえた――確かにいま、カサリと音がした。まるでちいさく尖ったものが何かを引っ掻いたような。
テロンはルシカを見た。彼女はオレンジ色の瞳を卵に向け、表面に触れさせた手のひらで何かを感じようとしている。生命は、それぞれに独自の
「助かりますか? 龍の赤ちゃん」
問いかけたマイナに、ルシカは眼差しに力を込めて応えた。
「やってみましょう」
魔導士であるルシカと娘トルテ、そして兄の婚約者であるマイナは、互いに支えあうようにして卵を腕に抱き、持ち上げた。咲き初めの花のようなルシカの唇が震え、そっと開かれる。出てきたのは、歌だ。
低く、高く、ゆったりと紡がれてゆくメロディー。大地を潤おし冬の終わりを告げる
それは魔法歌であった。
魔獣『
ルシカの細い喉から紡がれゆくその歌に、トルテとマイナの声が重なり、溶け合って空間を満たした。その場で耳にしていた者すべてが動きを止め、その歌に聴き入っている。
歌は卵に告げていた。――さぁおいで、出ていらっしゃい。心配することは何ひとつないわ。あたしたちが傍にいる。あなたはひとりじゃない……!
テロンは眼を見張り、
ルシカたちは声を調和させるように歌い続けながら、そっと卵を下ろした。卵が割れるのを、この上もなくあたたかな眼差しで見守っている。魔導の力を継承する娘たちによって紡がれる歌に導かれ、脚が、翅が、鼻づらが殻の下から出てきた。
小さな体が伸びをして、ピュイィ、と鳴く。警戒のかけらもない、あどけないしぐさ。
「可愛い」
トルテが微笑み、その生き物をそっと抱き上げた。歌の余韻とトルテの笑顔に心奪われていたリューナが慌てて腕を伸ばす。
「お、おい。大丈夫なのか? だってそれは……龍、なんだろ?」
ピュイイィ!
警戒するように声高く鳴かれてしまい、リューナはばつが悪そうに手を引っ込め、頬を掻いた。全員が朗らかな笑い声をたてる。やわらかな体躯をもつ龍のみどりごは、フニャア、と得意げにみえる欠伸をひとつした。
「チェッ、まるでスマイリーのときを思い出すなぁ」
リューナがぼやいた。ルシカと視線を合わせて微笑みあったテロンは、ふともうひとつ増えている気配に気づいた。背後に連なる龍の骨の陰から現れた人影に視線を向ける。その人物はおずおずと足を進め、光の当たる場所に歩み出た。全員が気づき、振り返る。
「エオニア……ッ!」
ディアンがふらりと一歩を踏み出す。瞳を見開いてその人物を見つめ――つんのめるように駆け寄った。抱きつかれた少女が驚きのあまり小さな悲鳴をあげる。その声で我に返ったディアンは体を離し、まじまじと相手を見つめた。喜びに輝いていた表情が、憂いを含んだものになる。
「エオニア……やはり君は」
リューナとトルテも傍に駆け寄った。
薄桃色の長い髪に薄赤く澄んだ両の瞳。頬と着衣は砂埃と涙の跡に汚れ、それでも可愛らしい顔立ちと快活そうな眼差しが本来の明るい性格を反映している。南の隣国タリスティアルに多い陽に焼けた小麦色に近い肌、背に畳まれた白い翼……。けれど背丈は記憶にあるほどに高くなく、歳はトルテと同い年ではないかと思われた。
「わたし……の名前は、確かにエオニアですけれど」
少女は声を発し、自分の声に励まされるように言葉を続けた。過ぎ去った恐怖に対する頬の強張りが
「昨日の朝、わたし導かれるようにこの地へ来たの。何かが起こるような、胸がざわざわするみたいな感じがして。そうしたら伝説に聞いていた古代龍がいて、殺されちゃうかと思った。そのとき、そこにいらっしゃる女のひとに遠くから助けられて、逃げて逃げて、ここまでたどり着いたの。教えてもらったように気配減じのまじないを実行して。ずっと隠れてた……」
その言葉で仲間たちはみな、この少女が助けを待っていた隣国の魔導士であることを理解した。視線を受けたルシカが進み出る。
「無事でよかったわ。遅くなってしまって、ごめんね」
「いいえ。助けていただいたこと、本当に感謝しています。あなたも魔導士ですよね。わたしも魔導士なんです。『解放』なんていう、ちょっと聞き慣れない魔導の名を持っていますけど」
「そっか……そうなんですね。エオニアさんはこの時代のひとで、未来に送り込まれる前の――『従僕の錫杖』を封じられることもなかった、本来のエオニアさんなんですね」
「ディアンと過ごした記憶も想い出もない……。でもこんなのって……! ディアンはあんたを助けようとして二度も危険を顧みず敵の本拠地に!」
「いいんだ、リューナ。彼女に無理強いするつもりはない。彼女の人生は、彼女のものだ。僕はエオニアが無事で、こうして生きていてくれただけで、本当に嬉しいんだ」
ディアンはそう言って、やわらかに微笑んだ。リューナがまだ言葉を続けようとして親友の顔を見つめ……そこに現れていた想いに口を閉ざす。
テロンには青年ふたりの気持ちがよく理解できた。リューナの友を大切に思い遣っている気持ちも、ディアンの深い愛ゆえに身を引こうという気持ちも――。思わず口を開きかけたテロンの手に、ルシカの
エオニアは先ほどとは全く違う眼差しで、改めて目の前に立っている同族の青年を見つめていた。青年の純粋な想いに惹かれたのだ。愛するひとの幸せを何よりも優先している、無償の愛――これが恋せずにいられるだろうか。
つっかえながらも、彼女は言った。
「あ、あの。もしよかったら話してください、わたしに。わたしたちが過ごしたという日々を。記憶はありませんが、聞きたいです。そしてあなたのことをもっと知りたいんです。教えてください、ディアンさん」
「うわぁっ! それってとても素適なことですよね。ねっ、リューナ!」
トルテが明るい声で言い、手をパンと打ち鳴らした。その輝くような笑顔を向けられたリューナが「あ、ああ」と慌てて返事をしている。トルテは嬉しそうに頷きながら、言葉を続けた。
「ハイラプラスさんが『憂えることはない』とおっしゃっていたのは、このことだったのですね」
「――そうですよ。さすがトルテちゃん」
聞き慣れない声に驚き、
倒れ伏したまま息絶え、そのまま残されていた古代龍の巨大な体躯が光となって消え失せたのだ。空中に散じた光は再び
「え、えぇぇええッ? ハイラプラスのおっさん!」
「おっさん、は聞き捨てなりませんが。まぁ仕方ないですかねぇ。わたしも相当な年月を経ましたから」
顎に手を当ててのほほんとそう言った後、にこにこと満面の笑みになって歩み寄ってくるのは、言葉とは裏腹に外見の変化などまったく見られない銀髪の青年――。
『時間』の魔導士であり研究者である、ハイラプラスそのひとであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます