古代龍と時の翼 9-34 炎の龍と水の決戦

 テロンは急いで起き上がろうとした。だが、背筋を突き走った鋭い痛みに息が詰まり、再び背中を大地に落としてしまう。両腕に力を籠めて突っ張ってはみるものの、すぐに立ち上がることができない。痛烈な一撃で全身を駆け巡った衝撃がしびれとなって、まだ全身に残っているのだ。


 ――そろそろ遊びは終わりだ……!


 ズシ、ズシン、と大地が揺れる。古代龍が完全にこちらに向き直ったのだ。痛みと憤怒、凄まじい形相に顔を歪めている。


 それを見上げる細い肩は僅かも震えず、両腕を真横に差し伸ばしたままだ。ただ、やわらかな金の髪だけが荒々しく吐かれる龍の息によって揺れるのみ。


 ――退け……邪魔だ!!


 激しい思念が叩きつけられ、まるで見せつけるかように再び尾が振り上げられた。背を向けているのでルシカの表情は見えない。だが、彼女がその攻撃を避けずに受け止める覚悟でいることが感じられた。


「すぐに離れるんだ――ルシカ!」


 その肩が一瞬だけ震える。ルシカは答えた。


「できない」


 とても静かな、はっきりとした言葉。――ルシカは彼を見捨てるつもりは微塵もないのだ!


 古代龍は尾を打ち振るった。同時にルシカが素早く腕を動かし、瞬時に魔導の技を行使する。『力の壁フォースウォール』の煌めきが彼女自身とテロンの体を覆った。物理攻撃を阻む魔法の防護障壁――だが、それは際限なく物理攻撃の全てを吸収してくれるものではない。凄まじいまでの圧力がふたりのいる空間になだれおちる。


 ズン!!!


 圧し掛かるような闇。ルシカが頭上に掲げた腕のすぐ真上で、空が見えなくなるほどに大きな尾が静止した。――否、魔法のカラに阻まれてこちらの肉体にまで到達できなかったのだ。だがその衝撃は凄まじく、砂塵が舞いあがり、周囲の地面が浅く陥没する。


 ルシカはオレンジ色の瞳に白い魔導の輝きを宿し、次なる魔導の為に精神集中を続けていた。仲間たちは龍を挟んだ反対側だ。何とかできるのは自分しかいない――テロンは全身の痛みに抗ってどうにか起き上がった。だが、彼の伸ばした手より早く、古代龍の尾がもう一度ルシカに襲い掛かる……!


 鞭のようにしなった尾が容赦なくルシカの胴を打ち、それで完全に防護魔法の効果が消し飛んだ。彼女の体が空中に撥ね上げられる。


「ルシカ――!!」


 テロン自身のものも含め、いくつもの叫び声があがった。マイナとともに駆け走ってきたクルーガーが跳躍する。テロンはそれより早くルシカを追って地面を蹴って跳んでいた。


 だが、テロンの腕が力なく宙を舞っていた彼女の体に伸ばされたとき、巨大な影が割り込んだ。古代龍の顎が音を立てて閉じたのだ――ずらりと並ぶ剥き出しの牙の壁が、突然眼前に生じたかのごとく。


 テロンは絶叫し、すぐにその顎に取り付いた。古代龍が首を激しく振り、彼を落としにかかる。テロンはのこぎりのような口の端を素手で掴み、決して離すまいと踏ん張った。


「くそ……落ち着け。何とかしないと……ルシカ!」


 ルシカは牙に噛み砕かれているわけではない――テロンは瞳に焼き付いている光景を思い出した。おそらく古代龍は魔導士を生きたまま体内に取り込むつもりで、完全に全身を咥え込んだのだろう。そのままゴクリと呑み下すつもりで。


 冗談じゃない……! テロンのなかで何かが爆発した。ルシカをもう二度と失ってなるものか。護るという誓いを、離れないという約束を、もう二度と揺るがせはしない……!!


「うおぉぉぉおおおおっ!!」


 テロンはがっきと取り付いていた両腕に力を籠め、体に纏っている『聖光気』の技に全霊を注ぎ込んだ。


 ミシリ、と音がした。次の瞬間、凄まじい音と手応えとともに顎の一部が砕ける。古代龍が驚愕したように動きを止め、刹那、顎の力が緩んだ――いまだ!


 振り上げた拳を力いっぱい叩きこむ。ぎっちりとかみ合わされていた牙が数本、さらに砕け散る。その奥の赤い闇のなかに、白く細い腕が見える――。


「――ルシカ!」


 テロンは叫ぶと同時に自分の腕を隙間から突っ込んだ。脚を突っ張って体を固定する。指先がすべらかな肌に当たる。必死で掴むと、手のひらにしなやかな感触が伝わってきた。


 テロンはルシカの体を引きずり出すと同時に、しっかりと腕に抱えこんだ。ぐったりとりかける細い首を支え、そのまま巨大な顎を蹴るようにして大地に跳ぶ。


 どうか無事でいてくれ……祈るような想いで胸が張り裂けそうだった。温かい――弱々しくともはっきりとした彼女の鼓動が伝わってくる。テロンは安堵した――ルシカは生きているのだ!


「あとは任せろッ! 早くルシカを!」


「すまない……!」


 入れ違うようにクルーガーが剣を構えて跳躍していた。テロンの背後でギィンという凄まじい音が二度響く。同時にバキリ、と何かが立て続けに折れる音も響いてきた。


 テロンは全身をバネにして地面に降り立った。かなりの高さであったが、腕の中のルシカの体に負担ひとつ感じさせないよう気を配って。だが、ぬるりと滑る感触に背筋が冷たくなる。慌てて彼女の体を見た。


 ルシカの脇腹に噛みあわされたときの牙による傷が穿たれ、大量の血が流れていたのだ。伏せられたまぶたは動かない。顔色がひどく蒼ざめている――失血によるショックかもしれない。


「急がなければ……!」


 テロンに癒しのすべはない。自らも蒼白になりながら慌てて術者を求めて立ち上がろうとしたとき、目の前に白い司祭衣がふわりと揺れた。駆け寄ってきたのは、戦場にあっても海のように落ち着いた眼差しをした黒髪の女性。胸には『癒しの神』ファシエルの聖印がある。膝をついてルシカの顔と傷を覗き込むその人物は――。


「大丈夫です、テロン殿下。落ち着いて――ルシカは必ず助けます」


 ファシエル神殿の司祭シャールは胸にある聖印に片手を当て、もう一方をルシカの横腹の傷に手を当てた。かつて一緒に戦ったこともある仲間であり、ルシカにとって姉のような女性だ。


「『癒しの神』ファシエルよ……」


 祈りの言葉とともに白くあたたかな光が手のひらからあふれ、ルシカの傷から流れ続けていた血が止まる。痛ましかった傷口が元通りのすべらかな肌に戻っていく。『神聖魔法』と呼ばれる、魔術や魔導とは別種の魔法だ。神界に住まうという神々の力を借り受けて為し得る、大いなる奇跡。シャールが行使したのは司祭クラス以上の者にのみ許される『完全治癒パーフェクトヒーリング』だ。


 テロンは安堵のあまりルシカを抱きしめた。その様子を見て、シャールが微笑む。


「よかった……。ファンから直接来たのですが、遅くなってしまい、すみませんでした」


「いや。本当にありがとう……助かったよ」


「コぉぉぉラぁそこッ!! なっさけねぇツラしてんじゃねぇぞッ!」


 甲高い声で叫びながら腰にジャラジャラと提げた魔石をまさぐって幾つかを掴み、鎖ごと引きちぎって宙に放り投げたのは、赤みがかった金髪と派手な魔法衣の男だ。頭上で魔石に封じ込められていた護りの魔術と『速詠唱』のための力場が展開される。魔術師メルゾーンだ。リューナの両親であり、ファンの町に住んでいたはずだが、妻であるシャールとともに駆けつけてくれたらしい。


 腕のなかでルシカが眼を開いた。


「……ん。テロン……シャールさん?」


 その顔に温かないろが戻っているのを見て口もとを緩め、テロンは思わず彼女の頬に手を添えた。


「ルシカ。良かった……すまない。俺のせいで」


「ううん、あなたも――」


 ルシカは瞳を潤ませてテロンの首に腕を回した。そして自分の足で立ち上がり、頭上を飛ぶ魔術に気づいて空を見上げる。メルゾーンが素早く詠唱を完成させ、相も変わらずド派手な魔法攻撃を古代龍にぶつけているのだ。


「メルゾーンっ! 無駄に魔力マナを使い過ぎなの、魔法使いが敵の注意を惹きつけてどーすんのよっ」


「んだとコラあッ! 喰われかけて伸びてたヤツが言うんじゃねぇぞッ!!」


「むむむっ。油断しただけだもん!」


 いつもの掛け合いがはじまった、その光景を見ていたのであろう。跳躍していたクルーガーから茶化すような声がかかる。


「どこかのヒーロー張りに遅かったなァ、魔術学園の園長さん!」


「学園長と言えッ! どこかの保育園かと間違われちまうだろうがッ!」


 古代龍に剣を突きたてる国王陛下に語気荒く言い返し、メルゾーンは周囲をぐるりと見渡して声を張り上げた。


「リューナはどうしたッ? まったくアイツときたら、書置きひとつで何日も平気で家を空けやがってッ!」


「あら。そういうあなたも若い頃、十年以上お家を空けてらしたじゃありませんか。書置きひとつありませんでしたけれど」


 いつもと変わらぬシャールの朗らかな声と笑顔に、わめき続けていたメルゾーンの背中がビシッと真っ直ぐになる。その間にもクルーガーは剣を振りながら地面と古代龍の巨躯との間を往復していたが、テロンには兄が呆れたようにため息をついたのが気配でわかった。同時にニヤリと笑っていただろうことも。


 苦笑しつつ周囲を見回したテロンは、さらに気づいた。駆けつけてくれたのが、彼らだけではなかったことを。


「まったくもうっ。なごんでいる場合じゃないでしょ? おじさんたち!」


「お待たせしました。いやぁ~、ミディアルからここまで近いようでずいぶんと遠いんですねぇ」


 威勢のよい声とのんびりした声にテロンが目を向けると、そこには可憐な異国風の衣装を纏った短剣使いと、息を切らしたエルフの魔術師が立っていた。リーファとティアヌだ。さらに、ふたりの背後からは――。


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