古代龍と時の翼 9-12 ふたつの意思

 だが、ぱたぱたと軽い足音とともに駆けてきた彼の愛妻ルシカは、落ち着いた表情をしていた。


 いつものような元気と明るい笑顔とはいえないが、少なくとも取り乱してはいない。それでも幾分かあおい顔色をしていて、テロンと眼が合うとホッと安堵したように口元を緩めた。扉口で一度足を止め、部屋のなかの状況を見回す。


「ルシカ。いいのか、もう」


「ええ、もう平気よ、テロン。ごめんなさい」


 相手に心配をかけたことで申し訳ない気持ちになってしまう、そんな彼女らしい心遣いはいまでも変わっていない。テロンが伸ばした腕に手を添えるようにして口元を微笑ませ、ルシカは夫である彼の傍に立った。


「ルシカ……」


 あまりにも彼女をよく理解しているテロンは、その微笑の内に隠されている疲労に気づいた。思わず言葉をつむぎかけるが、その瞳のなかにある輝きを見て口を閉ざしてしまう。


 クルーガーとマイナのり取り、そして数歩離れた場所にたたずんでいるルーファスの表情で、ルシカはすぐに事情を察したようだった。


 彼女は口元を引き締め、王国の護り手である宮廷魔導士の顔になった。


「――待って、クルーガー。いま現地には行かないでほしいの」


 細いがしっかりとした声が部屋に響き、見つめ合っていたクルーガーとマイナが彼女に顔を向けた。テロンはルシカの声音に尋常ではない響きを感じ、怪訝けげんに思った。周囲に視線を巡らせる。そういえば、母であるルシカの傍らについていてくれと頼んだはずの娘トルテの姿がない。


「何か――あったのか」


「ええ……テロン。あなたに……いえ、クルーガーにも話しておかなければならないことができたの」


「トルテがどうかしたのか?」


 テロンの言葉に、ルシカが眼をあげた。ふたりの視線が交じり合う――互いの瞳には相手を案じている想いが透かし見えている。緊張に強張っていたルシカの表情が、ぐっとやわらいだものになった。


「さっきトルテと話したの。リューナが戻り次第、あの子たちは、あの子たちの事情ですぐに出発すると思うわ。それでね、あたしがトルテに伝えられたことで気になることがあって……それらすべてを考慮して判断したのよ。塔のある場所まで今すぐ行く必要はない――塔も、あの魔導士の少女も、しばらくは心配ないわ」


「どういうことだ? 俺たちにもわかるように説明してくれ」


 かがめていた上体を起こし、クルーガーがいたように説明を促した。腕のなかのマイナも、身を乗り出すようにして話に聞き入っている。


「判断した理由はふたつあるの。まずひとつ――さっき『透視クレアボヤンス』でザルバーンに視線を飛ばしたとき、飛翔族の魔導士とあたしの意識が繋がったの。ほんの刹那の邂逅だったけれど、あたしたちが通じ合ったとき、気配減じのまじないを伝えておいたわ」


「通じ合った……だと?」


「ええ。互いが魔導士だからなのか、それとも別の理由があるのかはわからないけれど……いまでも微かにだけれど繋がっていて、彼女が無事なのはわかる。それから……古代龍には、彼女を捕らえるよりも先に手に入れなければならないものができたらしいから」


 言葉の後半を口にするとき、ルシカの声が表情が厳しいものに変わっていた。


「先に手に入れなければならないもの……?」


 マイナが反芻はんすうするようにつぶやいた。テロンはふいに思い当たった。さきほど錫杖の構成データが完全に消去されている件について論じていたとき、兄の言葉に引っ掛かったものがあったのだ。


「――ルシカ。それはまさか、俺たちが今朝ミディアルに届けた、あの魔晶石のことではないのか」


「そう、それがふたつめの理由なの」


 ルシカはテロンの言葉に頷き、説明を続けた。


「古代龍がいま狙っているものは、過去の記憶を正確に再現できる『時』の力を持った魔晶石よ。生き物はもちろん、物質や空間が記憶している事象を寸分たがう事なく再現できる結晶体。それはあたしが作れるような簡単なものではなく、おじいちゃん――『時空間』の力を持った魔導士が手間と時間をかけて作り出すような、確かな力を持った品。そう――あたしたちが今朝ミディアルに届けてきた、あの魔晶石なのよ」


 テロンはごくりと唾を呑み込んだ。


「では――古代龍は次にあの都市を襲うというのか」


 また、あの都市で未曾有みぞうの犠牲者が出るというのか――十五年前と同じように。テロンはこぶしを握り、奥歯を噛みしめた。同じ想いを抱えているのだろう、ルシカも苦しそうに顔を伏せている。だが、彼女はすぐに顎をあげ、はっきりとした口調で言葉を続けた。


「その可能性が高いわ。古代龍は、今この瞬間にも動き出そうとしているかもしれない。だから――塔やザルバーンに向かうより先に、ミディアルに急がなくちゃ!」


「だが……どうしてそんなことがわかったんだ?」


 その怖ろしい可能性に、国王であるクルーガーが半ば呆然となりながら問うた。


 『大陸中央都市』の異名を持つミディアルは、陸上交易の拠点として凄まじいまでの人口を抱えている大都市である。もともと都市に住んでいる者はもちろんだが、ひっきりなしに訪れる隊商の数も半端ではないのだ。そのすべての民の避難や防衛のための時間が確保できるとは、到底考えられなかったからである。


「トルテとリューナが偶然に、ある文献に書き残されていたメッセージを受け取ったの――」


 ルシカが説明する時間も惜しいといわんばかりに淀みなく語りはじめる。テロンは話が進むにつれて、夏の午後だというのにその部屋の温度が真冬のそれにまで下がったかような、強烈な寒気を感じていた。





「トルテ!」


 背後からかけられた声に、トルテは弾かれたように勢いよく振り返った。高い位置で結い上げられた金色のツインテールがさらりと揺れて広がり、中央広間を満たしていた明るい光のなかできらめいた。


「リューナ、おかえりなさいっ」


 実家であるファンの町の魔術学園から戻ってきたリューナの手には、しっかりと『歴史の宝珠』が握られていた。古代に栄えし魔法王国の後期に生きた『時間』の魔導士ハイラプラスが造り遺した『時間移動タイムトラベル装置エキップメント』である。


 トルテがリューナのもとに駆け走ってくる。


「――っと、あぶねぇって!」


 リューナは、目の前でつんのめった彼女の体を踏み込むようにして胸に抱きとめ、ホッと息をついた。トルテのきれいな髪が目の前で揺れ、甘やかな香りに鼻をくすぐられて思わず頬が熱くなる。


 だが、そんな場合じゃないとすぐに思い直し、リューナは幼なじみの細い体を自分の胸から支え起こした。


「大丈夫か?」


「うん。ありがとう、リューナ。『歴史の宝珠』はすぐに見つかったのですね」


「ああ。親父に姿を見られるといろいろ面倒だったから、おかげでちょっと手間取ったけど、結果オーライだ」


 手元を覗き込むトルテに見えるよう握りこんでいた手のひらを開きながら、リューナは周囲に視線を向けた。大臣たちをはじめ、兵や文官たちが忙しそうに走り回っている。


「何かあったのか? やけに騒々しいみたいだけど」


「うん……あたしも詳しくは聞かされていないんですけど、さきほどルシカかあさまが魔力マナを使い過ぎて休んでいましたから、何かあったのは確実だと思います」


「何だかよくわからないけど、そんな状況で俺たち出発していいんだろうか――」


「ルシカかあさまは、こちらのことは心配しないでいい、と言っていましたけれど……あっ、待ってください、リューナ――何処へ行くんですか?」


「国王はこの上の執務室なんだろ? きちんとこちらの事情を説明してから、宝珠を発動させたいんだ」


 リューナは急ぎ足で歩き出したが、トルテがついてくるのに気づいてすぐに立ち止まり、彼女の手を握って再び歩き出した。


 周囲の状況は尋常ではない。でっかく肥えた腹を揺すっていつも大儀そうに歩いているニルアード大臣までもが、血相を変えて走っていったのを目撃したのである。


 リューナは深海の色をした眼を鋭くせばめた――ゼッテー普通じゃねぇぞ、これ。俺がちょっと居なかった間に、いったいぜんたい何が起こったんだ?


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