従僕の錫杖 8-46 動きはじめた思惑

 ミディアルの中央にある都市管理庁の上階にある一室で、ルシカとシャールが話し込んでいた。


「――そうなの。テロンってば、赤ちゃんがいるってわかったら、あたしのおなかに触れるのもおっかなびっくりになっちゃって」


「そんなものですよ、男の人って。女性にとっては自然に受け入れられるものですけれど、生まれて外に出てきたのを見てはじめて、子どもができたって実感するみたいです」


「マルムがよく言っていたわ。父親というものは、子どもとともに『親』として育ってゆくんだなって。そう言ったあと照れたように笑ってたっけ。何かあったりするのかなぁ」


 戻ったらさっそく問い詰めていろんな話を聞きださなきゃ、とルシカが笑い、ベッドの傍らの椅子に座ったシャールも「あらあら」と言いながら口に手を当てて笑った。


 ひとしきりお喋りを楽しんだあと、ルシカは窓の外に目を向けた。


「そろそろ『道』に入る頃かしら、テロンたち……」


「そうですね」


 シャールは立ち上がり、窓に歩み寄った。南向きの窓の外には、フェンリル山脈の黒い影がまるで屏風か壁のように連なり広がって、星降る夜空を地平の遥か上方で切り取っている。だが今宵は星明かりが強く、雪に輝く高峰の頂上や稜線が、黒い影を縁取るように銀の線を鮮やかに浮かび上がらせていた。


「なんだか私たちの世界とは無縁の場所のように見えます。不思議で美しい……とても遠い場所のように思えますわ」


 シャールが嘆息し、ルシカも同意するように頷いた。


「そうね。……装置がまだ無事に動いてくれるといいんだけど、こればかりは行ってみないとわからないから」


 ベッドに上体を起こしてクッションを背中にあてがったルシカが、シャールの視線を追って窓の向こうに揺れる瞳を向けた。遥か先にある星明りの銀に彩られた場所を見つめながら、言葉を続ける。


「――あそこに解放の方法があったことはわかっている。けれど詳細な情報は、実際に行ってみて装置を調べてみないと判断できない。けれど方法があるなら、あたしが絶対に叶えてみせる」


 瞳に力を込め、ルシカが静かに言い切った。それは自信ではない……切実な願いだった。仲間のための決意だった。


「ルシカ……」


 窓から振り返ったシャールが、実の妹のようにその身を案じている娘に視線を向ける。


「あのね、ルシカ。あなたの体は、もうすでにあなただけのものではないのですよ。それを言うならテロン殿下と結婚したときから、もう――」


 言いかけたシャールだったが、最後まで言い終えることはできなかった。


 ドンッ!!


 突然、部屋の入り口の扉が激しく叩かれたのだ。続いて、ズルリ、と何かが滑り落ちる音と、ドサリという重たいものが倒れ伏す音。


 ルシカとシャールの顔色が変わる。


 扉が、音もなく開いた。廊下を照らしていた明かりが消えている。黒く背の高い人物が静かに部屋に入ってきた。闇のように黒一色の装束、頭巾フードまで被っているので、その顔はうかがい知れない。


 だが、相手の体内を巡る魔導の流れを視ることのできるルシカには、その人物が誰であるのかはっきりとわかった。


「あなたは、カーウェンね」


 低く断言するように、相手の名前を鋭く囁いた。


「いかにも」


 黒衣をまとった男が答えて腕を上げ、頭巾フードを背に滑り落とす。ベッドの側に灯された明かりの届く範囲まで歩みを進めた顔は、確かにカーウェンと名乗った男のものであった。


「我が名はカーウェン。だが、それは偽りの名だ」


 クッとわらうように唇を歪め、端正な顔立ちの男は恐れ気もなく部屋の中央まで侵入した。窓の傍に立ったまま、静かに精神を集中し胸の聖印に手を当てていた女性に、紅い瞳を向けて言う。


「そこの女、妙な真似をするんじゃないぞ。癒し手であるファシエルの攻撃魔法なぞ、たかが知れている。それが高位司祭の放ったものであったとしても、我を押し止めることは敵わぬ」


 シャールは常日頃には決してみせない鋭い視線で、相手の男を見つめた。悔しいが、男の言葉が真実であることは彼女にもわかっている。だが――彼女は視線を僅かに動かして、男からもはや数歩も離れていない、ベッドの上のルシカの姿を見た。


「――ルシカに指一本でも触れたら、私の身を犠牲にしてでもあなたに神の裁きを受けてもらいます。あなたからは邪悪な気配がしますから」


「邪悪?」


 フン、と男は鼻で嗤った。


「何が正義で何が邪悪であるかなど、どちらの側に立っているかで見かたは変わるものだ。正義に反するものは悪ではない――反正義だ。我の本当の目的が何なのか、おまえにはわかるまいが、邪魔立てするなら容赦はせぬぞ……!」


 緊迫するシャールとカーウェンの間で、ルシカが静かな声を出した。


「シャールさん。……頼みがあります」


「ルシカ?」


 シャールは魔導士の少女に再び視線を向けた。油断なく目の前の男の動きにも注意を払いながら。


 ルシカは、開け放たれたままの扉に目を向けていた。オレンジ色を瞳に強い光を宿し、優しげな眉を撥ね上げりんとした表情で。


「――ゴードンさんに癒しの力を行使してください。いまならまだ助かる。どうかお願い、シャールさん。ルーナさんを独りにしないで」


 見れば光の届かぬ暗い廊下に、大きな体が倒れ伏している。宮廷魔導士の警護をしていた王宮の直属兵――ルーナとの結婚を控えているゴードンの体だ。その周囲に、大量の血だまりが広がりつつあった。


「ルシカ……」


 シャールは一瞬迷ったが、ルシカの声音とその表情に、心決めたように決然とした足取りで扉の向こうに駆けて行った。シャールが男の傍を駆け抜けるとき、ルシカが魔導の気配を強めて男の動きに抑制をかける。


「……ほう」


 男は動かなかった。ファシエルの司祭が廊下に出るのを黙って見届け、その扉を無造作に手を振って魔導の力でぴたりと閉じる。


「優しいな、『万色』の力を持つ魔導士。さすがはみなに愛されて育った娘、といったところか。時にその優しさは、命取りともなるだろうが――な」


 カツン、カツン。男のブーツが、よく磨かれた床に足音を立てる。廊下からの声や呼びかけが、ルシカの耳には遠いものに感じられた。


「何が、あなたの望みなの?」


 ルシカは静かに問うた。白い顎を持ち上げ首を仰け反らせるようにして、ベッドの傍まで歩み寄った背の高い男の、紅い瞳を恐れ気もなく見上げる。


「我の望みはただひとつ。そなたが承諾してくれようが、なかろうが、我にとっては関係ない」


「嫌だと言ったら?」  


「――関係ないと言ったはずだ」


 男が短く息を吐き、片腕を掲げて赤く輝く魔法陣を描く。そしてルシカに覆いかぶさるように身をかがめた。


 ズズズズズンッ!! ガッシャアァァーーン……。


 都市管理庁の建物を激しい衝撃が貫いた。何かが吹き飛び砕ける音が同時に響き渡る。


 ようやく廊下から続く扉が開いた。魔導の気配が濃厚に残る部屋に駆け込んだシャールと、その背後で立ち上がったゴードンが見たものは――上掛けが跳ね除けられ乱れたベッド、そして窓にはめ込まれていた硝子ガラスが一面に散乱した床。黒衣の男の姿は何処どこにもなかった。


 むろん、ルシカの姿も。


「なんてこと……」


 呆然と言葉を発し、シャールがぺたんと床に座り込む。


 窓の外に広がる空には、流星群が山脈に向かって星空を渡っていた。


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