従僕の錫杖 8-45 動きはじめた思惑
ルシカを残していく部屋の扉の外で、テロンは兵士のひとりと話していた。
「はい。ルシカ様の護りは、おまかせください、テロン様」
宮廷魔導士の警護のための直属兵は、はっきりとした声で言い、背筋を伸ばした。ゴードンという名で、近々結婚を控えているということだ。いつぞや宮廷魔導士が極寒の海に落ちたとき、率先して飛び込み救出した兵だとテロンも伝え聞いている。確か、祭りの日にも会っていた。
「ああ。どうかよろしく頼む」
テロンは頷いた。ルシカを残していくのは心配であったが、ルシカ自身に頼まれてしまったのだ――クルーガーとマイナたちの旅を見届け、『転移』のための門を確実に開いて欲しい、と。
妻の周囲にできうる限りの警護をつけ、建物と部屋にいくつもの結界を張った。傍にはシャールもついている。
そう、大丈夫なはずだ。……だが、やはり不安な思いが消えない。
部屋の中に戻り、出立までのせめてもの時間を一緒に過ごしていたいとルシカの傍についてもなお、テロンは考えを巡らせていた。
「テロン」
その声にテロンはハッと視線を向けた。手を伸ばしたルシカが心配そうな表情でベッドの傍らに立つ夫の服の裾を引っ張っていた。テロンが身を
「こちらのことは気にしないで。それより気をつけてね。あぁ、ほら、メルゾーンが居るんだし」
「――敵じゃなく仲間に気をつけろって。ひどいな、それは」
テロンは笑った。笑うと、不安が薄れた。テロンはようやく口元を引き締め、妻の頬にキスを返した。
「うん。じゃあ、待っていてくれ。必ず迎えに戻るから」
「はい。おとなしく待ってるね」
ルシカは微笑んだ。南向きの部屋全体に、あたたかい午後の日差しがあふれている。ノックの音がして、扉の向こうから部屋に入ってきたシャールが頭を下げた。
「夫のこと、よろしくお願いします」
「はい。決して無茶はさせませんから」
どちらが言うべき台詞なのかなと考えながら妻に目を向けたテロンが答えると、ルシカが瞬きをして彼を見上げていた。どちらからともなく微笑み、相手を元気づけるための笑顔を作った。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
ふたりで行動することが当たり前となっているので、それは普段にはない遣り取りだった。それを噛みしめる思いで、テロンは小さく手を振るルシカの姿に背を向けた。
星降る夜、とはきっとこのことだろう――クルーガーはそんなことを考えながら、木々の間から見える夜空の下を歩いていた。
満天の星空は、まるで漆黒の
昨夜の極大期を過ぎてもなお、その方向から降る流星の数はかなりのものだ。背後に
星界と呼ばれるものは、いったいどのような場所なのだろう――クルーガーが思いを巡らせようとしたとき、進む先に探していた相手の後ろ姿を見つけた。
「マイナ」
足音で驚かせないよう、声を掛けてからゆっくりと歩み寄った。
「どうした? ひとりで居ると、夜のアルベルトは危険だぞ――と言いたいところだが、昨日の戦闘で魔獣の数が減っているのと、アイツがいるから大丈夫か」
アイツ、と言いながら、クルーガーは少し離れた場所の茂みに視線を向けてみせた。そこには、マイナの『使魔』で仲間となったプニールが、従者よろしく
「さすがは剣士さま、ですね」
振り返ったマイナがにっこりと笑い、背の高いクルーガーを見上げた。
倒れた大樹の幹の上で膝を抱えるように座るマイナの横に、クルーガーも並ぶように腰を降ろした。星明かりの下、静かな森のなかの空き地。背後にはフェンリル山脈の北壁が、唐突に森を終わらせている。街道からは離れたこの場所近くに、山脈の内部にあるという遺跡まで到達するための『道』があるというのだ。
テロンとティアヌ、リーファ、そしてルシカの代わりに加わったメルゾーンの四人は、北壁にほど近い場所でしばしの休息を取っている。仮眠を取っていたマイナがひとりその場から離れ、すぐに戻ってこなかったので心配になったクルーガーが気配を追って探しにきたというわけだ。
「――泣いていたのか」
少女の頬に涙の跡があることに、クルーガーが気づいた。
「はい。いろいろありすぎて、心が追いつかなくなっちゃいまして」
「そうか」
クルーガーとマイナは並んで腰を下ろしたまま、夜空を見た。遥か上の天蓋に引っ掛かり燃え流れる星屑が、幾筋も光の線を描いていった。
「……あっ、あの!」
突然、息急き喉を詰まらせるように発せられたマイナの声に、クルーガーは顔を向けた。少女は
「あの……、胸の傷、痛みますか? あたしのせいで、ほんとにごめんなさいっ!」
そんなことか、とクルーガーは笑った。
「大丈夫だ。傷は残っていない。ルシカの癒しが間に合ったから」
マイナはホッと息を吐いた。心底安堵したように。
「良かった……。ルシカさんはすごいです。強いです。わたしにはぜんぜん想像もつかないくらいにいろいろできて」
「あいつは特別だよ。力と知識に関しては、特別だ。……ゆえに苦しみもひとよりたくさん抱えているがな。……だがひととして特別強いわけではない」
クルーガーは視線を落とし、足元に伸びる草や木の芽を見つめた。
「魔導士であること、そうでない普通の人生、そんな選択はルシカにとって論外だ。生まれながらの運命だからな。けれど、それは君にとっても同じことがいえると思う。古代の遺産を体内に封印されている運命なんて、自分で選べたものではなかっただろう?」
「――はい」
「まあ、俺も同じだけどな。王の息子に生まれたこと、自分で選んだという覚えはない。けれど、これが俺の生きる道なのだ。投げ出すつもりはない」
クルーガーは静かに微笑み、マイナに視線を戻した。
少女は透きとおった瞳を真っ直ぐに彼に向けていた。目が合うとどきりとしたように肩を震わせ、自分の胸元を掴み、目を伏せた。
「……マイナっていう名前、おかあさんが考えたそうです」
少女が聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの声で囁くように言った。瞳を上げて
「ふたりが出逢った場所の名前を、幸せだった土地を忘れないようにって――おかあさんには、いつかあそこを離れなければならないってわかっていたのかもしれません」
遠く離れたマイナムにある教会、父と過ごした我が家――だがもう、家も父も、そして母も居ない場所。……それらを思い出しているのだろうか、少女の瞳はクルーガーや星空よりもずっと遠い場所を見ているようだった。
「錫杖から解放されても、わたしにはもう何も残っていません。それなのに、たくさんの人々に迷惑をかけて……あなたやみんなを巻き込んで危険に晒して……。わたし、これでいいのでしょうか。そんなことを考えてしまって、これから向かう場所もきっともっと危険なのに、みんな――」
「――何も残っていない?」
クルーガーは言った。厳しい声で。自分で発したその声に突かれるように、傍らの少女の体を力いっぱい抱きしめる。
「え、あ。……く、クルーガー」
戸惑ったように見上げるマイナの唇に、クルーガーは自分の唇を押しつけた。力と想いの込められたキスに、マイナは目をいっぱいに開き……そしてゆっくりと閉じた。震える少女の背中に青年が腕を回し、
「俺が居る。それに、俺も仲間もみな、巻き込まれているわけではないぞ」
顔をあげたクルーガーが、マイナの頬に手を添えて決然と言った。涼やかな声が低く響き、周囲の
「護りたいだけだ、大切な相手を。俺は、愛する者を護りたい。それだけでは――理由にならないのか?」
マイナの瞳に涙の雫が静かに盛り上がった。
「ほんとに、ほんとに良いの?」
おののくまぶたを伏せながら、マイナが尋ねる。目の前にある青い衣服の胸元を、きゅっと握りしめながら。
「あなたは……王なのに。この国を治める、国王なのに」
「国王だからと、断られるのか? 確かに窮屈な立場にあるかもしれん。だが、それが障害になるというのは納得できないぞ。俺は、俺なのだから。それも全部ひっくるめて、
マイナはくしゃりと泣き顔になった。顔を上げ、弱々しげに、だがきっぱりと答えた。
「そんなことありません。わたしは、あなたに惹かれています――正直な気持ち、あなたが好きなんです……!」
ホッとした若き王は穏やかな表情になり、少女の体を抱きしめた。首にしがみついてくる少女の背中を何度も撫で、落ち着かせると、改めてまた唇を重ねた。
茂みで見守っていた魔獣が小さく鼻を鳴らしたが、ふたりの邪魔をしようとはしなかった。
その頭上では、多くの燃える光が天空を渡っている。遠くからふたりを呼ぶ仲間たちの声が聞こえるまで、ふたつの影が離れることはなかった。
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